久しぶりに会った母は白髪が増えていた。表情もほぼ無く、いつも笑顔だった母とは印象が全然違った。
一番の違いは、顔のあちこにちアザがあること。明らかに殴られた跡だ。
しかし、目の前の女性は間違いなく母だ。歳を取ったなぁ、という印象。そう言えば、もう75歳かな。少し前までは年に数回家に帰っていた。ところが、ここ1〜2年は忙しすぎて家に帰れてなかった。
俺は俺で離婚したばかり。愛想を尽かされて、新しい旦那を見つけて逃げられているのだ。恥ずかしくて、母親には話せなさそうだ。
DVのことも知らなかったし、気づかなかった。そのことも目の前の「ケアマネージャー」さんに話した。
「改めまして、私はお母様のケアマネージャーです」
俺は「ケアマネージャー」についてすら知らなかった。そこはこのケアマネージャー、略してケアマネさんが話してくれた。
母は5年前から介護が必要なのだった。そして、その介護内容を決めるのが「ケアマネージャー」とのこと。契約者は父親。だから、これまでDVに気づいていたが、それを止めるような動きができなかったと謝られた。
もし、父親が抗議を気に入らないと思ったら契約を解除されてしまう。そしたら、DVを止める人がいなくなってしまうのだ。
これまで、ケアマネージャーは父と付かず離れずで母親へのDVをたしなめる程度抑えてくれていたらしい。
難しい立場でよくやってくれていたのが伝わってきた。
母親は痴呆もだいぶ進んでいる上、日々のDVで心が病んでいるらしい。確かに話しても反応がおかしい気がする。
「それで、俺は何をしたらいいですか?」
「ありがとうございます。実は、ケアマネージャーの契約をお父様から息子様に切り替えたいと思ってます。その上でまず身体の治療をするために入院をしていただきたい、と」
なるほど、アザだらけだ。どこか悪いのかもしれない。
「どこが悪いんですか?」
「背骨の圧迫骨折があります。手術が必要と思われ……」
ここまで言って、ケアマネージャーは話しにくそうだった。
「何かあるんですか? 遠慮なく言ってください」
「はい……実は……」
少しずつ口を開くようにケアマネージャーは話してくれた。母を避難させるとき余裕がなく、貯金通帳など一切持ち出せなかったこと。
どこにあるかくらいは何度も家に行っていたので知っていたが、自分が直接持ち出すことは法に触れる行為なのでできなかった、と。
その上、印鑑は夫婦で同じものを使っているので父親がどこにしまっているか分からなかった。つまり、一切の財産を持ち出せずに、身一つで避難させたと悔しそうに謝罪された。
「いえ、母を助けてくださってありがとうございました。病院代は俺が払います。あと、ケアマネさんの契約代も……」
「ありがとうございます。ケアマネージャーは県の補助があるので、息子様にご負担いただく必要はありません。ただ、お母様の入院に関してもう一つ問題が……」
DVからの避難で逃げた場合、お金など資産がないことと、身分証明書などがなく国や県のサービスを受けられないのだとか。
「かなり深刻ですね……。役所に行って相談してみます」
「大丈夫ですか? 私たちでは相談はできても申し入れをする権限がありません。お仕事はお休みできるでしょうか?」
「……」
こんなところで退職が役に立つとは……。どうせ近々ハローワークに退職の手続きをして失業保険をもらえるようにしないといけないと思っていたところだ。
自分のことでは動けなかったが、実の母親のことなら動かないわけにはいかない。俺はその足で区役所に相談に行くことにした。
○●○
役所の人は思いの外親身になって相談に乗ってくれた。そもそもどの窓口に行ったらいいかも分からなかったのだ。受付けで困っていたら、保護課を案内されたのだ。
保護課は生活保護の部署だ。そこで担当者が付いてくれた。名前は柞原(くばら)さん。母は父親に貯金通帳を取られているのでお金がない。その上、新しく入ってくる年金すらも父親に着服されている。本当にお金がないのだ。
そこで生活保護をお願いしては、とのことだったが、生活保護は中々降りない。申請自体は言えばできるけど、ちゃんと審査があるのだ。まあ、当然だな。
変なブースみたいなところに案内されて、とにかく事情を柞原さんに話した。凄く話を聞いてくれて、すごくいい人だと伝わった。そのうち、隣のブースではすごく騒いでいる人がいる。「あんた、私に死ねっていうんね! 病院にいかんといかんっていいよろーもん!」とか絶叫してる。めちゃくちゃ元気そうなんだけど……。こっちは本当に大変なので、もう少し静かにしてほしい。
「ちょっと周囲が賑やかなので、別室でお話うかがえますか?」
柞原さんはそう言ってくれて、別の階のドアが閉められる部屋に案内してくれた。3畳くらいしかない部屋で机1台と椅子2脚。向かい合わせで話ができる部屋らしい。これなら周囲の騒音に邪魔されない。
でも、偏見じゃないけど「生活保護を受ける」っていうことはそういうことなんだよなぁ。色んな人が申請していて、うちみたいに本当に必要な人と判別しないといけない。
俺はとにかく一生懸命これまでのことを話した。父親のこと、母親のこと。関係ないかもしれないけど、自分が離婚したこと。それに関連して仕事を辞めてしまったタイミングであること。母は入院が必要であること。1時間以上かけて全部話した。
そしたら、柞原さんからは、母の場合は年金自体は出ているので(額は不明)、新規の通帳を作ってそこに年金が入るように手続きをしたらいいのでは、とアドバイスをもらった。
通帳を作るには身分証明書が必須だが、保険証がない! 順番として、保険証を作るところからのスタートとなった。
複雑な上にうまく行くかわからない。しかし、全てがうまく行かないと母は生活が確保できないというかなり厳しい状態だった。
もちろん、父親には弁護士経由で文句を言ってもらおうと思った。例の弁護士は離婚専門ということであまり向いていないのだとか。嫁との離婚の話をされたけれど、それどころではなく少し待ってもらうことにした。
母の件に戻り、まずは無料相談に行くと着手金で10万円、成功報酬で20パーセント必要とのこと。手元には嫁と浮気男からもらった200万円があったが、入院費がいることが既に分かっている。これで足りるかどうか……。
とにかく、お金がない。父親には弁護士に頼らず自分で普通に手紙を書いた。同時進行で母親の入院手続きを行い、身分証明書の確保、銀行口座の開設、生活保護の申請、ととんでもなく忙しい状態になってしまった。