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第6話 用事はなんだろう?

 村での滞在は短かったし、道中の休憩も小川の横で馬に水を飲ませたくらい。僕の昼食だって、馬上で小さな硬いパンをかじったくらいだ。

 だけど僕が本邸に戻ってきたのは陽が傾き始めた頃合だった。ゆっくり歩く馬だから、移動だけでずいぶん時間を使ったなあ。


「おかえりなさい、坊ちゃま」


 帰って来た僕に声を掛けてくれたのはパートリッジ本邸に残った三人の使用人のうちの一人、主に下働きを担当してくれる五十代の男性だ。


「ただいま」


 僕が答えると、彼の顔にある大きな傷跡がちょっと引きつった。一見すると怖く見えるけど、これはこの人が笑う時のものだって僕は知ってる。

 彼は右の額から顎の左にかけて大きな傷跡があるんだ。これはまだ彼が猟師だったとき獣にやられてしまったものなんだって。そのせいで顔は上手く動かなくなって、右目も見えなくなってしまった。加えて背も高く寡黙だということもあって、どこか近寄りがたい雰囲気がある。でも、本当はとても優しい人なんだよ。


 僕が馬を降りると、近寄ってきた彼が手綱を取る。途端に老馬が嬉しそうに鳴いて彼に顔を寄せた。そうだね、君はこの人のことが大好きだもんね。というかこの老馬だけじゃなく、馬たちはみんな彼のことが好きなんだ。ちょっとうらやましい。


「ありがとう。だけど僕が乗った馬だし、僕がやるよ」


 そう言ったんだけど、彼は首を横に振る。


「お嬢様がお呼びです」

「姉上が?」


 だったら仕方がない。馬にかまけてグズグズしてたらこの人が叱られてしまうよ。

 馬を彼に任せ、僕は憂鬱な気分で玄関の扉を開けた。すると、その音を聞いたらしい老人が窓の近くで背を伸ばして胸に右手を当てる。


「お帰りなさいませ、若君」


 そう言って頭を下げる彼はうちに居る使用人の――というか、屋敷にいる中で最年長の人物、執事だ。僕のお祖父さまが小さい頃からこのパートリッジ本邸で働いてて、誰よりもこの本邸を知ってる人。

 本来の彼は財産の管理や屋敷の使用人たちの統括をする立場なんだけど、家がこんな状態になってしまったから何でもやってくれてる。今もそう。僕に挨拶するためそっと窓枠に置いた雑巾ぞうきんが申し訳ない。


「ただいま。姉上はどこ?」

「若君のお部屋におられます」


 やっぱり僕の部屋か。

 この家でまともに機能してる部屋は少ないもんな。姉上が父上の部屋に行くはずないし、僕の部屋へ行くのは当然……。


 ……あれ? でも、待てよ。

 僕の部屋にはちょっと問題がなかったっけ?

 そこで僕はようやく思い出した。

 部屋の扉の蝶番が一つ壊れてるってことに。

 もう一つの蝶番はまだ辛うじて無事だったけど、姉上を案内したときにあのメイドが壊してる可能性は否定できない。そうなったら……うわ、あの姉上のことだ。烈火のごとく怒りそう!


 目を吊り上げるエレノア姉上の顔を思い描いた僕は、執事への礼もそこそこに二階の自室へ向けて走り出す。


「姉上! ただいま戻りました!」


 声は大きく、でも、扉はこっそりゆっくり開くと、幸いなことに蝶番は壊れていなかった。

 そーっと部屋の中を覗き込むと、長椅子に座って優雅にお茶を飲んでいた姉上が顔を上げる。


「おかえりなさい。ですがここは屋敷の中ですわよ、そのように騒々しくするものではありません」


 その表情に怒り見えなかった。それで僕は少しだけ肩の力を抜く。


「ごめん、姉上。気を付けるよ」

「分かったのなら良いのです。こちらへ来てお掛けなさい」

「はい。で、ええと……姉上はこの半日、か、快適に過ごせた?」


 それでもつい尋ねてしまったのは、やっぱり姉上がちょっと怖いから。

 僕の問いを聞いた姉上は持っていたカップを受け皿に戻し、ふぅ、と大きく息を吐く。


「今は王都の別邸に住んでいるとはいえ、わたくしもパートリッジ家の者ですのよ。客人に対するような気遣いなど必要はありませんわ」

「あ、そうだね」

「それに、当時あれだけの使用人が働いていたこの本邸を、三人だけで回せるなんてわたくしも思っていませんもの。少しくらい不便なことがあっても目をつむりますわよ」

「……うん」


 姉上の言う通りだ。昔のパートリッジ本邸では、本当に大勢の使用人たちが働いていた。

 だけどジェフリーに借金をしてからは給金が払える見通しも立たなくなって……それで、まだ存命だった母上が使用人たちの再雇用先を見つけて紹介状を渡していたんだ。

 みんなありがたく受け取って、少しずつうちから去って行った。特に母上が亡くなった後にはどっといなくなったなあ。


 あのとき使用人全員が本邸からいなくなってたら僕は父上と二人で暮らしていかなきゃならなくて、とっても大変だったと思う。だけど三人の使用人だけが我が家に残ってくれた。


 老執事は「パートリッジ家に一生をかけてお仕えすると決めております」と言って紹介状を受け取らなかったし、下働きの男性は「自分が他家でやっていけるとは思えません」と言って紹介状を返した。

 あのメイドだって「こんなのいりません! アタシはお優しい奥様にご恩返しをするんです!」と言って泣きながら紹介状を破り捨てたんだ。


 たとえ少し困ったことがあっても、こんな家に残ってくれたんだ。僕はこの三人になんだかんだでとっても感謝してるんだよ……。


「グレアム」

「あ、な、なに?」


 ハンカチでそっと目をぬぐってた僕は慌てて姿勢を正す。


「モート家ではうまくやっていますの?」

「うん、ジェフリーにもサラにも僕の女装は気づかれなかった。これも姉上が衣装を揃えてくれたり、化粧の仕方を教えてくれたりしたおかげだよ。ありがとう」

「礼はいりません。手ほどきを授けたのはお前のためではなく、わたくしのためでもありますのよ。――今後も気づかれないようになさい。お互いのためにも」

「努力するよ」


 僕の女装に気づかれたらパートリッジは終わりだ。サラにも誤解されるだろうし、父上が勝手に承諾したせいだとはいえ「企みに加担した」と思われて姉上の名誉も地に落ちるかもしれないから、そこは頑張るよ。

 問題は授業内容だけど……明日、町で何かいい資料が見つかることを期待しよう。


「ところでお前は週に何日モート家へ行く予定ですの?」

「二日だよ。赤の曜日と金の曜日」

「毎週行くつもり?」

「もちろん」

「では、その予定は変更なさい」

「え?」


 思わず僕が聞き返すと、姉上はぴしりと言った。


「毎週ではなく、二週に一度にする。――次にモート家へ行ったらそう伝えるのです」


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