モート家の屋敷から戻ってきた僕は決意した。
次こそジェフリーを納得させられる授業にする!
そのための資料を探しに行くんだ!
決意した僕は翌日、授業に使う資料を探すために近くの町へ出かけることにした。
青い空に浮かぶ白い雲がゆっくり流れていく。
近くの木では鳥が機嫌よく「ピーチチチ」なんて歌ってる。
ゆるく吹く風は爽やかだし、ああ、なんて気持ちのいい朝だろう。
僕は厩舎から出してきた馬に乗り、道の向こうへ顔を向ける。
「ハイヨー!」
威勢のいい僕の掛け声とは裏腹に、僕の乗った馬はのんびりと歩き出した。
うん、まあ、しょうがない。君は年寄りだもんね、ゆっくり行こう。
僕がなんでこんな年寄りの馬に乗ってるかと言うと、それはもちろんここがパートリッジ伯爵家だから。
馬は移動にも荷運びにも使えてとても重要だ。
我がパートリッジ伯爵家にだってもちろん、馬はたくさんいた。
そう。
“いた”。
つまり過去形。
馬も財産だから、領地や家の品々と同様に手放したよ。借金のせいでね。
おかげで我が家に残っている馬はほんの数頭、それも「気分にムラがあって御しにくい」とか「病気のせいであんまり動けない」とか、いわゆる訳アリで売れなかった子ばっかり。
僕が乗ってるこの葦毛の馬も訳アリ。優しくて温厚なんだけど、年寄りすぎて売れなかったんだ。昔はもっと黒っぽい毛が多かったらしいんだけど、今はもう全部の毛が真っ白になってるくらいの年寄りっぷり。体力も落ちちゃってるから、乗ったとしても
だけど急がないなら別に問題はないし、何よりとっても聞き分けがよくて優しい馬だから、僕は出かけるときは基本的にこの馬を選んで乗っていた。
頑張って町へ行こう。
そうしていい資料を見つけよう。
それも、できるだけ安い金額でね。
手持ちのお金に余裕はないからね。
頑張るぞ! おー!
「おんや? 坊ちゃん、馬を殴るおつもりで?」
腕を突き上げた僕を見て声をかけてきたのは、例のメイドだ。
「違うよ。馬を殴ろうとしたわけじゃない。僕自身に気合を入れてたところなんだ」
「はあ、そうですか」
う、なんだよその目は。本当だったら。
ちょっとバツが悪い思いで手を下ろすと、片手に桶を持った彼女は僕をまだジーっと見つめてる。
「そんなに見なくても馬を殴ったりしないよ。本当だよ」
「いや、坊ちゃんが普通の坊ちゃんだなあと思いまして。エレノア様の格好はもう止めたんですか?」
「今日はしないだけ。モート家の屋敷に行くのは週二日だから、僕が姉上の格好をするのは赤の曜日と黄の曜日だけだよ。――って、昨日帰って来てから言ったよね?」
「そうでしたっけ?」
「……うん。まあ、次に行くときはまた言うよ」
「あいさー!」
メイドはピカピカの笑顔で答える。元気なのはいいことだね。そういうことにしておこう。
「で、坊ちゃんの格好をした今日の坊ちゃんは、どちらへ行かれるおつもりで?」
「ちょっと町まで」
「ふんふん、でしたら石鹸を買って来ていただけますかねえ? あ、それと、さっきホウキが壊れちまったんですよ」
昨日は僕の部屋の蝶番も壊したよね。物品はもうちょっと優しく扱ってほしいな、うちは貧乏なんだからさ。
だけどホウキかあ……町は物価も少し高めだからなあ……。石鹸みたいに町でしか買えないものはしょうがないけど、ホウキならなあ……。
「ホウキと石鹸、どっちが重要?」
「ホウキ!
「分かった。町へ行くのは明日にするから、石鹸は明日買うよ。代わりに今日は村へ行って、雑貨屋でホウキの修理を頼んでくる」
「坊ちゃんのご用事はいいんですかい?」
「明後日までに準備すれば平気だから、いいよ」
「やったー! 助かりますです!」
メイドはそう言って走り出す。いや、桶の水がこぼれまくってるって!
「桶は置いて行けばいいだろ! また戻ってくるんだから!」
「わあ、うっかりしてました!」
よっこいしょと言って桶を置き、メイドはバタバタと走り去って行く。あーあ、入ってた水が半分くらいになってるじゃないか。しょうがないなあ。
「ちょっと待ってて」
地面に降りた僕は乗ってた馬に声を掛けて桶を持った。
井戸はすぐそこだし、メイドが戻ってくるまでにいっぱいにしておいてやろう。
「よっ……と!」
僕は端っこの欠けた水桶を井戸の中に落とし入れる。
水が入ると水桶は重くなるからね。力を入れて綱を引く僕は最初、周りの音に気がつかなかった。だからガラガラという音が耳に入ったのは水桶を引き上げ終えたときで、そのときにはもう、こちらへ向かって走ってくる馬車の姿はかなり大きくなっていたんだ。
「来客?」
馬車に見覚えはない。
モート家のピッカピカの馬車じゃないし、今にも壊れそうなうちの馬車でもない。じゃあ、どこの馬車なんだろう?
家が傾いてからこっち、他の貴族や親類との付き合いも徐々に減ってる。今じゃ訪ねてくるような人物なんてほとんどいないんだけどな。
僕は引き上げた水を桶に移しながら首をかしげる。そのときちょうど馬車が僕の近くまで来て、車体横にある小窓から中の人物と目が合った。相手の紫の瞳が細められ、優美な眉がぎゅっと吊り上がる。
「……あ」
ガラガラと通りすぎる車を僕が呆然と見ていると、少し通りすぎたところで馬が止まった。御者台から降りて来た男性が扉を開いたところで、中にいた人物が勢い込んで半身を外に出す。
「そこで何をしていますの、グレアム!」
近くの木に止まっていた鳥が数羽、大慌てで飛び去っていく。
辺りの空気を震わせるほどの声を出したのは、王都にいるはずのエレノア姉上だった。