ズズズ……と、重たい空気が圧し掛かる。
現世と幽世の世界は同列にありながら無いもの。だが、幽世にいる麟にもハッキリと分かるほど現世で大きな力が動いている事を感じ取ることが出来た。そしてそれがひなの力によるものだと言う事も……。
「……」
麟は縁側に座り込んで頭を抱え、柱に体を預けて項垂れていた。
そんな様子を見ていたシナはオロオロとしているが、ヤタは険しい表情を浮かべている。
ひながいなくなってから言葉を紡ぐこともなく、落ち込んだように項垂れる麟の姿を見ていられない。だが、彼の感じているものはヤタにも分かるだけに何も言えずにいる。
これで二度目だ。
麟の傍から彼が望んだわけでも時期が来たわけでもないのに、大切にしている者が居なくなったのは。
一度目は本当にある日突然だった。何の前触れもなく彼女は突然いなくなってしまった。あの時の絶望は今のようにかなり深い傷を心に負って麟は打ちひしがれてしまっていた。
ひなに関しては、麟が目に留めてからまだ日が浅いと言うのにこのありさまだ。あの子に対する想いと彼女に対する想いは違うものだろうとは思うが、あまりにも目が当てられない。
「麟」
「……」
ヤタが声をかけるが、麟は返事を返して来ない。
以前にも見たこの光景にぐっと拳をきつく握りしめ、腑抜けてしまった麟の前に跪くと問答無用で彼の胸倉を乱暴に掴んで強引にこちらを向かせた。
「麟! しっかりしろ! ひなはあいつとは違う! ひなは現世に戻ることを望むどころか拒んでただろ!? まだ打つ手はあるんだ! まだ見つからないと決まったわけじゃねえんだ! それに俺は、あんたのそんな姿なんか見たくねぇんだよ!」
以前は強い事を言わなかったヤタはそう言い放つと、小さく舌打ちをして颯爽と屋敷を飛び出し空へ舞い上がった。黒い羽を撒き散らしながら去って行ったヤタを追うように麟はおもむろに顔を上げる。
その羽が舞い落ちるさまを眺めながら、麟は頭に残る言葉を思い出す。
『私があなたに申し上げたいのは、どうか、私を忘れて欲しいと言う事です……』
穏やかに、しかしどこか陰りのある笑みを浮かべる彼女がなぜそう言ったのか分からない。彼女は肝心な事は何も語らなかった。心から大切に想っている者が突然いなくなってしまう事は、麟にとって非常に大きなダメージを残してしまう。
心が搔き乱され、麟は思わず胸元の着物を掴む。
ぎゅっと目を閉じると、今度は無邪気に笑うひなの姿がはっきりと脳裏に映った。
『麟さん、ひな、もう寂しくないよ。だって麟さんやヤタさんや、優しい人たちがここにはたくさんいるんだもん!』
麟は瞳を開く。ひなの瞳の奥に光るあれは、彼女が遺していった物と同じ……。
それに気付くと、麟は柱にもたれ掛かっていた体を起こした。
彼女が自分の元を去ったのは彼女の意志だ。しかし、ひなは自分の傍にいることを何よりも望んでいた。あの子が諦めていないのに、過去の事を引きずって落ち込んでいる場合だろうか。
何より何かとても嫌な予感がする。それはひながこの場からいなくなってしまってからずっと拭えない感覚だった。
「ひな」
我に返ったように麟はひなの名を呼ぶ。
彼女をまた一人にさせてしまった。力の制御も出来ない、ひな自身が制御の方法さえも分からない内に、しかも暴走の兆しが出たこのタイミングで。現世では、もう彼女の暴走が始まっている……。
「あの子は、また寂しい思いをしているに違いない」
「麒麟様」
屋敷での爆破が落ち着きを取り戻し、外へと避難していたあやかし達が再び屋敷内に戻って後片付けに終われている間、麟が心配だったマオが彼の傍に現れた。
「大丈夫ですか?」
「マオ……」
麟は傍にきたマオを見やる。
彼女の姿を捉えると、自分が安易にこの場から離れるわけには行かないと言う立場を思い出させた。だがこのまま自分はここにいてはいけない。ここに留まる事で彼女は二度は戻ってこなかった。ひなは、ひなだけは絶対にそうさせてはいけない。
「……」
ぐっときつく拳を握り締める麟の姿を見つめ、マオは居た堪れない表情を浮かべた。
マオもまた、今までどんなトラブルが起きてもいつも冷静だった麟がこれほどまでに動揺している姿を見るのは二回目だった。
屋敷の主として、また幽世の番人としていつもどっしりと身構えている麟が、ここまで気持ちを沈ませる状況にさせているのが小さな人間の少女だと言う事が、マオ自身にしてみれば納得がいかず無意識にも膝の上に置いた手がきつく握りしめられた。
「いつもお傍にいてお仕えしているのは私なのに……」
「……マオ?」
つい口からついて出た小さな呟きに麟が反応すると、ハッとなったマオは慌てて首を横に振った。
「い、いえ、何でもありません」
「……」
麟はやるせない表情のまま庭先に視線を向け、胡坐をかいた膝の上に置かれた手首に触れる。麟のその手首にはひなの髪ゴムが嵌められ、時折キラリと光った。
それを見たマオは首を傾げ、その髪ゴムをまじまじと見つめてしまう。
「麒麟様……それは……?」
「これは……ひなが身に着けていたものだ。大事にしていたからな……」
何かの手掛かりになるかもしれないと、麟はそっと指先でその髪ゴムを撫でた。その表情は慈しみ深く、とても柔らかい。そして同時に、何としてでもひなを取り戻すと言う強い意志を感じられた。
「なぜ、麒麟様はその少女にそんなにご執心なのですか?」
そう問われて、麟は一瞬驚いたように目を見開いた。そしてもう一度自分の手首にはめられた髪ゴムに視線を落とし、そっと触れてみる。
「……あの子には私が必要だ。いや……違うな。私があの子を必要としている」
自分でも不思議なくらい、ひなの事になると感情が搔き乱される。
初めて出会った時の彼女の境遇があまりにも可哀想そうな哀れみから? もしくは他には無い力を持っているから? 神格化している自分を見れる人物だったから?
確かにはじめはそうだったかもしれない。だが、屈託ない笑みを浮かべて手を握り返してくる仕草が、無邪気にはしゃぐ姿が、はにかんだように笑う顔が、強く心に焼き付いてどうしようもないほど守りたいと思えた。
いや、それとも、彼女に似ている所があるからなのかもしれない。
「……親心、みたいなものでしょうか」
「?」
マオは黙り込んだ麟の姿を見て、ポツリと呟いた。
その言葉に麟が彼女を振り返ると、マオは真っすぐに見つめ返してくる。
「私は子供はいませんけど、幼い子供の真っすぐで純粋な姿はとても愛くるしくて、守ってあげたくなるものです。だから、きっと今麒麟様があの子に関して感じている想いは親心みたいなものなのではないでしょうか」
マオのその言葉には皮肉が込められている。それは意図的であった。
幽世にも幼くして亡くなった子供の魂は少なからず来る。その子たちの無邪気さは見ている側も思わず微笑んでしまうほどに愛くるしい。麟がひなに対して抱えているものはその感情から来る、いわゆる親心だとマオが指摘すると麟は力なく笑った。
「そうかもしれないな……。ひなはまだ幼い。大人の愛情を知らずに育った子だ」
麟がそう呟くと、マオはどこか安心したようにニッコリと微笑んだ。
その腹の内には違う感情が籠っている事など微塵も感じさせることもなく。
「麟!」
上空から黒い翼をはためかせてヤタが降りてくる姿を見るや、麟はすぐさま立ち上がり彼の元に駆け寄り、彼の周りを見回した。
「ひなは?」
「……」
「八咫烏?」
麟の問いかけに、ヤタは険しい表情を浮かべ首を横に振る。
不穏な予感はしていたが、その姿にまるで血の気が引くような思いだった。
「ひなは見つかってない。それから現世だけどな……酷いありさまだった。人間の言葉を使わせてもらうなら、まさに天災。特にひなが住んでたと思われる一帯はめちゃくちゃだった。負傷者の数は今こうしている間にも増えてる。すぐにでもここに魂が沢山押し寄せて来るだろう」
麟はぎゅっと拳を固く握りしめた。
やはりこのまま彼女を現世に置いておくわけにはいかない。人でなしの鬼人になり果てては幽世で生きることは出来なくなってしまう。そうなるともう二度とひなは戻ってこない。そう思うと、麟は初めて怖いという感情を覚えた。
「八咫烏。私も行こう」
「麒麟様!?」
突然麟自ら現世へ出向くことに驚きを隠せないのはマオだった。
これから多くの御霊が来ること分かっているのにも関わらず、一番肝心な番人のポジションを不在にすることは前代未聞とも言える。それでも麟には今出向かなければならない理由があった。
「マオ。私の仕事は少しの間お前に一任する。頼んだよ」
「し、しかし……!」
「すまない。だが私が行かなければならないんだ。あの子を一人にしないと約束をした」
ブワッと麟を中心に強い旋風が吹く。
瞬間的に目を閉じたマオが目を開くと、神格化した麒麟の美しい姿があった。思わずため息さえ出てしまうほどの神々しさにマオが言葉を無くしていると、麟は顔を傾けて切れ長の眼差しをマオに送る。そしてすぐに空を掻いて空に駆け上がった。
「マオ。悪いな。出来るだけ早く戻るようにする。それまで頼んだ」
「八咫烏!」
マオの肩に手を置き、ヤタもまた麟の後を追って空に舞い上がった。