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四話


僕と美琴は病室に入った。薄暗い部屋に漂う消毒液の匂いが鼻をつき、静かに響く機械の音が耳に届く。


窓から差し込む夕陽がカーテンを淡く染め、ベッドに横たわる母の寝顔を優しく照らしていた。


脇に置かれたカーネーションが、ほのかな甘い香りを漂わせ、静寂に彩りを添えている。


「母さん、来たよ。僕が定期的に話す女の子、美琴を連れてきたんだ。」


母の穏やかな寝顔を見ながらそう伝え、隣に立つ美琴に視線を移した。


——だが、その瞬間、息を呑んだ。


美琴は部屋の入口に立ち尽くしたままだった。


彼女の瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ、頬を伝って床に落ちる。


夕陽に光る涙の軌跡が、まるで壊れた糸のように揺れ、彼女の肩が細かく震えていた。


膝が崩れそうになり、両手で顔を覆うようにして、嗚咽が漏れる。


抑えきれず溢れる涙が、静かな病室に小さく響き、僕の心を締め付けた。


「み、美琴!?」


突然のことに、僕は困惑する。


こんな風に美琴が泣いている姿なんて、今まで一度も見たことがなかった。


それも、肩を震わせ、膝をつくほどに泣き崩れている。

彼女の白い指が顔を隠し、こらえきれず漏れる嗚咽が、病室の静寂を切り裂くようだった。


「ど、どうしたの?」


そっと近づき、彼女の背中に手を置く。


震える肩に触れると、わずかにその震えが収まった気がした。


でも、涙は止まらず、彼女の呼吸はまだ乱れている。


僕はただ立ち尽くし、彼女の小さな背中を見つめるしかなかった。


カーテンが風に揺れ、夕陽が彼女の涙に反射して、まるで光の粒が舞うように見えた。


それから10分ほどが過ぎ——。


ようやく美琴の呼吸が落ち着き、涙で濡れた顔を上げ、か細い声で呟いた。


「……すみません、悠斗君……」


「大丈夫……? 何があったの?」


問いかけると、美琴はまだ涙の残る瞳で僕を見つめ、静かに言った。


「悠斗君……この方は、私の命の恩人なんです……。」


──え?


その言葉に、僕の思考が一瞬停止する。頭が真っ白になり、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。


「え……それって、一体……どういうこと?」


声が掠れ、混乱が頭を支配する。


美琴は目を伏せ、深呼吸を一つしてから、震える声で話し始めた。


「私の故郷は、地図にも載らない辺境の村……蛇琴村といいます。」


「蛇琴村……」


その名前を口にすると、美琴はゆっくりと頷いた。


「はい……私と両親は、その村の近くで私の霊力を鍛える修行をしていました。


だけど——そのとき、とても強い怨霊に襲われてしまったんです。」


彼女の声は震えていた。それでも、言葉を紡ごうとする瞳には強い決意が宿っている。


僕は…胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。


霊力を鍛える修行中に霊に襲われる——それは、僕が母に霊との向き合い方を教わった直後に襲われた過去と、どこか重なっていた。


「その時……私を除いて、両親は亡くなりました。」


静かに告げられた事実が、胸に重くのしかかる。


美琴は僕よりずっと前に両親を失っていた。その想像を絶する苦しみに、僕は何も言えなかった。


ただ、彼女の言葉を聞くことしかできない。


「でも、その時……悠斗君の、お母様が私を助けてくれたんです。」


「——えっ?」


その言葉に、全身が硬直する。


心臓が一瞬止まったかと思うほど、衝撃が走った。


「母さんが……?」


そんな話、一度も聞いたことがない。驚きと混乱が頭を支配し、声が掠れた。


「そんな……それは、何年前のことなの?」


「私も幼かったので、正確には分かりません。ですが……おそらく11年か12年前のことです。」


11、12年前——それは、母さんが幽霊に襲われた1、2年前に当たる。頭の中で時間が繋がり始め、ざわめきが広がった。


「悠斗君のお母様……いえ、遥さんは、私を蛇琴村まで送り届けてくれました。そして、村に2日間ほど滞在してくださったんです。きっと、両親を失った私に寄り添ってくれたんだと思います……。」


──遥さん。


美琴は、僕の母の名前を迷うことなく口にした。その確信に満ちた響きが、この話の信憑性を何よりも裏付けていた。そして僕も——思い出した。


母が、ある日突然「遠出をしてくる」とだけ言い、3日間ほど家を空けたことがあった。


その時、僕はまだ幼く、母の不在に寂しさを感じたけれど、詳しく聞くことはできなかった。


帰ってきた母の顔は疲れていたのに、どこか穏やかで、僕にはその理由が分からなかった。


──もしかして、あの時に……美琴を助けていたのか?


「遥さんは、その2日間で霊との向き合い方を教えてくれました。だから……私の今の霊への接し方は、遥さんの影響を受けたものなんです。」


美琴が、母さんの影響を? その瞬間、一つの点が線になった。


──廃病院で…いやそれ以外にも、美琴の霊との関わり方には母さんの面影を感じた。


それは、決して偶然なんかじゃなかった。美琴の言葉や振る舞いが、どこか母と似ていたのは、彼女が僕の母の教えを受け継いでいたからだったんだ。


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。喉が熱くなり、視界がぼやけ始めた。


美琴との出会いも……偶然なんかじゃなかった。


母が、かつて美琴を救い、導いた。そして今、美琴が僕を導いてくれている。


それはきっと、ただの巡り合わせなんかじゃなくて……。


気づけば、僕の目にも涙が滲んでいた。母の寝顔と美琴の涙を見つめながら、静かな病室にその言葉が溶けていった。




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