雪が静かに降り積もる冬の午後だった。
桜織の街はクリスマスの装飾に彩られ、穏やかで冷たい空気が通りを包み込んでいた。
僕は美琴と並んで歩きながら、白く染まる街並みを眺めている。
雪が地面に薄く積もり、足音が柔らかく響く。どこか遠くから、子供たちの笑い声とイルミネーションの光が混じり合って届いてきた。
「寒いですね……。」
美琴が小さく呟いた。彼女の吐いた息が白く曇り、冷えた空気に溶けていく。袖に手を引っ込めて身を縮めるその仕草が、どこか愛らしく見えた。
「そうだね……ちょっと寒すぎるかも。」
僕がそう返すと、彼女は小さく頷いて、少しだけ笑った。
廃工場での出来事から、もう数週間が経っていた。あの日、僕たちは命をかけた戦いを経験し…心が震えるほどの恐怖と向き合いながら、それでも生きて帰ってきた。
けれど、日常はそんな出来事を忘れたかのように、静かに流れ続ける。街はクリスマスムードに染まり、どこを歩いても「恋人たちの時間」なんて甘い言葉が耳に飛び込んでくる。
……こんな季節、こんな雰囲気だからだろうか。
僕も、つい美琴と——なんて、考えてしまう瞬間がある。胸が少しだけ温かくなって、すぐに冷たい風に冷やされるような、そんな気分だ。
そういえば、一つだけ変わったことがある。
それは、美琴が僕を「悠斗君」と呼ぶようになったことだ。
最初は妙にそわそわして落ち着かなかった。名前を呼ばれるたびに、なぜか顔が熱くなってしまって。でも今では、彼女の声でその呼び方を聞くたびに、心地よさを感じている自分がいる。不思議なものだ。
そんなことをぼんやり考えていた時、ふと視界の端に異質な影が映った。
クリスマスムードに包まれた街の片隅——賑わいから少し外れた路地の入口に、赤い影を纏った霊が立っていた。
——敵意を持つ霊だ。
僕の霊眼には、それがはっきりと分かる。白い影なら無害で、黄色は警戒色。そして赤は、強い敵意を示す。まるで信号機みたいだなんて思うけど、実際にその通りだから仕方ない。
「悠斗君。」
「うん。」
美琴と目が合い、短い言葉だけで意思が通じる。僕たちはすぐに行動を開始した。
すぐに視線を交わし、まずはこの霊が本当に危険なのか、それとも何か理由があって敵意を抱いているのか、見極めなければいけない。
──
僕と美琴は二手に分かれた。
僕は何気なく霊の近くを通り過ぎ、人気のない路地裏へと歩いていく。足音が雪に吸い込まれる中、心臓が少しだけ速く鼓動を打つ。
「……お前ぇ、見えてるよなぁ……?」
霊の声が背後から響いた。低く、かすれた声。
——引っかかった。
僕は無言で歩き続ける。霊には気配を察知する能力がある。無視されれば「こいつは見えているのに無視している」と気づいて、追いかけてくるはずだ。
案の定、霊は僕の後を追ってきた。路地の奥に差し掛かったところで、立ち止まる。
「なにか用ですか?」
振り返り、静かに尋ねると、霊は苛立ったように顔を歪めた。その表情には怒りと混乱が混じっていた。
「なんで……俺を無視した?」
「普通の人にあなたは見えません。いきなり何もない場所で喋ったら、変な目で見られてしまいますから。だから、ここに来てもらいました。」
僕の言葉に、霊の表情がさらに険しくなる。赤い影が一瞬揺らぎ、怒りが強まったように見えた。
「俺はなんで……死ななきゃいけなかったんだ……!」
霊が荒々しく叫ぶ。その声には、やり場のない悔しさと悲しみが滲んでいた。
「失礼ですが、あなたの死因は?」
冷静に問いかけると、霊は苦しげに首を振った。
「わからねぇ……気づいたら、こうなってたんだ……。」
——不明な死因。
おそらく病死か事故死だろう。突然の死に、彼は戸惑い、どうすればいいのかも分からず彷徨っていたに違いない。
僕が彼に注意を向けると、纏っていた赤い影がゆっくりと黄色に変わり始めた。
(……敵意ではなく、ただの寂しさか。)
判断を終え、僕は優しく微笑んで言った。
「焦りますよね。誰にも気づいてもらえないのは、怖いと思います。でも、大丈夫です。僕たちには、あなたがちゃんと見えていますよ。」
「僕たち……?」
霊が怪訝な顔をした瞬間——。
——カツン、カツン。
硬い靴音が、霊の背後から響いた。
「ひっ……!」
霊が振り返った途端、その顔が怯えに染まる。そこに立っていたのは、美琴だった。彼女の静かな佇まいが、路地の薄暗さに溶け込んでいた。
霊が後ずさる。美琴に宿る強い霊力が、無意識に彼を威圧しているのだろう。
「大丈夫ですよ。危害を加えるつもりはありません。」
美琴が柔らかい声で告げる。その声には、安心させるような温かさがあった。
「ほ、本当か……?」
「ええ。あなたのお名前は?」
「佐々木……だ……。」
霊は少し警戒しながらも、ようやく名乗った。
「ありがとうございます、佐々木さん。あなたは、どうしたいですか?」
美琴の静かな問いかけに、佐々木さんは言葉を詰まらせた。
「どう……したら、いいんだろうな……?」
「このままここに留まると、あなたは地縛霊になってしまいます。」
僕がそう告げると、彼の目が少しだけ見開かれた。
「地縛霊って……あれか? この地から離れられなくなるってやつか……?」
「その通りです。」
今度は美琴が静かに答える。
「それは……嫌だなぁ……。」
その言葉とともに、彼の影は完全に白へと変わった。
——もう、彼は迷っていない。
「では、私が力を貸しますね。」
美琴が静かに詠唱を始めた。
「魂の彷徨を調べに乗せよ……我が静かな祈りにて冥路の門をかそけく開けよ……汝が安寧に還りゆけ。」
「う、うお!?」
佐々木さんが抵抗するように身をよじるが、
「大丈夫ですよ。安らかな場所へ行けるんです。」
僕が彼の目を見て、そう告げた。
「……。」
抵抗をやめた佐々木さん。
そして、彼の体は粒子となって、静かに天へと昇っていった。
「冥送ノ調べ」
美琴が術の名前を紡ぐと、最後の光が夜空へ消えていった。
——彼の旅路が、ようやく終わる。
桜織の街に降る雪が、静かに彼の存在を包み込むように舞っていた。