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5 我利我利・亡者

無理が通れば道理が引っ込む、という言葉がある。


今の状況が正にそれだ。朝起きてご飯を食べて学校に行って授業を受けて――つまり、ほんの数時間前まで普通に生活を送っていた。

それは特段、楽しいことも嫌なこともない日常。


だけど、今は違う。

うちは全身、滝のような冷や汗をかきながら、ユカリの手をにぎりしめたまま、ベタつくような夕闇に浸された校舎の中を全力疾走している。


まだ先生や用務員の人達が残っている時間帯にもかかわらず、廊下で誰とも出会わなかった。

不自然と言えば不自然だけど、この手の出来事には「あるある」だったし、今、そんなことを気にしている場合じゃない。


数メートル後ろから両手に刃物を握りしめた血まみれの男の子が四つん這いの姿勢のまま、すごい速度でうちらを追いかけて来ているから。

化け物、幽霊、妖怪、怪異……。


どう呼んだっていいけれど、とにかくあれはこの世のものじゃない。


もし、アキミチ君が言っていたことが正しいのならば、あれは■■■■くんということになる。

その昔、小学校の校庭で惨殺死体で発見された■■■■くん。

日本全国にパンザマストが設置されるきっかけを作った■■■■くん。


もし、■■■■くんに捕まったら?

そんなの、考えなくてもわかる。


全身を切り刻まれるに決まっている。

お腹を切り裂かれて中身を全部かき出されるのだ。


自分の死にざまがハッキリと浮かび上がりそうになって――強引にうちはそれを頭の外に追い出していた。


想像したらあかん。悪いことや良くないことは。

その想像が生々しければ生々しいほど、それはリアルに近づく。

これも経験上、よくわかっていることだ。


と、前方に体育館の出入り口が見えてきた。

校舎から繋がる体育館への通路はそこしかない。


体育館の裏手には勝手口があるが、そちらに回ろうと思えば一度、校庭を横切らなければならない。

化け物相手に確かなことは言えないが、時間稼ぎぐらいはできるかもしれない。


うちはユカリの手をにぎりしめたまま、振り返りもせずに今思いついた作戦とも言えない作戦を伝える。


「このまま体育館に飛び込むで! そしたら、すぐに扉を閉める!」


ユカリから返事はない。だけど、うなづく気配は感じた。


うちは走る速度をさらにあげ――、体当たりをぶちかますようにして扉を押し開き、ユカリとともに体育館のなかに雪崩込んでいた。


そして、すぐにたった今、走ってきた方角を振り返る。


うちらから、ほんの数メートル離れたところに■■■■くんはいた。

引き裂かれた腹から飛び出た内臓を廊下に引きずらせて。

両手ににぎりしめた血みどろの刃物を振りかざしていた。


自分でも訳の分からないことを叫びながら、うちは飛びつくようにして扉を力一杯閉め、背中をもたれさせるようにして抑え込む。


その扉の向こうで獣じみた、怒りに満ちた唸り声が聞こえた。

それから、すごい勢いで幾度となく刃物を突き立てる音。


こんな目に遭っているのに我ながらよく発狂せずにすんでんな、とうちは思う。

いや、ひょっとしたら自覚がないだけでうちの頭と心はとっくに壊れているのかもしれないけれど。


不意に扉の外からの圧力が消えた。

同時に■■■■くんの気配も。


容易には体育館に侵入できないと悟り他の経路を探しに行ったのだろう。


肩で息をつきながら、うちはユカリを見た。

ユカリはよくワックスがかけられた体育館の床の上で両手両膝をつき、すすり泣いていた。


「……酷いよ、こんなの」


思わず駆け寄ったうちに嗚咽交じりにユカリが見返して来る。


「どうして私達がこんな目に遭うの? ただ、怪談を聞いただけじゃない。それも新聞委員会の仕事で。なのに、どうしてこんな……」


「ユカリ、気持ちは分かるけど今は……」


「そっか、そうだよね。こんなの現実な訳ないじゃん。こんなの夢に決まってる。キミちゃんもいるけど、夢だよね。うん、夢だよ。夢、夢……」


「ユ、ユカリ……?」


思わず、うちはたじろいでいた。明らかにユカリの様子がおかしかった。

焦点の合わない目でどこかをボンヤリ眺めながら、

「夢、夢、夢…」と呟き続けている。


正気を失いかけているんや、とうちは思った。

あんな血まみれの化け物を間近に見た上、校舎中を追い回されたせいだ。


当たり前と言えば当たり前だろう。ユカリはごく普通の女の子だ。

うちと違って幽霊だの化け物だのに全く耐性がない。


少しためらい――、うちはユカリの頬を平手で打っていた。


パチン、という小気味よい音が響く。


その音とは対照的にうちの胸はギュッと痛んでいた。


精神的な喩えじゃない。本当に胸が痛い。

心臓に釘を打ち込まれたみたいに。


「……痛い」


わずかに赤みがさした頬を片手で押さえ、ユカリがつぶやく。


「キミちゃん。……私のこと、ぶった?」


ユカリの声にうちに対する怒りや非難の色は感じ取れなかった。

ただ、事実確認をしている。そんな感じだった。


「ごめんな、ユカリ」


いたたまれなくなってうちは詫びた。知らずと声が震えた。


「うち、こんな対処法しか知らんねん。ここにお父さんがいてくれたら……」


「――ふーん。なかなかやるねぇ」


笑いを含んだような、人を馬鹿にするような声が聞こえた。

その途端、ギシッと軋むような音を立てて全身の筋肉が強張るのを感じた。


声の主は言うまでもなくアキミチ君だった。


教室で突然、姿を現したのと同じように、そうするのが当然であるかのようにアキミチ君は体育館の奥から現れ近づいて来る。


「妖気をビンタ一発で散らせるなんてね。……君、本当に何者?」


「そら、こっちの台詞や」


自然とうちはユカリの前に進み出ていた。

たとえ一瞬でも親友をアキミチ君の目に晒したくなくて。


「あんたこそ、ナニモンや? たちの悪い呪術師か、それとも狐狸の輩か?」


威圧するつもりでアキミチ君を睨みつける。

だけど、それは虚勢だった。内心は死ぬほどビビっている。


膝がガタガタ震えて、その場でひっくり返らなかったのがせめてもの救いだ。


「随分とひどい言い草だなぁー」


そう言ってアキミチ君が肩をすくめた。


「そもそも、コンタクトしてきたのはそっちでしょ? 怪談を聞くだけじゃなく、体感させてあげようって言う親切だよ。……ほら、よく言うだろ? 何事も実体験に勝るものはないって。そのほうがいい記事、書けると思うけどなぁ」


「何がいい記事や」


白々しいアキミチ君の物言いにカアッと頭に血が昇るのを感じた。


「あんな化け物を差し向けたくせに。死んだらいい記事もクソもないわ」


思わず言葉が汚くなる。


だけど、アキミチ君の人を馬鹿にした態度にはいい加減うんざりしていた。


だけど、


「ああ、そっか。ごめんごめん」


そんなうちの胸中を察してか、アキミチ君が煽るように大きな声を張り上げる。


「君達、思っていたより逃げ足が速いからさ。肝心なこと、伝え損なっていたよ」


「……肝心なこと?」


「ん。――これだよ」


そう言ってアキミチ君が制服の懐から取り出した何かを投げてよこす。

思わず受け取ってしまったそれはスマホだった。

ディスプレイ画面いっぱいに表示されていたのは――


心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。


スクロールしてもスクロールしても、延々と続く意味不明な漢字の羅列。

目がチカチカとして、思わずうちは頭を小さく振っていた。


「これはね、いわば安全装置だよ。怪談を聞いたり話したりする時の」


したり顔でアキミチ君がまた口を開いた。


「ひとことで言えば、これは死返しの呪文――みたいなものだね。この呪文を声に出して読めば、いや、目で読むだけでもいい。とにかく、何度も何度も反芻して、頭の中で自動的に流れるようにするんだ。よく効き慣れた音楽が頭の中で自然と再生することがあるでしょ? ああいう感じだよ」


呆気に取られてうちはペラペラしゃべり続けるアキミチ君を見つめていた。

人を死ぬような目に遭わせておいて、今度は化け物から身を守るために変な呪文を唱えろと言う。


「どうしたの? 二人とも、早く唱えなよ?」


「……ふざけんな」


奥歯を噛みしめ、うちはアキミチ君を睨み直していた。


「何が死返しの呪文や。今さらあんたの言うことなんか誰が信じるか」


「え~いいのかな~?そんなこと言って。本当に死んじゃっても知らないよ」


「やかましいわ!ええから、そこどけ! 邪魔や!」


がんばって怒鳴ってみたが、最後のほうは声が裏返ってしまう。

案の定、アキミチ君はピクリともしない。ますます顔をにやけさせている。


クソッ、舐め腐ってからに……!


投げ寄こされたスマホを片手ににぎりしめ、うちは思いっ切りに後ろに振りかぶっていた。

せめてもの反抗にそれをアキミチ君の顔に思いっ切り叩きつけてやるつもりだった。


相手は真っ当な人間じゃない。いや、そもそも人間かどうかも怪しい。

何の意味もないかもしれないけど、それでも――。


「あれ?」


自分でもびっくりするぐらい情けなく、間の抜けた声が漏れ出る。

悲壮な決意を固めた直後だったから余計に自分が間抜けに思える。


振りかぶったスマホはスポッと手から引き抜かれていた。

後ろに回った誰かの手によって。


ユカリ、だった。

思わず顔をひきつらせ振り返ったうちを見返したのは。


ユカリは普段からは考えられないぐらい暗い目をしていた。

あらゆる感情が喪失した、能面のような顔は蒼白で本当に息をしているのかと心配になるくらいだった。


スッとユカリの視線がわずかに下を向き、うちから奪い取ったばかりのスマホの画面に合わせられる。


ユカリの柔らかそうな唇がかすかに動き――


心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。


「そ、それはあかんヤツやって……!」


声にならない声でうちは呻いていた。


光の失せた目でジッとスマホを凝視しながらユカリは、そこに映し出された虫の群れを思わせる一連のテキスト群を読み上げ始めていた。


それがユカリの意思によるものではないことは一目でわかった。

読み上げながらユカリは白目をむき、小ぶりだが形の良い鼻の穴からドロリと赤黒い体液をしたたらせていたから。


心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。


「アッ、ガッ……!」


右から左の脇腹にかけて目には見えない拳を撃ち込まれたような鈍痛が走る。

衝撃のあまり胃が破裂しそうになっているのを感じながら、ガクガクと膝を震わせ、糸の切られた人形のようにうちは無様に床に倒れ伏していた。


続いて背中に押し乗って来る凄まじい重圧。

何が死返しや、背骨がミシミシ軋む音をききながらうちは思った。


やっぱり、ただの呪詛打ちやんか。


呪詛打ちとは唱えた者やそれを聞いた者を内側から蝕み衰弱させる、言わば霊的な猛毒を打ち込むための邪術だ。


技術的にはそんなに難しいものでもなく、怨みや嫉妬、悪意を心が満たされてさえいればその辺の素人さんだって簡単にマスターできるようになるってお父さんは言ってたっけ。


床に倒れたまま、うちは息が狭まってゆくのを感じた。

鼓動が早鐘のように高まり、全身が燃えるように熱くなる。表面は熱いけど、芯の部分は冷たく凍てついてゆく。


呪詛打ちの毒が全身にジワジワと広がっている証拠だ。

やがてそれが心臓に達した時――、うちは死ぬ。


ここ数年の間、うちは実に恵まれた環境で生活を送れていたと思う。

毎日のように怪異に悩まされていたのは同じだけど、周りの人達は本当に優しくて、遅ればせながらもうちは自分の子供時代を取り返せたと思う。


だけど、その前は――いつも、こんなふうに死にかけていた。


心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。心離不念念。起心従念念。音世観念暮。音世観念朝。浄我楽常。縁僧法仏。縁有仏与。因有仏与。仏無南。音世観。


遠くでユカリの声が聞こえる。


ユカリがまだ、呪文を唱え続けている。

早く止めないと……。


うちはもう手遅れだかもだけど、ユカリだけは何としてでも……。


「あれれれ? まだ意識があるの?」


かすんだ視界の中、頭上からアキミチ君が覗き込んで来る。



「すごいよねぇ? こんなに抵抗力があるなんて、さすがは神社の子って感じかな? そっちの子なんてカンタンに中に入り込めたのにさ」


もはや悪意を隠すつもりもないらしい。

アキミチ君の口元が三日月の形に歪んでいる。


「あんたなんか誰が信じるか、だっけ? ――正解だよ。最初から助けるつもりも逃がしてあげるつもりもありませ~ん。君たちはね、明日、この学校で発見されるんだ。……バラッバラッに切り刻まれた惨殺死体でね」


ちなみに、とアキミチ君は言葉を続ける。


「さっき教えた呪文はいわゆる、逆事ってやつだ。……キミカちゃんも完全なシロウトってわけじゃないなら聞いたことぐらいあるよね?」


知っている。それもお父さんが教えてくれた。


この世には神様仏様がうちら俗衆のため残してくれたお経や真言、祝詞がたくさんあるけれど、悪意を持って逆さに唱えれば加護を得るどころか生命と魂を穢す呪詛になるって。


「僕が逆さ事にアレンジしたのは延命十句観音経と言うありがたーいお経で……。まあ、それはいいか。要は唱えたやつとそれを聞いたやつがオリジナルの経文の意図とは真反対で、唱えたやつが横難横死を遂げますように、って意味だ」


「……何で?」


自分のものとは思えないしわがれた声で、やっとうちは問いかける。


「うちらに何の恨みがあるん? お互い、初対面やろ? それやのに何でこんなこと」


するん、とうちが言い終わるよりも早く――。


鋭く研ぎ澄まされた爪先が飛んで来てうちの肩に深々と突き刺さった。

身体の内側でゴリッと骨の砕ける音が聞こえ、うちは悶絶する。

激痛のあまり、泣き声すらあげることができない。


「何でだぁ? バーカ! 理由なんかねぇよ!」


ひひひひ、とアキミチ君が笑っていた。

前歯をむき出しに威嚇をする猿のような、下卑た笑顔だった。


「ムカつくんだよ! お前らが! 毎日、毎日! ただダラダラ過ごしやがって! 生きやがって! この僕があんな目に遭ったのに!」


アキミチ君は激高していた。ブチ切れていた。

大声でわめきながら足を大きく後ろに振り、倒れたうちに容赦なく爪先を蹴り込んで来る。


手首、二の腕、腹、太もも、膝と。

アキミチ君の攻撃は執拗で、その一撃一撃が重かった。


蹴り込まれるたび、うちは自分の身体が砕けていくのを感じた。


痛い。苦しい。辛い。もうやめて。許して。

そんなことを訴えたって聞いてくれるような相手じゃないことは明白だ。


だけど、せめて、顔は、顔だけはやめて欲しい。

もし、明日、ズタボロのサンドバックみたいになったうちが発見されるたら――、連絡を受け駆けつけたお父さんがまず目にするのはうちのボコボコに腫れ上がった顔やろうから……。


何の感覚もなくなった腕を何とか動かし、うちが頭をかばおうとした時だった。

アキミチ君の蹴り出した爪先がうちの鼻先でピタリと静止する。


「――おっと、いっけない。やり過ぎるところだったよ」


歯の根が合わないほどガチガチ震えているうちを見下ろし、アキミチ君がベロリと長い舌を出す。


長い舌、というのは比喩的な表現じゃない。

本当に長い。紫色に腫れ上がったその先が胸元に届くほどだ。


アキミチ君の姿は一瞬にして変わっていた。


干からびた海藻のようにゴワゴワになった髪の毛。

生気というものが一切感じられない、青白いを通り越して土気色の肌。眼窩らほとんど飛び出しそうになっている、左右二つの目玉は真っ赤に充血していた。


だけど、何より目を引いたのは——その腹部。

アキミチ君の腹は縦横に幾重にも切り裂かれていて、まるで花が咲いたかのようになっていた。大きな、血で染まった肉の花が。


そこから飛び出した中身、つまり臓器からまだ湯気が立っているのを見た時、ようやくうちは悟った。


アキミチ君だったんや。

小学校で変質者に惨殺された■■■■くんっていうのは

惨劇の舞台が小学校と最初にインプットされたせいで、被害者は勝手に児童と思い込んでいた。つまり、うちらは亡者の自分語りに付き合わされていたことになる。


さっき、うちとユカリを追いかけ回してたやつは分身みたいなもんか……。


「痛めつけすぎたら鮮度が落ちるもんね。危うく、また大目玉を喰らうところだった」


白濁した瞳でうちを見返しながら惨殺死体が、アキミチ君が低く笑う。

だけどそれはあの他人を小馬鹿にしたようなものとは違う。


自嘲するような笑い方だった。


「お前らは僕の獲物じゃない。……僕は食料調達係だよ。お前ら獲物を見つくろい、罠にかけ呪詛を打ち込んで動きを鈍らせ絶望させて味を調えるのが僕の仕事だ。最初はいろいろ手間取ったけれど――、ここ最近は随分と楽になったかな。ほら。SNSだの、動画配信サイトだの、簡単に餌がまけるでしょ? 全くインターネット様様だ。昔はまず口コミで引っかかりそうなやつを……」


言葉を切り、ため息をつくアキミチ君。

疲れ果てた、とでも言いたげな大げさな溜息だった。


「愚痴っぽくなっちゃったね。だけど、僕、かれこれ三十年以上もあいつにコキ使われているんだ。少しぐらい許してよ」


あいつ?

まさか、この期におよんで他にもまだ、何かが出てくるんか?


「ああ、そうだよ」


うちの心を読んだのか、アキミチ君が体育館の天井を片手で人差し指を伸ばしてさし示す。


「……というか、もう、そこまで来ている。君達を味わうのが待ち切れなくて」


次の瞬間だった。


どんな力が作用したのかは分からない。

体育館の天井が吊り下げられた照明器具ごと音もなく吹き飛んだ。


いや、吹き飛んだというより、まるで動画処理のようにモザイクのような粒子となって消滅したように見えた。


露わになったのは、ベットリとした質感の油絵のような夕焼け空。


そして、茜色に染まった空の真ん中には奇妙なものが浮かんでいるのが見えた。


それはオレンジ色に暗く輝く球体だった。子供が乱雑に書き殴った落書きの太陽のような。大きさはその辺の家ほどもある。


そんな巨大で得体の知れない物体がうちらの頭上いっぱいを覆っていた。


バタンとすぐ側で大きな物音が聞こえた。

呆然と呪文を唱え続けていたユカリが倒れた音らしい。


焦燥に駆られうちは親友の名を叫ぼうとした。


と、そのタイミングを狙っていたかのように頭上に浮かぶ奇怪な球体が一回転する。

まるで地球儀を回したかのように。


大量の肉が腐っているかのような凄まじい悪臭が宙を漂い、鼻腔を突き刺す。


反射的にうちは両手で口を押えていた。

床に身を横たえたまま嘔吐しそうになって。


もう、そのまま気を失いたいとさえ思った。


だけど、できなかった。目が合ったからだ。


球体の裏面に隠れていた人間のそれにそっくりな瞳孔と。

まぶたは二重で、ご丁寧なことに長いまつ毛まで生えている。


その姿にうちはお父さんが貸してくれた、昭和の怪奇漫画を思い出す。

正確に言えば、その漫画に登場する悪役をだ。


真っ黒な球状の姿形をしていて、そこから枝のような突起物を放射状に伸ばした一つ目の巨大な妖怪。


怪異とは日常的に遭遇しているうちだけど、こんな怪獣モドキは生まれて初めてだ。

一目で大物だとわかる。


うちがそこまで考えた時、グワッと球体の瞳がひときわ大きく見開かれた。


それは血走り、白目のところに細い血管がいくつも浮き出ていた。

リアルタイムで発狂した人なら何度か見たことがあるけれど、それにそっくり。


「お前らは逃げられない」


またアキミチ君が――亡者が球体とうちを交互に見比べながら言った。


「お前らも僕とおんなじだ。あいつに睨み殺される。心を壊されて、命を喰われるんだ。僕は自分で自分のお腹を切り裂いた。お前らのハラワタはどんな色をしているのかなぁ?」


ひひひひ、と耳障りな声。


うちらを嘲笑いながら——、だけどアキミチ君は咽び泣いていた。


「どうして、僕が死ななきゃいけないんだよ。毎日、クラスのやつらに殴られてからかわれて犬のフンまで食べさせられそうになって。オカルトや怪談話の収集っていう、やっと本気でのめり込める趣味で人気者になろうとしたのにさ。あんな奴に見込まれて操られて自分で自分を切り刻んで、ハラワタを引きずり出して。怪談に入り込み過ぎた僕が馬鹿だって言うのか!?」


「アキミチ君……」


泣きじゃくるモウジャに何か言おうと、うちは口を開きかける。


だけど何も出てこなかった。

言葉で他人が救えるほど、この世は甘くないとうちも分かっていたから。


たとえ、生きていようと死んでいようと。


「だから、だから……」


とアキミチ君が獣のような唸り声をあげる。

そこには煮えたぎるような憎悪と殺意が押し込められていた。


「お前らも——、死ねよ」

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