桜並木を吹き抜ける風が、淡い花びらを揺らしていた。
舞い落ちる薄桃色のかけらが地面を染め、朝の光にゆるやかに滲んでいく。
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学校に着くと、教室の空気がいつもよりざわついていた。
窓から差し込む光が机に落ち、ふわふわと埃が舞っている。
黒板には、朝の授業の跡が薄く残っていた。
「おい、悠斗、聞いてくれよ」
隣の席の友人が、楽しげに肩を叩いてくる。
「何? 朝からうるさいな……」
「これ見てみろよ。昨日、バカな奴らがやらかしたんだ」
スマホを差し出しながら、別の友人が「もう一回見よ!」と笑う。
「マジでバカだろ、あいつら」
笑いながら机を叩く声が、教室のあちこちに響いた。
……まさか。
嫌な予感がする。
手に取ったスマホには、再生中の動画が映っていた。
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画面が揺れ、薄暗い映像が始まる。
夕陽に照らされた崩れたコンクリート、割れた窓の奥がぽっかりと黒く口を開けている。
「よっしゃ、みんな! 今から突撃だぜ!」
配信主の弾んだ声が響いた。
実況のノリに見えるけれど、その声の端にはかすかに緊張が滲んでいた。
「うわっ、暗っ! ちょっとビビるわ」
仲間が笑いながら背中を押す。
埃っぽい廊下を進む足音が、コツコツと鈍く反響していた。
手術室が映る。
画面には、消毒液のにおいがただよってきそうなほど、薄汚れた手術台。
「何か聞こえた? 今、変な音しなかった?」
カメラが暗がりを捉える。
……誰も触れていないはずの金属器具が、かすかに揺れていた。
そして、遠くから──
泣き声が、響く。
「おい、マジでやめろって……」
仲間のひとりの声が、明らかに震えていた。
壁の染みが、じわじわと広がる。
何かがそこにいる。
そのとき。
カメラが、“それ”を捉えた。
手術室の隅。
影のようなものが、ゆっくりと這い出してくる。
……小さな男の子の霊だった。
白い病衣はぼろぼろに破れ、
黒く窪んだ目がカメラをまっすぐに睨んでいた。
「おか……あぁ……!」
掠れた声。
その響きには、寂しさが滲んでいた。
仲間のひとりが逃げようとして転び、
伸びてきた小さな手に、腕をがしっと掴まれる。
「うわあああ!!」
画面が激しく揺れ、カメラが床に落ちる。
ノイズが走り──
映像が、途切れた。
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スマホを返すと、友人がにやにやと笑いながら言った。
「な? ヤバいだろ?」
「……マジでやばいって。あいつら、生きてるかな」
「うん、怖いね」
適当に返したけれど、内心では完全に呆れていた。
——勝手に踏み込んで、怒らせたんだ。
僕には霊が視える。
だから、彼らの気持ちはわかる。
霊にとって住み着いてる場所は、“家”だ。
その家に、知らない人が興味本位で入り込んでくる。
……それを喜ぶ人なんて、いるはずがない。
僕は霊が苦手だけど、そのくらいの“感覚”はわかってる。
心霊スポットに行って襲われるのは、正直、自業自得だと思っている。
⸻
昼休み。
屋上でパンをかじりながら、校庭の桜を眺めていた。
丘の上では、桜翁が風にそよいでいた。
……さっきの動画が、ずっと頭から離れなかった。
そしてもう一つ、気がかりなこと。
配信していた数人が、まだ帰ってきていないらしい。
「関係ない」と割り切ることもできる。
でも、胸の奥がざわついていた。
パンを一口かじって、目を閉じた。
その瞬間。
──母さんの声が、遠い記憶から蘇る。
『霊はね、怖くないのよ』
母さんが倒れてから、ずっと聞かないようにしてきた言葉。
でも、僕は思う。
……霊は、怖い。
現に母さんは霊によって襲われて、今も意識不明のまま。
本当に怖くないものなら、こんなことになんて──
「ねえ、櫻井君」
屋上の扉が開いて、ふいに声がかかった。
小柄な女の子が姿を現す。
振り返ると、彼女が真っ直ぐこちらを見ていた。
「翔太君……隣のクラスの不動君も、昨日から戻ってきてないんだよ」
頭が、一瞬真っ白になる。
「え、翔太が……?」
確かに、彼には中に入らないようにって、きつく言っていた。
でも……翔太のことだ。
誰かの叫び声でも聞こえたら、一目散に中に入っていくだろう。
「櫻井君は不動君と仲が良いみたいだったから、何か知ってるかもって……」
女の子が不安そうに言う。
「ごめん……。僕も、君から聞いて初めて知ったんだ」
一瞬、沈黙が落ちた。
鳥の鳴き声が、風に乗って届く。
女の子の目が、ほんのりと潤んでいた。
「そっか……ごめんね。ありがとう」
そう言って、彼女は静かに去っていった。
「あんな女の子にも、心配かけて……」
ぽつりと、そんな言葉が漏れる。
『霊はね、怖くないのよ』
また、あの言葉が胸の奥に響いた。
「はぁ……」
僕は、手の中のパン袋をぎゅっと握りしめた。