そこにはおじいさんの姿があった。
月明かりの下で、どこか寂しそうに立っている。
その影は、春の霧のように淡くぼやけていた。
「悠斗、しっかり見ていてね」
母さんは膝をつき、その霊と目を合わせる。
「初めまして。何かお困りですか?」
声は静かに、でも…しっかりと届いていた。
おじいさんはゆっくりと振り返り、戸惑いと、わずかな驚きを見せる。
「……おお……あんたには、儂が見えるのか……」
掠れた声が、神社の夜気に溶けていく。
「ええ、はっきりと見えますよ」
母さんの笑みは、あたたかかった。
まるで、長年の友人に向けるような眼差しだった。
おじいさんの肩が、ふっと落ちる。
「このまま、消えてしまうのが怖いんじゃ……」
声が震えていた。
「最近……少しずつ、意識が薄れてきてのぉ……」
神社の境内に、風が吹き抜ける。
桜の枝が揺れ、はらりと花びらが舞った。
「儂は、どうなるんじゃ……? このまま消えてしまうんか……?」
おじいさんは、母さんを見つめる。
母さんは、そっと首を振った。目を細め、やさしく答える。
「大丈夫ですよ。記憶が薄れても、魂はなくなりません」
「魂……?」
「はい。いつか巡って、またこの世に《生まれ変わる》んです」
その声は、春の風のように、そっと彼の心に届いた。
おじいさんの表情が、わずかに和らぐ。
「そうか……また、生まれ変われるのか……」
少しだけ、微笑みが浮かんだ。
「ええ、だから安心してくださいね」
その言葉とともに、おじいさんの輪郭がふわりと揺らいだ。
「……そうか……ありがとう。心が軽くなったよ」
姿が、夜空に溶けていく。
「どうか、安らかに」
母さんが手を合わせた。
光の中で、彼は最後に僕のほうを見た。
「坊やも……お母さんをしっかり守るんじゃぞ」
細い手が、僕の頭をそっと撫でた。
春の風が吹いた。
おじいさんの影は、静かに夜へと消えていった。
境内に広がる、深く、やさしい沈黙。
母さんは立ち上がり、僕の手をとった。
「さあ、帰ろうか」
僕はその手を、ぎゅっと握った。
温かかった。
——この時の僕は、まだ知らなかった。
この夜の記憶が、やがて自分を導く鍵になることを。
⸻
「……っ」
息を呑み、僕は目を開けた。
見慣れた天井。静まり返った部屋。
鼓動の音だけが、妙に大きく聞こえていた。
(……また、この夢だ)
母さんと一緒に、神社へ行った夜。
でも──
あの夜のあと、母さんは“何か”に襲われた。
僕は、その場にいたはずなのに。
どうしても……その時の記憶だけが、思い出せない。
まるで、何かが僕の記憶を覆っているように──。