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五話 母との記憶

そこにはおじいさんの姿があった。


月明かりの下で、どこか寂しそうに立っている。

その影は、春の霧のように淡くぼやけていた。


「悠斗、しっかり見ていてね」


母さんは膝をつき、その霊と目を合わせる。


「初めまして。何かお困りですか?」


声は静かに、でも…しっかりと届いていた。


おじいさんはゆっくりと振り返り、戸惑いと、わずかな驚きを見せる。


「……おお……あんたには、儂が見えるのか……」


掠れた声が、神社の夜気に溶けていく。


「ええ、はっきりと見えますよ」


母さんの笑みは、あたたかかった。

まるで、長年の友人に向けるような眼差しだった。


おじいさんの肩が、ふっと落ちる。


「このまま、消えてしまうのが怖いんじゃ……」


声が震えていた。


「最近……少しずつ、意識が薄れてきてのぉ……」


神社の境内に、風が吹き抜ける。

桜の枝が揺れ、はらりと花びらが舞った。


「儂は、どうなるんじゃ……? このまま消えてしまうんか……?」


おじいさんは、母さんを見つめる。


母さんは、そっと首を振った。目を細め、やさしく答える。


「大丈夫ですよ。記憶が薄れても、魂はなくなりません」


「魂……?」


「はい。いつか巡って、またこの世に《生まれ変わる》んです」


その声は、春の風のように、そっと彼の心に届いた。


おじいさんの表情が、わずかに和らぐ。


「そうか……また、生まれ変われるのか……」


少しだけ、微笑みが浮かんだ。


「ええ、だから安心してくださいね」


その言葉とともに、おじいさんの輪郭がふわりと揺らいだ。


「……そうか……ありがとう。心が軽くなったよ」


姿が、夜空に溶けていく。


「どうか、安らかに」


母さんが手を合わせた。


光の中で、彼は最後に僕のほうを見た。


「坊やも……お母さんをしっかり守るんじゃぞ」


細い手が、僕の頭をそっと撫でた。


春の風が吹いた。

おじいさんの影は、静かに夜へと消えていった。


境内に広がる、深く、やさしい沈黙。

母さんは立ち上がり、僕の手をとった。


「さあ、帰ろうか」


僕はその手を、ぎゅっと握った。

温かかった。


——この時の僕は、まだ知らなかった。

この夜の記憶が、やがて自分を導く鍵になることを。



「……っ」


息を呑み、僕は目を開けた。


見慣れた天井。静まり返った部屋。

鼓動の音だけが、妙に大きく聞こえていた。


(……また、この夢だ)


母さんと一緒に、神社へ行った夜。


でも──


あの夜のあと、母さんは“何か”に襲われた。


僕は、その場にいたはずなのに。

どうしても……その時の記憶だけが、思い出せない。


まるで、何かが僕の記憶を覆っているように──。


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