麟に抱きかかえられたまま、広い屋敷の中をぐるりと見て回る。
広い庭園には大きな池があり何本も植えられた桜の木が屋敷を取り囲んでいる。建物の造りは平安時代の寝殿造りそのものだった。幾つも小さな渡殿と呼ばれる渡り廊下があり、隣の棟へと移動できるほど広大な土地と建物にひなはただただ感嘆の声を漏らす。
今まで暮らしていた家も彼女には決して狭いものではなかったのだが、ここまで広い屋敷はもはやお姫様にでもなったかのような気持ちにさせる。
「凄く大きなおうち。ひな、お姫様にでもなったみたい」
思った事をそのまま口にするひなに、麟は僅かに驚いたような表情を浮かべるがすぐにくすくすと笑う。
「確かに、そうかもしれないな」
「ひな、お姫様なの?」
「そうだね。これから君はここで暮らしていくんだ。好きな事をして好きなものを食べ、好きに遊ぶことも出来る。ここでの君は自由だ。それに、今までのように誰も君に嫌な気持ちにさせるものもいない」
麟の言葉に、顔を紅潮させて目を輝かせたひなは、自分の両頬に手を当てため息を漏らす。
「嘘みたい……ひな、今夢見てるのかな」
「夢じゃないよ。現実だ」
「……うん!」
彼女の言葉を肯定するだけで、ひなは心底嬉しそうに顔を綻ばせて微笑み大きく頷き返した。
何をしても何を話しても否定され続けた彼女に今必要なのは、少しずつでも彼女のする事、話す事を肯定してやることだった。
少しずつでも、自分の存在を否定しない子に育って欲しい。麟はそう願わずにいられなかった。
「ねぇ、麟さん」
「?」
「ここには他に誰もいないの?」
ひなは麟に連れられて色々を見せてもらっている間に人と一切すれ違わない事に気付く。
この広大な屋敷内には自分たち以外いないのだろうか?
「いるよ。ここには使用人が何人も暮らしている」
「そうなの……?」
そう呟いた矢先、真っ白い布の面を付けた使用人と思われる女性数人とすれ違った。
(あ、ほんとだ。でも、なんでお面を付けてるんだろう?)
「ひな。この
通り過ぎた人を見つめているとふいに麟に声を掛けられ、そちらを振り返る。
渡殿を渡ったその先には、これまで見てきた建物と同じくらいの規模の建物が見えた。そしてこちら側ではほとんど見かけることがなかった人たちの姿がチラホラ見て取れる。
「あ。あの人たち妖怪さんだ。あの妖怪さんもお仕事してるの?」
ひなの目に映る、忙しく廊下を行き来する者たちがあやかしだと言う事に驚きもせずそう答える。
「そうだよ。彼らは私の仕事を助けてくれているんだ」
「麟さんて、どんなお仕事してるの?」
「そうだな……。外から来た客人をもてなす仕事、と言えばいいだろうか」
「お店屋さんなの?」
「店か……まぁ、あながち間違いではないな」
麟はくすくすと笑いながらひなの頭を撫でる。
彼の仕事は、現世からやってきたかつて人だった者たちの魂の、現世で積んできた業の数や重さを計り、それ相応の容姿を与え職を与えると言うものだ。
ひなの言う通り、ある意味では店だと言ってもおかしくはない。
「君はこの渡殿から先には入っちゃいけないよ」
「うん。分かった。お仕事の邪魔になっちゃうもんね」
素直に頷くひなに、麟はにっこりと微笑んだ。
「君はこの場所以外なら何処の部屋でも好きに出入りしてもらって構わないからね」
屋敷の中心でもある庭園が臨める寝殿の廊下で、麟は抱きかかえたままだったひなを下ろしながらそう呟く。このあまりに広い屋敷の中のどこに行ってもいいと言われて嬉しいと思う反面、ひなはう~んと悩んでしまった。
「凄く広いから迷子になっちゃうかも……」
「そうか? なら、君には一人女中を付けよう」
「女中?」
「君の身の回りの世話をする女性の事だよ」
麟が着物の合わせから一枚の人の形をした紙を取り出して人差し指と中指で挟み、三度顔の前で空を切る。そしてふっとその紙に息を吹きかけると麟の指に挟まれていた紙は自分の意志を持ったかのように小さく揺れて手元から離れ、ひなの傍に舞い降りた。
紙が地面に付くか否かの刹那、自分の意志を持ったかのようにむくむくっと大きくなり先ほどすれ違った女性たちと同じ背格好で同じ着物をまとい、やはり布の面を付けた女性になった。他の人と違うのは面の額部分に小さく朱色で「護」と書かれている事くらいだ。
まるで魔法だ。
これまでひなが知る限りの常識を大きく覆すような出来事が次から次に起きている。夢のようで現実を目の当たりにしている事に感動を覚えた。
「すごぉい……魔法だ……」
思わず漏らした感嘆の言葉に、麟はくすくすと笑う。
「今日からひなについてくれ」
「……」
麟が女性にそう言うと、その女性は何も言わず音も立てることもないまますっと腰を折った。
ひなは不思議そうにその女性を見上げていたが、女性の表情は分からず窺い知る事も出来ない。外はずっと緩やかに風が吹き続けているのに、彼女の面も他の女性たちと同じく少しもひらりとなびく事もなく、まるで顔に張り付いているかのようだった。
「麟さん、この女の人の名前は何て言うの?」
「名前?」
「うん」
「彼女たちは私の式神たちで名前は無いんだ」
あやかしたちの世界ではある程度の格がある者だけに名前が与えられる。
麟が作り出した式神の彼女らに名前がないのは至極当然と言えるのだが、ひなは酷く悲しそうな顔を浮かべた。
「名前が無いのは可哀想だよ」
「じゃあ、ひなが付けてくれるか?」
「いいの?」
「あぁ」
自分で選んで決めて良いと言われ、ひなは嬉しそうに目を輝かせる。これがまた一つ、ひなの自己肯定感を高める一つになった。
ひなはどんな名前にしようかとしばらく考え込んでいたが、ふと思いついたように顔を上げる。
「……シナちゃん」
「シナ?」
「うん! あのね、前の家に住んでた時に優しくしてくれたお姉さんが一人だけいたの。初めて会ったお姉さんだったんだけど、少しの間だけ色んなお話を聞かせてくれたりして凄く楽しかったんだ! シナちゃんとはその一回しか会えてないけど、ひなの大事な思い出なんだよ」
黒髪を一つに束ねた、黒いスーツを着た格好良く優しい女性。
もしも自分が大きくなったら、あの女性のような大人になりたいと思っていたくらいだ。
嬉々として話すひなの唯一の楽しいと思えた時間だったのだろう。顔を紅潮させ、両手に拳を作って興奮気味に話す様子を見て、麟もまた柔和な表情を浮かべる。
辛いだけの過去ではなく、一つでも彼女にとって良い思い出があるなら良かったと。
その時ふと、ひなの二つに結ばれた髪ゴムがキラリと光った。
「その髪止めは……」
「あ、これ? 綺麗でしょ? シナちゃんに貰ったんだ~。ひなの宝物なの!」
麟はそこに込められた気配に気付き「……なるほど」と納得する。
ひなが出会ったと言うその女性もまた、何らかの異能を持った人物かあるいはあやかしの類か……。ただ言える事は、髪ゴムに込められた守りの気配から、その女性もまたひなの味方であると言う事がよく分かる。
「そうか。ひなにとって辛いばかりの思い出だけじゃなく、安心したよ」
えへへ、とはにかんだ笑みを浮かべるひなに、麟は溜まらずふっと笑ってしまう。
こんなにも愛くるしい子が迫害を受け続け、人から嫌われていたとは普通なら考えられない。これからはひなが幸せな時を過ごせることを切に願わずにいられなかった。
麟はひなにもう一度手を差し伸べる。
「では、ひな。次は屋敷を出て外の世界の話をしようか」
「うん!」
ひなは今度こそ躊躇うことなく、差し出された麟の手をしっかりと握り返した。
「シナちゃん」と名づけられた式神の女性は、出掛ける二人を見送り頭を下げていた。