その闇は円く切り取られていた。
それは『御穴』と呼ばれる、深さ八百メートルもの巨大な縦穴の入り口。
気が遠くなるほど長い螺旋階段へと続き、等間隔に置かれた何百基もの鳥居をくぐり、下へ下へとくだってゆく。
どれぐらいの時間がかかっただろうか?
暗闇の中、何度も足を滑らせそうになりながらも、うちらはようやく『御穴』の底へと辿り着いていた。
幾つもの篝火がたかれ、周囲を厳めしく黒々とした岩の壁に囲まれたそこはひんやりとした冷気に満ちた広大な空間だった。
見た感じだと学校のグランドと同じぐらいの広さだったと思う。
『御穴』の真ん中には、巨大な石の塊が置かれていた。
それは八角形に平たく削り出された石舞台。その周りには太くて黒い注連縄が張り巡らされ、八角形の角かどごとに設置された支柱に結びつけられている。
その石舞台の上には男の子が一人たたずんでいた。
年齢は小学校の低学年ぐらい。
純白の衣と袴で身を包み、頭の後ろで長い髪をポニーテールのように結んでいる。
いわゆる稚児姿だ。
はるか頭上から降りそそぐ青ざめた月の光に照らされながら。
月明りの中、男の子の身体は明滅し――、向こうが半分透けて見えていた。
と、男の子が長い髪の先を揺らしながら振り返った。
うちの目と男の子の目があった。
男の子の目は深海の静寂を思わせるような漆黒で、一点の光もない。
足元が浮き上がり、吸い込まれるような浮遊感。
軽い眩暈を覚え、思わず後ろによろめいた時だった。
「――おっと。大丈夫かい?」
うちはそっと両肩を抱きとめられていた。
肩越しに顔をのぞかせたのは、お父さんだった。
お父さんも石舞台の上にいる男の子と同じような格好をしている。
もっとも、お父さんは大人だから稚児じゃなく神職だけど。
「ここは足元が悪いからね。滑らないように気をつけないと――」
「あ、うん……。ごめん……」
「それにあの御方を前にしたら、気持ちをしっかり持たないとダメだよ」
声を引くしてお父さんは言った。
「見た目は小さな子供でも、あの御方は神様だからね。……たとえ神様に悪気がなくても、まっすぐ見つめ合えばあちら側に引っ張られてしまう」
「あちら側……」
思わず、うちはお父さんの言葉を繰り返していた。
「だけど、大丈夫。……塚森家は先祖代々、神様と上手に付き合うためのノウハウを何百年もかけて積み上げてきたからね」
にっこり笑ってお父さんは続ける。
「だから心配しなくても、キミカだって神様と心を通わせることができるようになるよ」
チラッとうちは横目で石舞台のほうを見遣る。
もう、男の子はこちらを向いていなかった。
ただ、ボンヤリとした表情で頭上から降りそそぐ月の光を眺めていた。
「もし、神様と心を通わせれるようになったら、うち、ホンマの塚森の子になれるん?」
考えなしに出てきた一言だったけれど、すぐにうちは後悔した。
ほんの少しの間だっただけれど、はっと息を飲んだお父さんが声を詰まらせたから。
「バカだなぁ、キミカは。……できようと、できまいとキミカはもう、とっくに塚森の子だよ。たとえ、本当は血がつながっていなくてもね」
少し間を置いて、お父さんがうちの頭を撫でる。
『御穴』の底は暗くて、表情まではよくわからなかったけれど、その声は笑っているようにも、少し泣いているようにもうちには感じられた。
「だけど――これはこれ。それはそれだ。これからのキミカの人生において、ここで神様と縁を結ぶことは必要不可欠だ。理由は……言わなくてもわかるね?」
うちは頷いていた。
実際、お父さんの言う「理由」は毎日のように起こっている。
例えば、今日は学校の帰り道に水たまりが出来ていたから避けて歩こうとしたところ、中から女の人の手が出てきて足をつかまれた。
一昨日は学校のトイレでネズミの顔をした小人の群れに取り囲まれた。
その十日ぐらい前には、友達と遊びに出かけた映画館でスクリーンいっぱいに見知らぬおっさんの顔が浮き出てきて目当ての映画は結局一分も見ることができなかった。
他にもいろいろある。
ありすぎて、どんな感じだったかいちいち思い出せないくらい。
「……じゃあ、早速神様に話しかけてみようか」
お父さんがまた、うちに言った。
「宿題にしていた唱え事、ちゃんと暗記してる?」
「えっと……」
今度はうちが言葉に詰まる番だった。
人間が口を使って話す言葉は、基本的に神様には聞こえない。
神様と話をしたい時は心を使って話をする必要がある。
その時、余計なことを考えたり、思ったりするとそれは雑音になり、神様にとってはすごく耳障りになるらしい。最悪、拗ねたり、怒りだしたりするそうだ……。
お父さんから教えてもらった唱え事をうちは一生懸命覚えた。
『御穴』ではメモとかを持ち込めないって言われたから、ノートに何度も書いて必死で。だけど、いざ、実際に唱える段になると綺麗さっぱり忘れていた。
「……あー、ド忘れしちゃったか。……まあ、こういう緊張を伴う場面ではよくあることだから気にしなくていいよ」
うちがモジモジしていると、事情を察してくれたお父さんが苦笑交じりに言う。
「それにこう言っちゃなんだけど唱え事って言うのは、文言を一字一句、正確につむぐよりもそれを唱えることで心を落ち着かせ、一つのことに集中するほうが重要だ。唱え事に呼吸を乗せ、雑念を払い思考や感情を一方向に向ける。……分かるかな?」
「……あんまり。……ごめん」
お父さんに申し訳ない、と思いつつもうちは素直に答えるしかない。
「まあ、実践を重ねて慣れるしかないね。御祈祷に限らず何事も」
と、肩をすくめるお父さん。
「お父さんが先に真言を奏上するから、キミカは後から追いかけてみて?」
大きく息を吸い込み――、ゆっくりと時間をかけて吐き出してゆくお父さん。
それに合わせている内に自然とうちの呼吸も整えられてゆく。
すっとお父さんは目の前で両手を重ね合わせ――、掌のなかで左右の指を交叉させてゆき、その状態で人差し指を立てて合わせ、親指で薬指の付け根を押さえつける。不動根本印と呼ばれる印相だ。それから低く振動するような声でお父さんが唱え事を唱え始めた。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。