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8 外法の理

内側から切り刻まれ、ズタボロの血袋のようになったうちの肉体はその場に乱暴に脱ぎ捨てられていた。そんなふうにぞんざいな扱いを受けている様を目の当たりにしても、うちは何の感慨もわかなかった。


あれは文字通り、うちの抜け殻。それ以上でも以下でもない。

例えば蛇が脱ぎ捨てた自分の殻を見て悲しくなるだろうか? ――なるわけがない。


気がつけばうちは男の子になっていた。

うちの身体を引き裂いてこの世に現れ出た小さな神様に。


いや、それは正確じゃない。うちが神様になったわけじゃない。

さっきまでアキミチ君や球状の怪異に散々痛めつけられ、ほぼ使い物にならなくなった古い肉体からうちの意識というか魂的なものが離れ、神様の中に取り込まれたのだ。


神様は六年前、お父さんと一緒に『御穴』の底で出会った時と全く同じ姿をしていた。


年ごろは、小学校の一年生か二年生ぐらいの男の子。

純白の上衣と袴を身に包み、長い髪を後頭部で結ぶという特徴的な髪形。

両足には冗談のように歯の長い下駄をはいている。


いわゆる稚児姿だ。

お祭りで行列を作ったり、御神楽を舞ったりするあのお稚児さん。


「な、何なんだお前?」


しゃがれた声でアキミチ君が呻いた。


「ずっと、あの女の中に宿っていたのか? どうして、そんな……」


ふと、お稚児さんの注意がアキミチ君から逸れた。

当然だけど、お稚児さんと五感を共有しているうちの視界も変化。


頭上を――天井が消失した、体育館の上空をうちはお稚児さんの目を介して見ていた。

そこには巨大な球状の怪異が浮かんでいた。夕陽のような輝きを放つその怪異は、うちとユカリが逃げ惑う姿を文字通り、高みの見物を決め込んで見下ろしていたのだ。


そして今、余興は終わったとばかりにうちらの生命を吸い上げようとしている。

だけど、そんな巨大な怪異に対して今、うちとお稚児さんが感じているのは怒りでもなければ、恐怖でもない。


もっと根源的で動物的な、本能とも呼べる感情。

それは激しい飢餓感だった。


「うわぁああ……。美味しそう……」


頭上を見上げたまま、うちは呟き舌なめずりをする。

いや、違う。言葉を発したのも、舌なめずりしたのもうちじゃない。


お稚児さんだ。

お稚児さんが頭上に浮かぶ怪異を目にしてアレを食べたい、とつぶやいたのだ。


ズキン、と左右の肩甲骨にナイフを突き立てられるような痛みが走った。

その痛みと同時にお稚児さんの背中に大きく開かれたのは一対の翼だった。


それは焦げ茶色の羽毛に覆われた、獰猛な猛禽類のそれ。

そして、その翼こそがお稚児さん――、童ノ宮の神様が稚児天狗の別名で呼ばれる由縁。


陸上競技の選手が走り出す前、そうするように上半身を低く下げ、下半身を傾ける稚児天狗。

ドンと和太鼓を打ち鳴らすような、空気の幕を叩く音が聞こえた。

次の瞬間、、稚児天狗は空中を舞っていた。


うちがそれを理解するに至った時間は二秒か、三秒。


その間に稚児天狗は、浮遊する巨大な球状の怪異の表面にピタッと密着していた。

その丸く幼い顔には輝くような可愛らしい微笑み。

いけ好かないアキミチ君の笑顔とは似ても似つかない無邪気な笑顔だ。


そんな天使のような稚児天狗に取り付かれ、球状の怪異は絶叫していた。

巨体を激しく震わせ、稚児天狗を何とか振り落とそうとする。その体積と比べれば何十分の一の大きさしかない相手に怪異は怯え、慄いていた。


怪異にしがみついたまま、稚児天狗がクワッと大きく口を開いた。

そう思った次の瞬間――、稚児天狗の可愛い八重歯が虎のような厳めしい牙へと変化。


勢いに任せてガブリと稚児天狗は球状の巨大な怪異に噛みついていた。

同時に大地を揺るがすような、何百人もの人が一斉に泣き叫ぶような絶叫が学校中に響き渡る。


稚児天狗はそれに全く気を取られる様子もなく、怪異を貪り続けていた。

子どもが好物のステーキをムシャムシャ平らげるように。


ドロリとした甘さがうちの咥内にも広がってゆく感覚。


稚児天狗と味覚を共有しているせいか、怪異の肉は美味だった。

そう感じて、もっと食することを欲している自分に気がついてうちは吐き気を覚えた。


いや、そうじゃない。本当は吐き気など覚えていない。

うちの意識がありもしない肉体の感覚を再現しようとしているだけだ。


そうこうしている内にも――耳を塞ぎたくなるような怪異の絶叫は次第に弱々しくなってゆく。


やがて、家ほども体積のあった球状の怪異は、風船のように萎み、稚児天狗の手のひらに収まるサイズに縮んでいた。


一切、躊躇する様子を見せず、稚児天狗はゴクリとそれを丸呑みにする。

喉を、ありもしない喉を滑り落ちてゆく怪異の異物感にうちの意識は震える。


これが神様の所業ってやつか。


「――ひっ、ひぃいいいい!」


別の方角から新しく悲鳴があがった。


グルッと方向転換した稚児天狗の視界にアキミチ君。

そうだった、まだこいつが残っていた……。


アキミチ君は床に尻もちをついていた。見苦しく手足をバタつかせ、腹からこぼれ出た内臓を床の上でのたうたせている。


その情けない姿に最早恐怖は感じない。

それどころかある種の滑稽さすらあった。


「や、やめろ! やめろって! 頼むから僕に近づかないでくれ!」


アキミチ君はうち――いや、稚児天狗を相手に懸命に命乞いをする。

結局のところアキミチ君は本人が語ったように怪異に支配され使役され続けた使い走りにすぎないのだろう。


うちとユカリを散々怯えさせ、命すら奪いかけたけど、この惨めなモウジャは憎むべき相手じゃない。むしろ、アキミチ君のことは哀れむべきなのだ


そんなうちの想いとは反対に――、稚児天狗は次なる標的にアキミチ君を見定めたようだった。


まるでいたずらっ子がそうするように、両手を顔の横に広げて威嚇のポーズ。

恐怖心を煽るようにジリジリとアキミチ君ににじり寄っていく。


こら。イジメたらあかん。


思わず苦言したうちにも返答はない。

稚児天狗はまるでいたずらっ子のように可愛らしい満面の笑顔。ただ、その目だけがギラギラと異様に強い光を放っている。


「か、勘弁してくれ! 悪かった! 僕が悪かったから!」


憐れみを誘おうと情けない金切り声を発し続けるアキミチ君。


「お願いだから二度も僕を殺さないでくれ!」


「――ちょっと落ち着き。そないに怖がらんでもええから」


稚児天狗の口を借り、うちはてアキミチ君に語りかけいた。

とてもではないが見ていられなかった。


「……この子、こう見えても神様やから。昔は荒ぶっていたけれど――、塚森の人達が長い年月をかけて慰めて神様になるよう、祀り上げてきたから。……さっきの怪異かて、死んだんちゃう。ただ、この子が自分の中に取り込んだだけや」


神様に連れ去られると言うことは、神様と一体になること。

そう教えてくれたのはお父さんだった。


神様に連れ去られてもキミカはいなくならない。

キミカは神様の中でキミカのまま、ずっと存在し続ける。


昔、亡くなったお父さんの奥さんや二番目の妹、両親がそうであるように。

塚森家をはじめとした童ノ宮の氏子は、みんな、最期は神様と一つになる。


その瞬間は少し怖いけれど、この世にはたった一人で未来永劫を孤独に過ごさなきゃいけない人もいる。それに比べたら神様に連れ去られるのはずっと幸せなことなんだ、と。


「う、ウソつけ! 何が幸せだ! そんなの永遠に囚われ続けるってことじゃねーかよ! このガキの姿をした化け物に! そんなの地獄に落ちる方がまだマシだろうが!」


この期に及んでまだ喚き散らかすアキミチ君。


思わずうちは失笑していた。

もし、この時、肉体があったら――口の端を歪めていたと思う。


きっと、そんなうちはとんでもなくブスなんやろな……。


と、稚児天狗の高下駄が体育館の床を蹴る。

アッと声をあげる間もなく、稚児天狗はアキミチ君との間隔を詰めていた。


丸みを帯びた子供の手が驚愕に目を見開くアキミチ君の顔をつかむ。


骨が軋むような音を立てて稚児天狗の顎が大きく、胸元まで開かれる。

その上下にも、咥内にも、喉の奥にも――猛獣あるいは鮫のような牙が無数に出現。


蛙が蛇に飲み込まれるように悲鳴ごと、アキミチ君は頭から丸呑みにされていた。


グシャグシャ、ゴリゴリ、バキバキと。

口の中で粉砕されたモウジャの味が広がってゆく。


それは先週、お父さんとレストランで食べた神戸牛よりもはるかに芳醇な味わいだった。


……そう言えば、肉って腐りかけが一番美味しいんやったっけ?

そんなことを考えながら、うちの意識はブラックアウトした。

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