桜の花びらが、ふわりと頬をかすめた。
甘く澄んだ風が、肌を撫でていく。春の匂いが、ほんのりと胸に残る。
──なんとなく、
気づけば、僕は今日も、この木の前に立っていた。
⸻
放課後の教室。
ざわめく空気の中に、机を引く音、誰かの笑い声が混じる。
黒板に残ったチョークの粉が、夕日を受けてぼんやりと光っていた。
「今日、行くんだってよ」
「うわ、マジで? あそこ?」
教室の隅で、そんな話がささやかれていた。
僕は横目でそれを見ながら、静かにバッグのチャックを閉じる。
「よっ、悠斗! 今日、空いてる?」
翔太が近づいてくる。
その声に、僕は顔を上げた。
「ごめん。今日は母さんのお見舞いなんだ」
「あ、そうか……それなら仕方ないな」
「それで、翔太は何か予定があったの?」
彼は少し目をそらし、口ごもるように言った。
「ああ……ちょっと言いづらいんだけどさ、今夜、桜織の旧病院に行くことになっててさ」
「……えっ?」
その名を聞いた瞬間、息を呑んだ。
桜織旧病院。
戦後すぐに建てられた、かつての総合病院。
だが五十年前に閉鎖されて以来、今では桜織市でも有数の心霊スポットとして知られている。
林に囲まれたその廃墟は、訪れた人の多くが「異界そのものだった」と語る。
「
「なんでまたそんなとこに……。翔太、僕が霊を見えるって、知ってるよね?」
そう。僕には、霊が“見えてしまう”。
幼い頃から、この力に、ずっと悩まされてきた。
「悪い……ボディガード頼まれてさ。今月ちょっと欲しいもんがあって、金になるならって」
「……はぁ。中には入らない方がいいよ」
「おう! 俺も入るつもりはないから、安心しろ!」
翔太は軽く笑って手を振り、教室を後にした。
その笑顔の奥に、かすかな不安が滲んでいた。
⸻
校門を出ると、空は茜色に染まり始めていた。
僕はふたたび、桜翁のもとへ足を向ける。
ふと、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
茶色のポニーテールが、夕風に揺れている。
「お疲れ様」
「あっ……先輩、お疲れ様です」
彼女──月瀬 美琴は、深く丁寧に頭を下げた。
(相変わらず礼儀正しい……それに、どこか気品がある…。)
「先輩は、よくこの桜翁のもとへいらっしゃるんですか?」
「うん、そうだよ。……なんか、呼ばれてる気がして。変かもしれないけど、つい来ちゃうんだ」
「呼ばれてる……ですか。ふふっ。いえ、変だなんて思いませんよ」
彼女の微笑みは、春の陽だまりのように優しかった。
言葉少なに、ふたりで桜翁を見上げる。
この静けさが、なんだか心地いい。
「では、先輩。私はそろそろ帰りますね」
「うん。気をつけて帰るんだよ」
もう一度、丁寧に頭を下げてから、彼女は静かに歩き出した。
「……不思議な子だな」
ふと、そんな言葉がこぼれる。
⸻
病院へ向かう道すがら。
今日は美琴と話していたから、いつもより帰りが遅くなっていた。
あたりはすっかり薄暗く、街灯がチカチカと灯り始めている。
そのときだった。
冷たい風が頬をなぞる。
そして──
正面の電柱の影が、ゆらりと揺れた。
やがてそれは人の形をとり、中学生くらいの少年の姿へと変わっていく。
(……ここは)
血の気が引いた。
──数日前、少年が交通事故で亡くなった場所。
電柱の下には、供えられた花がひっそりと揺れていた。
気づかれないように、僕は“何も見えていない”ふりをして通り過ぎようとした。
だが。
「っ……!」
がしっ──
真っ白な手が、僕の手首を掴んだ。
全身に、冷たいものが走る。
振り返ると、頭から血を流した少年が、僕を恨めしそうに睨んでいた。
『お兄ちゃん……見えてるよねぇ……?』
「う、うわぁ!!」
僕は叫び、尻もちをつく。
見上げると、少年はまだ、こちらを睨んでいた。
そのとき、誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「大丈夫か、坊主!」
中年の男性が手を差し伸べてくれる。
「す、すみません。躓いてしまって……」
「怪我はないか? 気をつけろよ?」
男の人は不思議そうな顔を浮かべると僕の肩を軽く叩き、去っていった。
叫び声を聞いたのか、周囲には何人かの人が集まり始めていた。
「……」
霊が消えた今が、唯一のチャンス。
僕はすぐに立ち上がり、その場を離れようとする。
──だが、その瞬間。
背後から、強烈な“圧”が飛んできた。
(……まだ、いる)
振り返らなくてもわかる。
あの電柱の陰から、まだ睨まれている。
僕は振り返らず、ひたすらに走った。
母が眠る病院へ──。