でんでん丸だったはずのそれはもう、ぴくりとも動かない。それを何も知らない人間が見た時は、男の言った言葉を借りるなら、誰もがゴミだと言うだろう。それが蝶だったことになど、誰も気付かない。翠蓮だけが、それの本当の姿と名前を知っていた。
「でんでん丸を………」
翠蓮は声を震わせる。
「でんでん丸を返して!!!」
翠蓮がそう叫ぶが、目の前の男は自分の肩あたりまで伸びた髪をくるくると弄りながらつまらなさそうにして、潰れたでんでん丸を地面に落とす。そしてそれをぐりぐりと踏みつけて引き摺り、もうどの部分かも分からない残骸がちぎれて原型をとどめないほど粉々にした。
翠蓮は氷塊をその男へと怒りのままに飛ばし、男が避けて下がったそこに走り寄ると粉々になったでんでん丸の残骸を拾い集める。
「でんでん丸……!お願い、……しなないで!」
その様子を見た男は笑う。
「蝶一羽になにを真剣になっているんだ?バカバカしい」
「でんでん丸は私のそばに居てくれた友達なんだ!わたしはお前を絶対許さない!」
その翠蓮の言葉に男はもう一度大きく口を開けて笑う。
「許さない?何を言っているんだお前は。許されないのはお前だ。誰に向かってその様な口を聞いているのか、よく思い知りながら絶望し死ぬといい」
男がそう言い切ると同時に翠蓮の周りが魔物で埋めつくされていく。
「なに、これ……!」
翠蓮は刀を構えて、不破の教えの通り結界を張ることで魔物を抑えることができたが、まだまだ増えていく魔物を前にまだ不安定な結界では限界が来てしまう。少し離れた所に座って愉快そうにこちらを見ている男を見れば、その男は笑って魔力を向ける。すると、魔力を受けたのか、翠蓮の結界を壊そうとしていた魔物が巨大化し、結界は押し切られて砕け散ってしまった。
「……な、んで…………うああッ!!」
魔物に吹き飛ばされた翠蓮は、刀を構えてなんとか着地するが、先程からの出血が悪化し頭がぐらぐらと揺れる。だが、そんなことよりも何故、魔物を召喚し使役する魔道士が今ここにいるのかと刀を持つ手が震える。
「何で、か。俺は俺自身が作り出した魔物と言ったところか。俺の体には心臓と呼ばれる核がある。本体である俺を殺すには俺も同時に殺さないとならない。魔物が永遠に増え続ける中で京月は周りを守りながら戦う。魔力が切れたところを狙って皆殺しだ、はははは!!!」
そう言って笑う男は自分をウロボロス首領のコピーだと言う。京月の魔力が感じられる方向からも大量に増えていく魔物の力を感じ取り、翠蓮は冷や汗を流す。しかし、諦めずに真っ直ぐに前を見た。
「やる気は十分ありそうだが、そんな状態でこの数の魔物を相手にどう戦う?」
翠蓮は少し息を吸って、ゆっくりと吐いた。揺らぎかけていた意識を集中してクリアにする。
「どう戦うかなんて、弱いわたしが考える必要ない」
「ほう、ならどうするんだ?そこで死ぬか?」
また髪をくるくるといじりはじめた男は懐から取りだした煙草を加えて翠蓮を嘲笑う。その前で翠蓮は、溢れかえる魔物の波へと飛び込んで刀を払うと、氷の粒子を渦のように飛ばして、結界で限界まで凝縮した魔力を爆発させる勢いで放ち、一気に魔物を吹き飛ばす。
それでも増え続ける魔物も、刀を構えて確実に切り倒していく。
「どんなに数がいたとしても、この中に京月隊長より強い魔物なんていない!!!」
京月の速さと不規則で予想できない動きを思い出し、目の前の魔物の弱点を突く。
(こんなところで諦めたりなんかしたら、一番隊でいる意味が無い。勝てないならここで死ね!!)
翠蓮は自分の力を沸き立たせる。
限界を超えて、出せる力は何が何でも出し切って進んでいこうとする強い意志は時に、人を何倍も、何十倍も強くする。
「はは、はははは!!面白い、お前も俺を楽しませてくれそうだな」
男の力で力を増した魔物でさえ沈めていくその爆発的な翠蓮の成長に、男は歓喜する。
「お前、名は」
「氷上翠蓮」
「ははは、そうか。氷上か。すぐに死んでくれるなよ!!氷上翠蓮!!!」
翠蓮により消滅させられた魔物の残骸を踏みつけながら、翠蓮へと距離を詰めていく男の、まるで見えない蹴りを翠蓮は刀で受け止める。衝撃で後ろに飛ばされるが、何とか踏み止まり再び向けられた男の蹴りを今度は氷の魔力で受け止めてその足を凍らせる。
だがすぐに氷は破壊され、重い拳が翠蓮の腹部に直撃する。
「うっ、かはっ!」
後退り、蹲りそうになるのをなんとか耐えて前を向くがその瞬間には横から殴り飛ばされてその体は大きく吹き飛んでいく。
「はぁ、まぁそうだろうな。元より怪我人に期待などするのが駄目だったな」
倒れた翠蓮に背を向け、男はその場を離れていこうとするが、その背後で立ち上がった翠蓮を見て振り返る。ぼたぼたと頭から血を流す翠蓮の目はまだ曇っていなかった。
「お前に何が出来る?戦いの中で成長する奴かと思えばとんだ思い違いだった。お前は俺に勝てない」
翠蓮は分かっていた。
目の前の相手から感じる魔力と自分の間にある圧倒的な差を。だが、そんなことは諦める理由になどならなかった。翠蓮は笑みを浮かべる。
「なにを笑っている?」
できないなら、死ぬだけ。どう戦うのが正解かなんて、今の翠蓮にその答えは出せない。まだまだ弱い自分は、必死に前に進むだけ。
そして翠蓮は京月の言葉を思い出す。
『俺がいるからお前は死なない。お前の後くらい俺がどうにでもしてやる』
「わたしには、隊長がいる。わたしだけじゃない。わたしだけで、勝つ必要なんてない」
翠蓮がそう呟いて刀を構える。
「なにを言っている?甘えた弱者の発言だな。自分一人では何もできないのか?」
「わたしは、弱い。でも、絶対に諦めない!!」
そうして激痛に耐えながらも、翠蓮は男の元へと飛び込んだ。