「ひなを、ここじゃないどこかに連れてって」

　何度神様に願ったことだろう。

　嫌な事があった時は、いつも家から近い神社に行っては一心に願った。

　誰一人、自分の事をきちんと見てくれない。

　誰一人、温かい気持ちで接してはくれない。

　誰一人、優しい眼差しで見つめてくれない。

　誰一人、抱きしめて慰めてはくれない……。

　何がいけないのか分からないまま、だた”自分がいけない”んだと思い込み、辛さや寂しさから逃げたい一心で足しげく神社に通って同じ願いをし続けていた。

　特にこの日は、藁をも掴む願いだった。

　祖父母の元にいた彼女だったが、この日とうとう見捨てられてしまい、齢９歳にして天涯孤独になってしまったから。

　どうぞ、この窮屈で悲しい気持ちにしかなれない現実から、自分を解き放って欲しい……。

　これまでも何十回、何百回……いや、ともすれば何千回と同じことを願い続けていたこの日、いつもと違う不思議な事が起きた。

　まだ春遠い初秋。白むほどに両手を固く握り締めていたひなの手の上に、何処からともなく一枚の桜の花びらが舞い降りた。

　その瞬間強く吹き付ける風が、バタバタと二つに結んだひなの髪を煽った。驚いて涙に濡れていた瞳を開いたひなの目には、神社の上空から降りて来る眩いほどの光が見える。

　暗い夜の闇の中。光の中から現れたのは、神々しい光をまとった一匹の神獣だった。

　「麒麟」と呼ばれる伝説の神獣が、今、ひなの目の前に立ってこちらを見つめている。互いにそれ以上何を話すわけでもなく向かい合っていた麒麟の、暗い琥珀色をした綺麗な瞳がきゅっと細められ、ぶるっと一度頭を振った。

「……わっ！？」

　その時強い突風が吹き、ひなは思わず目を閉じて顔を庇うように腕で覆う。そして風が落ち着いたころに恐る恐る麒麟方へ顔を向けると、そこには獣の姿ではなく青年の姿をした麒麟が立っていた。

　肩までの金髪と尻尾のように長い朱色の髪。そして頭には黒い角が二本生えている深い紫色の着物を羽織った青年が先ほどの神獣であることはすぐに分かった。

　琥珀色の瞳がひなを咎める訳でもなく細められ、僅かに首を傾げる。

「……ひな。君の願い、いつも聞こえていたよ。毎夜この場で希うその望み……。今一度問おう。君はなぜ、ここではない場所に行きたいと願うんだ？」

　真っ直ぐ見下ろしてくる麒麟に、ひなは顔を俯けてぎゅっと服の裾を掴んだ。

　小さな体は小刻みに震えているが、それが恐怖から来るものではなく感極まった状態にあるからであるのは、誰が見ても分かる事だった。

　ひなは固く引き結んでいた唇を開き、震える声で言葉を紡ぐ。

「……ひなは、普通の人じゃないの。普通の人には見えない物が見えるの」

「そう言う人間は大勢いるだろう？」

　麒麟がそう答えると、ひなはぎゅっと目を閉じて首を横に強く振った。

「違うの！　ひなは幽霊とかだけじゃなくて、妖怪も見えるの。それに変な力もあるの」

「変な力？」

「よく……分かんない。でも、すっごく悲しくなったり怖くなったりした時に、急に電球が壊れちゃったり、窓にヒビが入っちゃったり。そのせいで皆気持ち悪いって、怖いって、ひなから離れてっちゃった……」

　絞り出すような声でそう言い終わると同時に、閉じていた瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。

　麒麟は、時折しゃくりあげながら零れる涙を両手で何度も拭うひなの傍に歩み寄ってしゃがみこむと、着物の袂から手拭いを取り出しひなの涙を優しく拭う。

「……その力は、いつも出て来るのかい？」

　そう訊ねれば、ひなは「分からない」と首を横に振った。

　何度も目元を拭うその手を麒麟が取ると「バチッ」と強い衝撃が指先から走り抜け、瞬間的に手を引っこめた。

「……！」

　麒麟はその衝撃に驚いたように目を見張り、再びひなを見つめる。涙に塗れた茶色の瞳の奥に一瞬縦長に赤い光が光る。麒麟はその光を見逃さず、ハッとなって目を見張った。

　この目の赤い光を、どこかで見たことがある……。

　懐かしくもあり、忘れなければならないと思うもの……。

　麒麟がもう一度その光を見ようと眉間に皺を寄せまじまじとひなを見つめると、彼女はまた自分が何かをしたのだと感づき顔を更に歪め、頭を下げた。

「ごめっ……、ごめん、なさい……ごめんなさい……っ！！」

　大きな声で何度も謝りながら先ほどよりも激しく泣きじゃくるひなに、瞬間的に手を引っ込めた麒麟はぎゅっと手を握り締める。

「すまない。君のせいじゃないよ。少し驚いただけだ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ！」

「ひな……」

「悪い子でごめんなさい、気持ち悪くてごめんなさいっ！　生きててごめんなさい……っ」

「！」

　小さな子供から発せられる言葉にしてはあまりにも衝撃的過ぎた。

　これまでどれほど過酷な状況に追いやられ、心無い言葉を浴びせられてきていたかが分かるその言葉に、麒麟はひなの腕を掴んで引き寄せて力いっぱい抱きしめる。

「そんな事を言ってはダメだ。君は、何も悪くない」

　その言葉に、ひなはぎゅうっと麒麟にしがみつき溢れ出る涙もそのままに助けの言葉を口にする。

「お願いぃ……連れってってよぉ……。ひな、ここにいる意味ないもん。お母さんもお父さんもいないし、お爺ちゃんやお婆ちゃんも、ひなのこと気持ち悪いって……」

　しゃくりあげ続けるひなに、麒麟はひなを抱きしめる手に力を込めた。

「……ひな。神隠しを、知っているかい？」

「神、隠し？」

「何の痕跡もないまま、ある日突然いなくなってしまうことだよ。ひなは、その神隠しを望むんだね？」

　もう一度確かめるように顔を覗き込みながら訊ねれば、ひなは大きく首を縦に振った。

　何の迷いもない、真っすぐな眼差し。麒麟はその眼差しにきゅっと目を細め、そっと閉じる。そしてもう一度彼女を抱き寄せると、ひなは一瞬驚いたように目を見開いた。

「……」

　麒麟が彼女の耳元で小さく何かを囁くと、ひなはすぐに目を虚ろにさせて目を閉じ、スヤスヤと眠りにつく。

「……ひな。君に新しい世界をあげよう」

　麒麟は愛おしそうにそう呟くと、ひなを抱きしめた。