ひなはしばらく手にしたジュースを飲みながら目の前の煌びやかな街並みをぼんやりと見つめていた。
行き交うあやかしたちは、表情こそ分かり難いもののみんなどこか楽しそうだ。お店をしているあやかしたちは一生懸命客を引き、それに引き寄せられる者。呼び込みをそれとなくはぐらかして立ち去る者。その立ち振る舞いは人のそれと相違はない。
こうして見ていると本当に様々な姿形をしていた。人に似ている者、スライムのように原型が無い者。それでも誰も身なりに対して物言うものはいない。
皆違って皆いいと良く聞くが、ここはそれがよく体現されているように思えた。
「皆、何だか凄く楽しそう……」
「?」
ひなはぽつんと呟いて、隣にいる麟に寄りかかった。
麟がそんなひなに視線を向けると、ひなはウトウトと眠たそうにしている。
「ひな、もう屋敷に戻ろう。長時間ここの空気に触れ続けられるほど体はまだここには馴染んでいないから、疲れただろう?」
「……うん。ちょっと、眠たい」
時間と言う概念がない幽世。今が何時でどれくらいの時間が経ったのかは分からない。
ひなが目覚めて、ここで食事を済ませるまでの時間の感覚はそんなには経っていないように思えたが、激しい運動をした後のような疲労感が体中に圧し掛かっている。
麟は疲れ果てたようになっているひなを抱き上げると、屋敷への道を急ぐ。
少しの時間であれば時折街に降りる事も可能だが、環境に慣れていないひなにはまだしばらくの間屋敷の中だけで過ごしてもらう方が賢明だ。
そもそもここは実体を持たない者たちが住まう場所。黄泉の世界に行くまでの順番待ちで成り立つ世界だ。そんな世界に実体があるままここに飛び込んだひなの体には色々な不都合が起きてもおかしくはない。
麟の屋敷に戻り大門をくぐると、それまで体に圧し掛かっていた重たさが嘘のように和らぎ、ひなは眠気は残るものの再び元気を取り戻す。
「何だか急に体が軽くなった気がする」
「ここはひなが過ごしやすいように結界を張ってあるからね」
「そんなことも出来るの? 麟さん凄いね」
「しばらくはここの屋敷で過ごすと良い。欲しいものがあれば揃えさせよう」
「うん……あ、でも」
全て自分の為に準備をしてくれる麟の言葉に、ひなは素直に嬉しく思った。だが、心の中には嬉しさと同時に申し訳なさが込み上げてくるのも否めない。
ひなは困ったような笑みを浮かべながら申し訳なさそうに呟く。
「色々してくれるの嬉しいけど、それで麟さんが大変になっちゃうのは嫌だなって思って」
その言葉を聞いた瞬間、麟の脳裏に一人の女性の言葉が蘇る。
――色々してくれるのは嬉しいけど、それであなたが大変になるのは嫌なの。
「!」
相手を気遣うひなの言葉に、麟はハッとなったようにひなを見た。その驚いた表情を浮かべる麟にひなは不思議に思い首を傾げる。
「麟さん?」
「あ……いや。何でもない」
麟は慌てて困ったように笑いながら彼女の頭にぽんと手を置く。
「ひな、君はまだ子供だ。私たちの事情など気にする必要は無いし、存分に甘えればいい。私がそのことで大変になることはないよ」
「……ほんとに?」
「もちろんだ」
ニコリと笑みを浮かべると、ひなは顔を赤らめながらも心底嬉しそうに大きく頷き返し、麟に思い切り抱きつく。
「麟さんありがと!」
「さあ、部屋へ戻ろう。八咫烏も戻って来ているはずだ」
抱きついたひなの頭を撫でてそう言うと先に歩き出した麟の後姿を見たひなは、つい先ほどまで繋いでいた麟の空いている手を見つめる。
もう少し手を繋いでいたい……。
ここはお屋敷で外とは違い、手を繋いでいる理由は特にないのだが大きく暖かな手にもう少し触れていたいと思ってしまう。
突然繋ぎに行ったら嫌がられるだろうか?
そう思うと少し怖くもあったが、麟はそんなことで怒るような人じゃないと言う事は分かっている。だから無意識に体が動き、パタパタと小走りに駆け寄ると躊躇いがちにもその手を握り締めた。
突然手を握られて少し驚いたように足を止めひなを見下ろした麟に、ひなは不安そうな色を見せる。
「……」
怯えたような目を向けて来るひなに、麟はやんわりと微笑みその小さな手を握り返した。
その反応に嬉しくなったひなは目を輝かせ両手で繋いでいる手を握り返した。
「八咫烏。戻ったよ」
「麟。頼まれた物を買って来たけど、人間の子供の着る着物の大きさはよく分からなくて……こんな感じでいいのか?」
部屋に戻ると先に戻っていたヤタがこちらに背を向けたまま風呂敷を解き、こちらを振り返ると同時にその動きが止まった。突然固まってしまったヤタの姿に不思議そうな顔を浮かべる麟とひなは、目を瞬かせてポカンとしてしまう。
「どうした?」
「……いや、別に」
ヤタの視線の先には、ひなと繋いでいる麟の手が映っている。
声をかけられて何でもないと呟くが、どこか憮然とした雰囲気を消せないヤタの様子にひなが気付いた。
ヤタの視線の先と自分の繋いでいる手を見比べて思い至ったのだが、ひなは無意識にも繋いでいる手にぎゅっと力を込めてしまう。
「?」
ふいに強く握り返された麟がひなを振り返ると同時にひなは口を開いた。
「ヤタさん、もしかして焼きも……」
「う、うううううるさいな! そんなんじゃねぇし!! と、とにかくこの着物が合うかどうか試したらどうだ!?」
「?」
早口でまくしたてるように言葉を遮ると、目の前に置いてあった着物をぐいっとひなの前に押し出して来た。そこに綺麗に畳まれていたのは二種類の着物で、一つは淡い黄色で可愛らしい桜の絵が描かれており、もう一枚は白地に赤い朝顔の描かれた着物だった。
帯は赤地のものと淡い緑色のもので、一見すれば大人の女性が合わせるような色合いではある。
「わぁ、凄い綺麗! ヤタさんありがとう! 着てもいい!?」
「あ、あぁ……」
「やった~!」
ひなは麟の手を離して着物を抱きかかえると、傍に控えていたシナに連れられて別室へ移動する。
残されたヤタはちらりと隣に立っていた麟に視線を投げかけると、麟は彼のすぐそばに腰を下ろす。
「八咫烏、どうした?」
「何がだ?」
「ひなが来てから様子がおかしいぞ?」
「……そりゃ、いきなり人の子が実体を持ったまま幽世に来たなんて、らしくもなくなるだろ」
まさか、麟の隣にいるのが自分じゃない事に嫉妬した。などと言えるはずもなく、本当の気持ちはぐっと飲み込み、もっともらしい理由を口にすれば麟も納得したように「それもそうだな」と笑いながら頷いた。
柔和に笑う麟の横顔を見ていたヤタが、やはりどこか釈然としない色を滲ませながら麟の隣に腰を下ろしつつボソリと呟くように訊ねる。
「……二人でどっか出掛けてたのか?」
「あぁ、ひなはこちらに来てから何も口にしていなかったからな、街に降りて食事を摂らせていたんだ。ところで、化け猫屋で菓子は買って来たか?」
「あぁ、これでいいか?」
ヤタは着物の袂から宝石のような琥珀糖の入った瓶を差し出した。
様々な色に輝く琥珀糖が詰まった瓶を手に取ると、カラリと音が鳴る。
「これだけあればしばらくは大丈夫そうだな」
「化け猫屋の菓子って言う事は、あの子の能力の制御の為なんだな」
この世界には様々な菓子店がある。そしてその菓子は特別なもので、種類によって「効能」と言うものが必ず備わっていた。
「記憶」、「制御」、「解放」、「呪縛」など、病的な物とは違う部分に作用する物だ。とりわけ、化け猫屋の琥珀糖は「制御」に関する効能が高く、闇の力の暴走に高い効果があった。
「ひなの力もいつ暴走するか分からない。自分でコントロールが出来るようになるまでは、この菓子の力が必要になるだろう」
「麟……あの子の異能が何なのか、あんたはもう分かってるのか?」
ひなが持つ異能。神獣でもある麟にはおぼろげに感じるところがあった。
彼女が秘めているものは常人にはない何かだ。普通にはまず持ち合わせないであろう力。それはこの世界に生きるあやかし達でさえそう容易く持ち合わせるものではないし、あやかしに仮転生の際に生前の徳に応じて付与できる能力でもない。
彼女になぜそんな強力な異能を持っているのか……。
麟はあの力にどことなく思い当たるところがあったが、確証が得られない為断言は出来ない。
「今はまだハッキリとは言えない。ただ、あの子の持つ力は……現世に置いてはおけないほど強いと言う事ぐらいだ」
「……」
「彼女の力がおかしな方向へ行かないよう、見守らなければならない。それに……」
麟はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
長年彼の傍に仕えてきたヤタだが、麟が何を言わんとしているのか分からず不思議そうに見つめて来る。
麟は手にしていた琥珀糖から視線を上げ、穏やかな時間が流れる庭園に向けた。