ゆらゆらと心地よい揺れに揺られ、懐かしい香りに包まれる。
甘い甘い桜の香り。柔らかく温かい布に抱かれて、ひなは夢を見ていた。
記憶には残っていないはずの、幼い頃の自分。
まだ一人歩きが危なげな幼い自分が、誰かを一所懸命に追いかけて歩いている。何かに躓いて倒れそうになった瞬間にひなを支える女性が現れた。
長い、銀髪の女性は自分の胸の中に納まるひなをとても優しい眼差しで見つめている。
『可愛い、私のひな』
心の奥底がジンと温かくなるような優しい声音でひなの名を呼び、それに応えるように無垢な笑みを浮かべる赤ん坊のひなの頭を優しく撫でていた。その女性の顔を見ることができず、後姿しか見ることが出来ないのはひなに女性のハッキリとした記憶がないからだった。顔は分からないが、ただ一つ確信的に分かるのはこの女性が「母親」だと言う事だ。
幼いひなは差し伸べられた手の指をしっかりと握り返す。
『愛してるわ。例えどんなに遠く離れたとしても……』
母は心の底から ひなの事を想い続けていた。
温かく柔らかく、どこか甘い花の香りを引き連れた母の優しい手がひなの頭を撫で続けている。
ずっとこの優しさとぬくもりに包まれていたい。ずっとこの手を放したくない。このまま傍にいて離れないで欲しい。
『あなたが……に目覚めないように……私の……』
ふと、母の呟き声がプツプツと途切れ、全てを聞き取る事が出来なくなった。そして、それまで抱きしめ頭を撫でていた手が離れ少しずつ遠のいていく。
突然傍から離れて行ってしまう母に気付いた幼いひなは、懸命に手を伸ばした。
赤子だった自分の手がいつの間にか見覚えのある大きさになって、離れて行く母の手を掴もうと懸命に伸ばされた。
――待って……待ってよ……!
小学三年生の姿になっていたひなは必死に母の後を追いかけて走った。息を切らし、自分が持てる限りの力を振り絞って追いかけるが追いつかない。むしろその距離はどんどん開いて行ってしまった。
ひなは足を止め、乱れた呼吸を整える為に息を継いだ。
汗が頬を流れ落ち足元に水玉模様を作り出していくのを見つめながら、ひなは切ない思いに胸がいっぱいになり唇を噛んだ。
『行ってきます』
ひなが聞き覚えのある声に弾かれるように下げていた顔を上げて、そちらに目を向けた。するとそこには記憶に残る父が立っていた。
――お父さん!
ひなが父の傍に駆け寄りその手を握ろうとしたが手応えがなく、父を通り抜けてしまい勢い余って倒れ込んだ。
父はひなを一度も振り返る事も無く、たった一度頭を撫でてくれただけで家を出て行ってしまう。
――置いてかないでっ!
滲む涙を流しながら立ち去って行く父の背に叫ぶが、そのまま遠くへ行ってしまった。
『仕事に行くって言ったっきりあの子、帰ってこないの。勤務先の会社に問い合わせたら少し前に退職したって……。きっとあの子を誑かしたあの女を探しに行ったのよ』
泣き出したひなの背後からかかる別の声に気付いて顔を上げると、祖母が心配と不安で押し潰されそうな顔を浮かべていた。
祖父母はひなの存在を最初からあまりよく思っていなかったのを知っている。それも、父が母と出来ちゃった結婚をした事も気に入らないことと、生まれて来たひながあまりにも父に似ていなかった事が原因だと言う事をこっそり聞いてしまったからだ。
ひなは祖父母から顔を背け、消えて行ってしまった父と母の後姿を追いかけるように視線を送る。
二人に縋るようにもう一度手を伸ばし、それまで胸に詰まっていた言葉を紡ぐために口を開いた。
ずっと言いたくても言えなかった言葉。それを伝える相手がいない虚しさは何度も味わって来た。一度でいいから口にしたかった言葉……。
――お母さん……っ!!
思いの丈を言の葉に乗せて叫ぶと、伸ばした手をぎゅっと誰かが握り締めてくれる。優しく暖かなその感触にひなは閉じていた瞳をゆっくりと開くと、滲んでいた涙が目尻を滑り落ちた。
「ひな」
虚ろな眼差しの先には、見覚えのない部屋の天井と見覚えのある人物の姿を捉えた。
サラサラの金色の髪に額から生えた二本の角。落ち着いた色合いの着物をまとい、伸ばした手をしっかり握り返して心配そうにこちらを覗き込んでいるその人は、目を覚ましたひなの様子を見て少しばかり安堵したような表情を見せる。
「良かった……」
そう言って微笑み、手を握っている方とは逆の手で頭を撫でてくれるその感触に、まだ夢心地だったひなの意識が徐々に覚醒し始める。
「麟、さん……?」
「あぁ、そうだ」
柔らかい笑みを浮かべて頷き返す麟の姿をしっかりと認識したひなは、途端に表情を歪ませて布団から起き上がる。だが思った以上に体に力が入らずふらついてしまい、傾ぐ体を慌てて麟が抱き止めた。
「目覚めたばかりだ。無理をするな」
「……本当に、麟さん……? ほんとに?」
「そうだよ、ひな」
優しく、しっかりとその腕の中に包まれる鼻先を掠める久々の香り。濃厚な桜の香りと、ほんの少しお日様のような温かい香りに胸がいっぱいになり、突然ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。安堵と久し振りに再会出来た喜びと先ほどの夢とが入り混じり、止めどなく溢れ出る涙を自分で制御出来なかった。
久し振りになりふり構わず声を上げて泣きじゃくり、自分を抱きしめて来る麟にしがみつく。
「麟、さんっ……! 本、物の、麟さ、んだぁ……!」
小さな子供のように泣いて縋る。まともに話す事さえ難しいほど咽び泣く彼女の姿に、一度ならず二度までも追い込まれていたのだと思うと、ただただ申し訳ない気持ちになり抱きしめる麟の腕に力が入った。
一人にさせないと誓っておきながら一人にさせてしまった事の罪悪感と、やるせなさが心を支配していく。
「ひな……迎えに行くのが遅くなってすまなかった」
抱きしめたままそう呟くと、麟の胸元でひなは何度も首を横に振った。言葉で応える代わりに、きつく着物を握り返してくる。
「もう一人は嫌だよっ! ずっと傍にいて……っ、離れて行かないでっ! 置いていかないで……っ」
「大丈夫、ここにいるよ。今度こそ君を一人にしない、絶対に」
ひなは空っぽになりかけていた心が再び満たされていくような気がした。
自分の手元から離れて行かないように、遠い所へ行ってしまわないように力いっぱい麟にしがみついた。夢で見た父母が遠くに離れて行く時の寂しさがリフレインし、感情の箍が外れてしまう。
なだめるように何度も背中を撫でる麟の腕の中で感情のままに泣き叫び続けたひなは、やがて疲れ果て再び眠りに落ちていた。
麟はそんな彼女を抱き寄せたまま、泣き腫らしたひなの顔を見つめているだけでぎゅっと胸を締め付けられる。
この感情を麟はまだハッキリと覚えている。
心から大切にしていたものが自分の腕の中から離れていってしまった。誰が何と言おうと、自分の傍にいて欲しかった。優しい微笑みをその顔に称え、陽だまりのような温かさを伴った人……。
――麟……。
記憶の片隅で微笑むその姿に、思わず麟の口から呟くように零れ落ちる。
「……
その呟きに、麟はハッとなる。
いつだったか、理由が分からないまま自分の手元から離れて行った雪那。自分は一体、彼女とひなをいつから同じように見ていたのかと思った。それはきっと初めからだったかもしれない。自分とひなは互いに同じ思いをしているからこそ、彼女の気持ちが痛いほどによく分かる。
麟はひなをぎゅっと抱きしめる。
「……すまない」
初めこそ重なる所も多く、彼女とひなを重ねて見ていた。だが、ひなはひなであり彼女は彼女で違う人間だ。そして同じなのは、麟にとってかけがえのない大切なものだと言う事。
「麟」
落ち着いた頃を見計らい縁側に控えていたヤタが障子を開ける事もなく声をかける。
「しばらくひなの傍にいてやれよ。ついでに、あんたも少し休め」
「八咫烏……」
「仕事は俺とマオが一通りやっとくさ。今頃あいつもてんてこ舞いになってるだろうし、そろそろ手伝いにいかねぇとな。それに……今のひなには、あんたがついててやらないといけないだろうと思う」
静かに語るヤタの言葉に、麟は申し訳ないと思いながらも小さく頷き返した。
「分かった。すまないが、もう少しの間頼む」
「承知」
そう言うと、ヤタはすっと立ち上がり部屋の前から立ち去る。
麟は自分の腕の中で眠るひなに視線を落とし、泣き腫らした目元にそっと触れた。
ひなの肉体はもう大人になったと言うのに、中身はまだ幼い少女のまま。幽世と現世の行き来で心と体の不一致が起きている。今しばらくは彼女の流れを静かに見守ってやらなければならないかもしれない。
麟はそっとひなを再び布団に横たわらせ、体制を起こそうとして、ツン、と胸元の着物を引かれる感触にそちらに目を向ければ、ひなの手がしっかりと羽織を握り締めているのが見えた。
麟はするりと羽織の紐を解いて握らせたまま寝かせると、ひなはぎゅっと着物ごと体を丸め込んで眠る。
「雪那と君は違うのに……とてもよく似てるんだ。慈愛の匂いや雰囲気が……。でも、いつまでも彼女と君を重ねて見てはいけないな……。君は君だ。彼女を止めておけなかった以上に、君を愛すると誓うよ」
麟はそっとひなの頬にかかった髪を指先でそっと払い、その頬に唇を寄せた。