「悠斗…君…?」
微かに震える声が耳に届く。
ゆっくりとまぶたを開けると、そこには美琴の疲れた瞳があった。
「美琴…!」
思わず彼女の手を握りしめる。
美琴の瞳がゆっくりと焦点を結び、僕を見つめた。
頬にはまだ汗が滲み、顔色も悪い。
それでも、目を覚ましてくれたことが、心の底から嬉しかった。
松田さんが黙って部屋を出ていく。
あの人なりの気遣いなんだろう。
「ここは…?」
「松田さんの家だよ。」
「そう…ですか……。」
美琴の表情はまだぼんやりとしていた。
それでも、彼女の声が聞こえたことに安堵する。
僕は――あの時、本当に美琴に強制成仏をさせるべきだったのか?
彼女がこんなに苦しむくらいなら、あの場で止めるべきだったんじゃないか?
何度もその考えがよぎった。
けれど、松田さんの言葉が、僕の迷いを振り払ってくれた。
『自分の選択を信じな。どこかで必ずいいことが起こるさ。』
僕は、美琴の意思を信じた。
そして、彼女を支えると決めた。
だから、もう何も問い詰めるつもりはない。
代償のことも――。
ただ、彼女が迷った時だけは、ちゃんと止めよう。
「目が覚めて、本当に良かった…。」
握る手の力が、自然と少し強くなる。
僕の言葉に、美琴は驚いたように目を見開いた。
「悠斗君…なにも…聞かないんですね…?」
「うん……さっきまで迷ってたけどね。
でも、僕はこれからも君を信じて支えるよ。」
静かな決意を込めて伝える。
それを聞いた美琴は、一瞬きょとんとしたあと、ふわりと微笑んだ。
「悠斗君…ありがとうございます…。」
その笑顔は、どこか儚く、でも、どこまでも優しかった。
──
時間が流れ、空はすっかり暗くなっていた。
詩織さんの時と同じくらいの時間――廃工場での戦いから、ようやく一日が終わる。
「また、お世話になってしまいました。」
美琴が申し訳なさそうに、松田さんに頭を下げる。
「いいんだよ。あんたたちは、それくらいのことを私たちにしてくれた。
これでもまだ足りないくらいさ。」
松田さんが、いつものように豪快に笑う。
「本当に…前に進めたんですね。」
美琴が穏やかな表情で呟く。
「美琴ちゃん、悠斗。本当にあんたたちのおかげだよ。
私が力になれることがあったら、また頼っておいで。」
松田さんの温かい言葉が、胸に染みる。
この縁を、僕は心から大切にしたいと思った。
「お邪魔しました。今度、何かお持ちしますね。」
僕は笑顔でそう告げる。
──
再び、桜翁の元へと僕たちは向かった。
あの時とは、もう状況が違う。
廃工場での戦いを乗り越え、美琴との時間も半年が経とうとしていた。
「そういえば…温泉郷のこと、話せませんでしたね…。」
美琴が、少し残念そうに呟く。
「あぁ、そうだね。今度、何か持って挨拶に行こう。
その時、温泉郷での色々なことを話せばいい。」
「そうですね…。陽菜さんのこととか、話したいなぁ。」
「はは、いいね。松田さん、きっと驚くよ。」
そんな何気ない会話をしながら、僕たちの一日は終わっていく。
冷たい風が頬をかすめる。
冬の気配が、すぐそこまで来ていた。
――でも、この時の僕たちはまだ知らない。
これから訪れる冬が、今までとは違う寒さを運んでくることを――。
**廃工場に蠢く編 完**