僕と美琴は病室に入った。薄暗い部屋に漂う消毒液の匂いが鼻をつき、静かに響く機械の音が耳に届く。
窓から差し込む夕陽がカーテンを淡く染め、ベッドに横たわる母の寝顔を優しく照らしていた。
脇に置かれたカーネーションが、ほのかな甘い香りを漂わせ、静寂に彩りを添えている。
「母さん、来たよ。僕が定期的に話す女の子、美琴を連れてきたんだ。」
母の穏やかな寝顔を見ながらそう伝え、隣に立つ美琴に視線を移した。
——だが、その瞬間、息を呑んだ。
美琴は部屋の入口に立ち尽くしたままだった。
彼女の瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ、頬を伝って床に落ちる。
夕陽に光る涙の軌跡が、まるで壊れた糸のように揺れ、彼女の肩が細かく震えていた。
膝が崩れそうになり、両手で顔を覆うようにして、嗚咽が漏れる。
抑えきれず溢れる涙が、静かな病室に小さく響き、僕の心を締め付けた。
「み、美琴!?」
突然のことに、僕は困惑する。
こんな風に美琴が泣いている姿なんて、今まで一度も見たことがなかった。
それも、肩を震わせ、膝をつくほどに泣き崩れている。
彼女の白い指が顔を隠し、こらえきれず漏れる嗚咽が、病室の静寂を切り裂くようだった。
「ど、どうしたの?」
そっと近づき、彼女の背中に手を置く。
震える肩に触れると、わずかにその震えが収まった気がした。
でも、涙は止まらず、彼女の呼吸はまだ乱れている。
僕はただ立ち尽くし、彼女の小さな背中を見つめるしかなかった。
カーテンが風に揺れ、夕陽が彼女の涙に反射して、まるで光の粒が舞うように見えた。
それから10分ほどが過ぎ——。
ようやく美琴の呼吸が落ち着き、涙で濡れた顔を上げ、か細い声で呟いた。
「……すみません、悠斗君……」
「大丈夫……? 何があったの?」
問いかけると、美琴はまだ涙の残る瞳で僕を見つめ、静かに言った。
「悠斗君……この方は、私の命の恩人なんです……。」
──え?
その言葉に、僕の思考が一瞬停止する。頭が真っ白になり、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「え……それって、一体……どういうこと?」
声が掠れ、混乱が頭を支配する。
美琴は目を伏せ、深呼吸を一つしてから、震える声で話し始めた。
「私の故郷は、地図にも載らない辺境の村……蛇琴村といいます。」
「蛇琴村……」
その名前を口にすると、美琴はゆっくりと頷いた。
「はい……私と両親は、その村の近くで私の霊力を鍛える修行をしていました。
だけど——そのとき、とても強い怨霊に襲われてしまったんです。」
彼女の声は震えていた。それでも、言葉を紡ごうとする瞳には強い決意が宿っている。
僕は…胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。
霊力を鍛える修行中に霊に襲われる——それは、僕が母に霊との向き合い方を教わった直後に襲われた過去と、どこか重なっていた。
「その時……私を除いて、両親は亡くなりました。」
静かに告げられた事実が、胸に重くのしかかる。
美琴は僕よりずっと前に両親を失っていた。その想像を絶する苦しみに、僕は何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉を聞くことしかできない。
「でも、その時……悠斗君の、お母様が私を助けてくれたんです。」
「——えっ?」
その言葉に、全身が硬直する。
心臓が一瞬止まったかと思うほど、衝撃が走った。
「母さんが……?」
そんな話、一度も聞いたことがない。驚きと混乱が頭を支配し、声が掠れた。
「そんな……それは、何年前のことなの?」
「私も幼かったので、正確には分かりません。ですが……おそらく11年か12年前のことです。」
11、12年前——それは、母さんが幽霊に襲われた1、2年前に当たる。頭の中で時間が繋がり始め、ざわめきが広がった。
「悠斗君のお母様……いえ、遥さんは、私を蛇琴村まで送り届けてくれました。そして、村に2日間ほど滞在してくださったんです。きっと、両親を失った私に寄り添ってくれたんだと思います……。」
──遥さん。
美琴は、僕の母の名前を迷うことなく口にした。その確信に満ちた響きが、この話の信憑性を何よりも裏付けていた。そして僕も——思い出した。
母が、ある日突然「遠出をしてくる」とだけ言い、3日間ほど家を空けたことがあった。
その時、僕はまだ幼く、母の不在に寂しさを感じたけれど、詳しく聞くことはできなかった。
帰ってきた母の顔は疲れていたのに、どこか穏やかで、僕にはその理由が分からなかった。
──もしかして、あの時に……美琴を助けていたのか?
「遥さんは、その2日間で霊との向き合い方を教えてくれました。だから……私の今の霊への接し方は、遥さんの影響を受けたものなんです。」
美琴が、母さんの影響を? その瞬間、一つの点が線になった。
──廃病院で…いやそれ以外にも、美琴の霊との関わり方には母さんの面影を感じた。
それは、決して偶然なんかじゃなかった。美琴の言葉や振る舞いが、どこか母と似ていたのは、彼女が僕の母の教えを受け継いでいたからだったんだ。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。喉が熱くなり、視界がぼやけ始めた。
美琴との出会いも……偶然なんかじゃなかった。
母が、かつて美琴を救い、導いた。そして今、美琴が僕を導いてくれている。
それはきっと、ただの巡り合わせなんかじゃなくて……。
気づけば、僕の目にも涙が滲んでいた。母の寝顔と美琴の涙を見つめながら、静かな病室にその言葉が溶けていった。