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三話 霊が視える

桜の花びらが、ふわりと頬をかすめた。

甘く澄んだ風が、肌を撫でていく。春の匂いが、ほんのりと胸に残る。


──なんとなく、桜翁さくらおきなに呼ばれた気がする。


気づけば、僕は今日も、この木の前に立っていた。



放課後の教室。

ざわめく空気の中に、机を引く音、誰かの笑い声が混じる。

黒板に残ったチョークの粉が、夕日を受けてぼんやりと光っていた。


「今日、行くんだってよ」

「うわ、マジで? あそこ?」


教室の隅で、そんな話がささやかれていた。

僕は横目でそれを見ながら、静かにバッグのチャックを閉じる。


「よっ、悠斗! 今日、空いてる?」


翔太が近づいてくる。

その声に、僕は顔を上げた。


「ごめん。今日は母さんのお見舞いなんだ」


「あ、そうか……それなら仕方ないな」


「それで、翔太は何か予定があったの?」


彼は少し目をそらし、口ごもるように言った。


「ああ……ちょっと言いづらいんだけどさ、今夜、桜織の旧病院に行くことになっててさ」


「……えっ?」


その名を聞いた瞬間、息を呑んだ。


桜織旧病院。

戦後すぐに建てられた、かつての総合病院。

だが五十年前に閉鎖されて以来、今では桜織市でも有数の心霊スポットとして知られている。


林に囲まれたその廃墟は、訪れた人の多くが「異界そのものだった」と語る。


「なんでまたそんなとこに……。翔太、僕が霊を見えるって、知ってるよね?」


そう。僕には、霊が“見えてしまう”。


幼い頃から、この力に、ずっと悩まされてきた。


「悪い……ボディガード頼まれてさ。今月ちょっと欲しいもんがあって、金になるならって」


「……はぁ。中には入らない方がいいよ」


「おう! 俺も入るつもりはないから、安心しろ!」


翔太は軽く笑って手を振り、教室を後にした。


その笑顔の奥に、かすかな不安が滲んでいた。



校門を出ると、空は茜色に染まり始めていた。

僕はふたたび、桜翁のもとへ足を向ける。


ふと、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

茶色のポニーテールが、夕風に揺れている。


「お疲れ様」


「あっ……先輩、お疲れ様です」


彼女──月瀬 美琴は、深く丁寧に頭を下げた。


(相変わらず礼儀正しい……それに、どこか気品がある…。)


「先輩は、よくこの桜翁のもとへいらっしゃるんですか?」


「うん、そうだよ。……なんか、呼ばれてる気がして。変かもしれないけど、つい来ちゃうんだ」


「呼ばれてる……ですか。ふふっ。いえ、変だなんて思いませんよ」


彼女の微笑みは、春の陽だまりのように優しかった。


言葉少なに、ふたりで桜翁を見上げる。

この静けさが、なんだか心地いい。


「では、先輩。私はそろそろ帰りますね」


「うん。気をつけて帰るんだよ」


もう一度、丁寧に頭を下げてから、彼女は静かに歩き出した。


「……不思議な子だな」


ふと、そんな言葉がこぼれる。



病院へ向かう道すがら。

今日は美琴と話していたから、いつもより帰りが遅くなっていた。

あたりはすっかり薄暗く、街灯がチカチカと灯り始めている。


そのときだった。


冷たい風が頬をなぞる。


そして──

正面の電柱の影が、ゆらりと揺れた。


やがてそれは人の形をとり、中学生くらいの少年の姿へと変わっていく。


(……ここは)


血の気が引いた。


──数日前、少年が交通事故で亡くなった場所。

電柱の下には、供えられた花がひっそりと揺れていた。


気づかれないように、僕は“何も見えていない”ふりをして通り過ぎようとした。


だが。


「っ……!」


がしっ──


真っ白な手が、僕の手首を掴んだ。


全身に、冷たいものが走る。


振り返ると、頭から血を流した少年が、僕を恨めしそうに睨んでいた。


『お兄ちゃん……見えてるよねぇ……?』


「う、うわぁ!!」


僕は叫び、尻もちをつく。


見上げると、少年はまだ、こちらを睨んでいた。


そのとき、誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。


「大丈夫か、坊主!」


中年の男性が手を差し伸べてくれる。


「す、すみません。躓いてしまって……」


「怪我はないか? 気をつけろよ?」


男の人は不思議そうな顔を浮かべると僕の肩を軽く叩き、去っていった。


叫び声を聞いたのか、周囲には何人かの人が集まり始めていた。


「……」


霊が消えた今が、唯一のチャンス。


僕はすぐに立ち上がり、その場を離れようとする。


──だが、その瞬間。


背後から、強烈な“圧”が飛んできた。


(……まだ、いる)


振り返らなくてもわかる。

あの電柱の陰から、まだ睨まれている。


僕は振り返らず、ひたすらに走った。


母が眠る病院へ──。


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