目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

十二、甘やかな香り

煌星は、静かに礼を取った。


魏嬪は微笑を崩さぬまま、優雅に扇を閉じる。


「では、今宵はゆるりとお休みくださいませ」


「ええ、ありがとう」


煌星は、ゆっくりと歩を進め、夜宴の広間を後にした。

ふっと息を吐く。ようやく終わった。


(……長い夜だった……)


けれど、胸の奥に残るのは安堵ではない。

景翊に毒を飲ませずに済んだという達成感と共に、自分が口にしてしまったそれへの不安。


(……まあ、少量だったし、死ぬほどのものじゃない……はず)


それでも警戒は怠れない。


煌星は、寝殿へと戻る途中で、自分の身体に異変を感じ始めた。


(……ん?)


足元が妙にふわつく。

酔いとは違う、内側からじわじわと熱が広がる感覚。

肌が過敏になり、呼吸も浅くなっている。


(やば……これ……)


宴で口にした酒。

魏嬪が機転を利かせてくれたおかげで全量を飲むことは避けられたが、それでも"効いて"いる。


(……催淫系の何か、か……?)


煌星は、そっと袖を握る。

このままではまずい。早く寝殿に戻り、一人にならなければ――。


けれど、扉を開けた瞬間、その希望はあっさりと潰えた。


「……ん?」


そこに、すでに"陛下"――景翊がいた。


11、



煌星は、一瞬にして全身の血の気が引いた。


(え、なんでいるの……!?)


寝殿の扉を開けた先、そこには当然のように景翊が佇んでいた。

まるで「待っていた」と言わんばかりの余裕ある佇まい。


「遅かったな」


低く響く声が、ひどく落ち着いて聞こえる。

煌星は、なんとか平静を装おうとしたが、身体の異変のせいでうまくいかない。


(やば……近づきたくない……)


宴の席で口にした酒の影響だろうか。

熱がじわじわと広がり、思考も身体の感覚も曖昧になり始めている。

ただでさえ、景翊が近くにいるだけで熱が刺激されるというのに。

今の自分では、あまりにも無防備すぎる。

だが、そう思ったところで、景翊がゆったりと歩を進めてきた。

煌星は反射的に一歩引いたが、足元がふわつき、軽くよろめく。


「……っ」


(まずい……!)


倒れかけた瞬間、景翊の腕がすっと伸び、煌星の肩を支えた。

ひやりとした指先が、熱を持つ肌に触れる。


(……っ、まずい、気がする……!)


普段なら、何とも思わないはずの距離。

だが、今は違う。

肌が敏感になっているせいで、景翊の手が触れた部分がじんじんと痺れるように感じる。


「どうした?」


低い声が、至近距離で囁かれた。

その響きが、背筋をぞくりと震わせる。


「……なんでも、ありません」


どうにか言葉を絞り出すが、自分の声が微かに掠れているのが分かる。

景翊は、じっと煌星を見下ろしたまま、わずかに目を細めた。


「そうか? 妙に息が荒いようだが」

「……少し、酔いが回っただけですわ」

「あの程度の酒で?」


景翊の指が、煌星の顎を軽く持ち上げる。

煌星は反射的に身を引こうとしたが――身体が思うように動かない。


(あうぅ……力が入らない……!!)


「……っ、離して」


「離して?」


景翊は、楽しむように微笑んだ。

その笑みを見て、煌星は確信する。


(……こいつ、気づいてるな?)


景翊は、すでに煌星の異変を察している。

むしろ、試すように距離を詰めてきている。


「……酔いが回ったのなら、少し休むか?」

「っ、大丈夫……です……」

「そうか?」


景翊の手が、そっと煌星の頬を撫でる。

その瞬間――全身に電流が走ったような感覚が襲った。


「ふぁ……っ」


思わず甘い声が漏れる。

自分がそんな声を出すなんてまるで予想できておらず、煌星は慌てて唇を噛んだ。


「……随分と……愛らしい声を出すな」


景翊は、じっと煌星の瞳を覗き込む。

煌星は、歯を食いしばる。


(違う……!! これは、酒のせいで……!!)


だが、身体が熱い。

心臓がどくどくと脈打ち、頭がぼんやりとする。

それなのに景翊の指の感触が、ひどく鮮明に感じられた。


「まるで、鳳華の覚醒前のような気配だ」


(……っ……⁈)


理解が追いつかない。

なのに、耳に落ちる声が、ぞくぞくと背を這い上がってくるような感覚を生んだ。


(……これ……なんか……おかしい……)


胸が妙に詰まる。

肌の感覚が鋭くなりすぎていて、いつもと違う自分に混乱する。


「……ぁ、や……」


逃げないと。

このままじゃ、なにかおかしくなる。

そう思ったのに――


「逃げるな」


景翊が煌星の腰を掴んで、引き寄せた。


(っっっっ!!!!)


そして、強い腕が煌星を抱え込む。


「お前……本当に何も分かっていないのか」


吐息が耳元にかかる。

囁かれた瞬間、煌星の背筋がびくりと跳ねた。


(……なにこれ……!やば……!)


「……覚醒前でこれか……きついな」


景翊の声は、何故か少し掠れていた。


「鳳華が……初めて"覚える"時は、こうして気配が滲むものだ」


(は……?)


「……"番"の気配を、無自覚に呼ぶように……な」


(番……?)


煌星は、ぐるぐるする頭のまま、景翊を見上げた。


「……番……」


そう呟いた瞬間、景翊が僅かに目を伏せる。


(駄目だ、どんどんと思考が……暑い……)


煌星は、心臓をどくん、と高鳴らせながら、景翊の腕の中で凍りついた。


「……このままだと、つらいだろう?」


囁く声は、妙に優しくて、まるで誘うような響きを持っていた。

煌星は、ぎゅっと歯を食いしばる。


(つらい……? そりゃ、つらいよ……!)


景翊は、少し考えるように沈黙した後、軽くため息をついた。


「お前は俺の寵姫だしな……手伝ってやろう」


軽々と煌星を持ち上げ、牀へと運ぶ。

煌星は、抵抗する間もなく、ふわりと寝台へと横たえられた。


(ちょ、ちょ、待て待て待て待て!!!! 何やってんのこいつ!!!!)


「やだっ、まって……!」

「いや? このままだとつらいだろう」


余裕たっぷりに囁く景翊。

煌星は、全身を熱に支配されながら、逃げ道を必死に探していた。

けれど、その逃げ道を塞ぐが如く、景翊がそっと腿の外側から内側へと指を滑らし、煌星自身が潜む場所へと滑り込んだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?