病室の窓から、夕陽が淡く差し込んでいた。
薄手のカーテンがゆるやかに揺れ、光と影が壁の上で溶け合っていく。
薬と消毒液の匂いが、静かに空気に混じっている。
その中で、僕はベッドのそばにある椅子に腰を下ろした。
「……来たよ、母さん」
小さく呟き、そっと手を握る。
その手はまだ温かくて、けれど、病衣の中の体は見るたびに細くなっていた。
それでも、母さんの寝顔は、どこか穏やかだった。
「そういえばさ、この間、不思議な女の子に出会ったんだ」
独り言のように、話しかけるように。
「美琴っていうんだけど……すごく礼儀正しくてね」
母さんのまぶたは閉じられたまま。返事はない。
それでも、この時間が、僕には大切だった。
母さんは十年前から、意識のないままこの病院に入院している。
理由は、“不明”とされている。
けれど僕には、わかっていた。
──十年前。
霊感を持つ僕が、その力に振り回されないようにと、母さんが教えてくれた帰り道。
その時、母さんは“何か”に襲われた。
正確に言えば、僕自身……その時の記憶が曖昧で、はっきりとは思い出せない。
でも、“霊だった”ということだけは、今でもはっきりと覚えている。
あの場にいた。
なのに、思い出そうとすると、全身に鳥肌が立って、思考が止まってしまう。
父さんは、遠く離れた土地で母さんの入院費を稼いでいる。
だから、母さんは今もこうして“生きていられる”。
静かな病室に、夕暮れの時間だけが、ゆっくりと流れていく。
「……また来るよ」
そっと手を離し、僕は病室をあとにした。
⸻
病院を出ると、気だるい疲労が足元に絡みつく。
(……あの幽霊を見たせいだ)
思わずそう考えながら、重い足取りで家へと向かう。
玄関のドアを開けると、静まり返った部屋に春の風がふっと入り込んだ。
母さんの姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
ため息をひとつ。
階段を上がり、ベッドに腰を下ろす。
その瞬間、ようやく全身から力が抜けた。
薄暗い部屋の中。
ぼんやりと天井を見つめながら、目を閉じる。
——遠い記憶が、静かに浮かび上がってきた。
⸻
それは、十年前のこと。
桜織神社へ続く石段を、母さんが僕の手を引いて登っていた。
当時の僕は七つだった。
月明かりに照らされた石畳を、母さんの横で、小さな歩幅で歩いていた。
夜風がそっと吹く。
母さんの茶色い髪が揺れて、淡い月光にふわりと透けていた。
その横顔は、どこまでも優しかった。
「悠斗、霊はね、怖くないんだよ」
鳥居をくぐったところで、母さんが立ち止まり、微笑んだ。
夜の空気を静かに吸い込み、それから続ける。
「ただ、さまよってるだけなの。悲しみや後悔を抱えたまま、どこへ行けばいいか分からない人たちなんだよ」
その声は穏やかで、夜の風に溶けていった。
僕は、母さんの横顔を見つめた。
まだ、彼女の言葉の意味はよく分からなかったけれど、なぜか安心したのを覚えている。
「ほら、あそこを見てごらん」
母さんが指さす先。
ふわりと、揺れる人影があった。
──おじいさんの姿があった。