煌星は、夜の回廊を静かに歩いていた。
灯籠の淡い光が揺れ、長い廊下に影を落とす。
(……微かだけど、まだ残ってる)
昨夜の宴で飲んだ、あの"甘い香り"。
それを記憶の中で辿りながら、煌星は鼻をひくつかせる。
魏嬪や柳蘭の調査が進められているが、自分自身の"感覚"を信じたかった。
何より、香りは煌星の専門分野だ。
他の誰よりも正確に、ほんの僅かな違いを嗅ぎ分けられる。
(酒の運ばれた経路を考えると、この辺りが怪しい)
宴席へと運ぶ際、通るはずの廊下。
その壁際で、煌星はふと"違和感"を覚えた。
(ほんの僅かにだけど……このあたり、香る)
そっと袖で風を煽ると、空気の流れに乗り、昨夜の名残が鼻をかすめる。
(……ここを通ったな)
その時だった。
「――随分と遅い散歩だな」
(っ!!?)
不意に背後から響いた低い声に、煌星は一瞬で硬直した。
驚いて振り向くと、そこには"皇帝"――いや、景翊がいた。
闇に紛れるような黒い衣をまとい、静かに立っている。
琥珀の瞳が、じっと煌星を射抜く。
「こんな時間に、ひとりで何をしている?」
(……こっちのセリフなんだが!?!?!?)
煌星は、鼓動が跳ねるのを感じながら、必死で冷静を装う。
「少し、気分転換をしたくて」
「気分転換、ねぇ?」
景翊は、ゆっくりと歩み寄る。
「気分転換にしては……ずいぶん熱心に"何か"を嗅いでいたようだが?」
(見られてた!!??)
煌星は、内心で絶叫しながらも、扇をしなやかに開く。
「陛下こそ、こんな時間にどちらへ?」
「そなたほどではないが、少し夜風を浴びたくなってな」
すぐ目の前まで近づくと、景翊は煌星の顔を覗き込んだ。
夜の闇に溶ける琥珀色の瞳が、煌星を真っ直ぐに射抜く。
(ちょっ……近い……!!)
「――それとも、そなたは"何か"を探していたのか?」
その問いに、煌星の心臓が跳ねる。
(……勘が良すぎる!!)
景翊は、まるで煌星の行動の意味をすべて見抜いているようだった。
「何も探しておりませんわ。ただ――」
言い訳を紡ぎかけた、その瞬間だった。
「……ふむ」
腕を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。
呆気なく煌星は壁際へと追いやられた。
「っ……!?」
驚いて顔を上げると、目の前には景翊がいた。
琥珀の瞳が、月明かりに鈍く光る。
「お前……わかっているのか?」
低く、押し殺した声。
苛立ちと、どこか抑え込んだ感情が滲んでいる。
(怒って……?なんで……)
煌星は冷や汗をかきながら、なんとか平静を装おうとする。
「……別に、怪しいことをしようとしてたわけじゃ――」
「黙れ」
鋭い一言が、煌星の言葉を遮る。
いつもの軽薄な雰囲気は消え、景翊の顔にははっきりとした怒りが滲んでいた。
「昨夜の毒見がどうなったか聞いたな?」
「……っ」
「一人で出て、お前も殺されたいのか?」
囁くような声が、耳元に落ちる。
息がかかるほど近い距離。
景翊の手はしっかりと煌星の腕を押さえ込んでいて、簡単には逃げられそうにない。
「……そんなつもりじゃない」
「そんなつもりじゃない、だと?」
景翊の眉が僅かに動く。
「解決を頼んだのはこちらだが、だからと言って無理をしろとは言っていない」
「……でも、じっとしていられないんだよ……!早くしないと……!」
煌星は、睨み返すように言い返した。
自分が何もしなければ、このまま犯人は逃げ続ける。
景翊や璃月を狙う者を野放しにしたままではいられない。
「焦るのは分かるが、お前一人でどうにかできる問題じゃない」
景翊は、深くため息を吐く。
そして、ゆっくりと目を伏せた。
「お前がどれだけ無防備か、自覚しろ」
言いながら、景翊の手が煌星の顎を軽くすくい上げる。
「……あ、ちょ…………!」
「危険をわかっていないお前が悪い」
景翊は、僅かに目を細める。
「次に勝手に動いたら……俺が部屋に閉じ込めてやるからな」
「……は?」
景翊の言葉に、煌星は思わず瞬きをする。
だが、景翊はそれ以上何も言わず、静かに手を離した。
「もう部屋に戻れ」
そう告げると、煌星を残し、景翊は背を向けて歩き去った。
煌星は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、呆然と彼の背中を見送った。
(……なんなんだよ……あいつ……)
胸の奥が、妙にざわつく。
熱を持ったような感覚が、まだ肌に残っていた。