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四話 お見舞い

病室の窓から、夕陽が淡く差し込んでいた。

薄手のカーテンがゆるやかに揺れ、光と影が壁の上で溶け合っていく。


薬と消毒液の匂いが、静かに空気に混じっている。

その中で、僕はベッドのそばにある椅子に腰を下ろした。


「……来たよ、母さん」


小さく呟き、そっと手を握る。


その手はまだ温かくて、けれど、病衣の中の体は見るたびに細くなっていた。

それでも、母さんの寝顔は、どこか穏やかだった。


「そういえばさ、この間、不思議な女の子に出会ったんだ」

独り言のように、話しかけるように。

「美琴っていうんだけど……すごく礼儀正しくてね」


母さんのまぶたは閉じられたまま。返事はない。

それでも、この時間が、僕には大切だった。


母さんは十年前から、意識のないままこの病院に入院している。


理由は、“不明”とされている。

けれど僕には、わかっていた。


──十年前。

霊感を持つ僕が、その力に振り回されないようにと、母さんが教えてくれた帰り道。


その時、母さんは“何か”に襲われた。


正確に言えば、僕自身……その時の記憶が曖昧で、はっきりとは思い出せない。

でも、“霊だった”ということだけは、今でもはっきりと覚えている。


あの場にいた。

なのに、思い出そうとすると、全身に鳥肌が立って、思考が止まってしまう。


父さんは、遠く離れた土地で母さんの入院費を稼いでいる。

だから、母さんは今もこうして“生きていられる”。


静かな病室に、夕暮れの時間だけが、ゆっくりと流れていく。


「……また来るよ」


そっと手を離し、僕は病室をあとにした。



桜織市さくらおりしの夜は、街灯がきらびやかに輝いている。

病院を出ると、気だるい疲労が足元に絡みつく。


(……あの幽霊を見たせいだ)


思わずそう考えながら、重い足取りで家へと向かう。


玄関のドアを開けると、静まり返った部屋に春の風がふっと入り込んだ。

母さんの姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


ため息をひとつ。

階段を上がり、ベッドに腰を下ろす。


その瞬間、ようやく全身から力が抜けた。


薄暗い部屋の中。

ぼんやりと天井を見つめながら、目を閉じる。


——遠い記憶が、静かに浮かび上がってきた。



それは、十年前のこと。


桜織神社へ続く石段を、母さんが僕の手を引いて登っていた。

当時の僕は七つだった。

月明かりに照らされた石畳を、母さんの横で、小さな歩幅で歩いていた。


夜風がそっと吹く。

母さんの茶色い髪が揺れて、淡い月光にふわりと透けていた。

その横顔は、どこまでも優しかった。


「悠斗、霊はね、怖くないんだよ」


鳥居をくぐったところで、母さんが立ち止まり、微笑んだ。

夜の空気を静かに吸い込み、それから続ける。


「ただ、さまよってるだけなの。悲しみや後悔を抱えたまま、どこへ行けばいいか分からない人たちなんだよ」


その声は穏やかで、夜の風に溶けていった。


僕は、母さんの横顔を見つめた。

まだ、彼女の言葉の意味はよく分からなかったけれど、なぜか安心したのを覚えている。


「ほら、あそこを見てごらん」


母さんが指さす先。

ふわりと、揺れる人影があった。


──おじいさんの姿があった。

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