突然、風が吹く。
桜の花びらが一斉に舞い上がり、彼女の周りで渦を巻く。
その瞬間——
胸の奥で、何かが揺らいだ。
彼女がこちらに気づく。
茶色の瞳が柔らかく揺れ、春の光を映していた。
「……この桜、綺麗だよね。」
不意に、声をかけた。
彼女が穏やかに微笑む。
「はい。本当に綺麗ですね。」
その声は、春の風のように軽やかで、でもどこか落ち着く響きだった。
「私、月瀬
(すごくしっかりした子だな…。)
僕も彼女に自己紹介をする。
「僕は、2年の櫻井
そう言った瞬間、彼女の穏やかな笑顔が春の陽射しみたいに柔らかくて、普段なら気にも留めない自己紹介が、なんだか特別なものに感じられた。
「あっ、先輩なんですね。」
彼女が目を丸くして、小さく笑う。
その自然な気づきが、春らしい温かさを運んできた。
⸻
風が吹く。
「写真を撮ろうとしたんですけど、どうやらスマートフォンを忘れてしまったみたいです……。」
そう言って、美琴はほんの少し肩を落とした。
残念そうに見上げる視線の先には、淡い薄紅の桜が静かに咲いている。
彼女のその姿に、思わず僕は笑みをこぼした。
「大丈夫だよ。きっと明日でも間に合う。……この桜、散るのが遅いから。」
そう――この桜翁の桜は、他の桜よりも長く咲き続ける。
まるで、別れを惜しむように。
あるいは、誰かの想いを受け止め続けるように。
そんな木の下で、僕たちはふと、同じ空を見上げていた。
桜翁の花びらが、別れを惜しむように舞う。
どこか寂しげな雰囲気が漂い、胸に小さな余韻を残した。
美琴がそっと口を開く。
「短い時間でしたけど、自己紹介できて嬉しいです。話しかけてくださってありがとうございます。」
彼女が軽く手を振ると、その仕草が夕陽に柔らかく映える。
「またお会いしましょうね。」
「うん またね。気を付けて帰るんだよ。」
僕が言葉を言い終えると彼女はぺこりと頭を下げて、去っていった。
⸻
僕は一人、桜翁を見つめる。
風が花びらを運び、夕陽が空を茜色に染める。
ふと、風に混じるかすかな気配を感じた。
周囲を見回すけれど、誰もいない。
ただ、美琴の声が頭に響き、あの出会いが胸に深く刻まれた。
桜翁が静かに揺れる。
春の囁きが、美琴の名前と共に、心にそっと残った。
──
春の風に 名もなき縁はほどけて
二つの影 まだ知らぬまま 交わりぬ
大いなる厄災は 静かに目を覚まし
記されし因果 誰が断ちきるものぞ
されど 祈りは結ばれん
琴音