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十、夜宴の幕あけ

煌星は、鏡台の前で静かに櫛を通しながら、深く息を吐いた。


(……夜宴、か)


宴の場で妃たちの様子を観察しろ――景翊の命は単純だ。だが、それを実行するのは、そう容易いことではない。

後宮の妃たちは、皇帝の寵愛を求める者たち。

煌星が"蘇貴妃"として振る舞う以上、彼女たちの敵意や関心を一身に受けるのは避けられない。


(……ていうか、景翊のあの"寵愛演技"も、またやられるんだろうな……)


正直、あの余裕たっぷりな態度で弄ばれるのは遺憾である。

そもそも、煌星は本物の璃月ではないのだから、彼女と同じように振る舞えと言われても無理があるのだ。


「……貴妃様」


柳蘭が静かに声をかけた。


「魏嬪様が、控えの間にいらしております」


煌星は、一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに頷く。


「……通して」


やがて、魏嬪が優雅に一礼し、寝殿へと足を踏み入れた。


「貴妃様、お召し物がよくお似合いですわ」


魏嬪の視線が、煌星の衣へと流れる。

桃色の衣に、繊細な金糸で牡丹が刺繍された華やかな装い。

これが"蘇貴妃"に相応しい姿なのだろうが――煌星には、どうにも落ち着かない。


「わざわざありがとう」


そう告げると、魏嬪は膝を折り、静かに口を開いた。


「貴妃様、今宵の宴では、どの妃も表向きは穏やかに振る舞われるでしょう。しかし――"誰が陛下の視線を求めるか"を見極めねばなりません」


煌星は、ふっと小さく息を吐く。


「……つまり、"誰が一番焦ってるか"ってこと?」

「ええ」


魏嬪は、そっと扇を広げ、視線を細めた。


「陛下の寵愛が貴妃様に傾いていることに、不満を抱いている者は少なくありません。特に――張嬪様は」


(やっぱり、名前出てきたか……)


煌星は、内心で溜息をつく。


「まあ、見た目からして張嬪は"分かりやすく"厄介そうではあるけど……」

「ええ、確かに感情を露わにされやすい方です。しかし、"裏で何を考えているのか"はまだ不明」


魏嬪の目が、ふと冷ややかな色を帯びる。


「嫉妬深いだけの妃ならば、単純なものですが――そうでないならば、貴妃様にとって最も危険な存在になりえます」


煌星は、言葉を詰まらせる。


(……張嬪、ただの"面倒な人"じゃないってこと?)


「じゃあ、逆に"誰が静観しているか"も、見ておいた方がいいってことかな?」


煌星の問いに、魏嬪は、微かに口元を綻ばせた。


「さすがですわ」

「冷静に動いている者こそ、真に恐るべきもの」


(……それってつまり、あなたみたいな人のことだよね)


煌星は、心の中でぼやきながら、魏嬪を見た。

彼女は璃月に心酔しているからこそ、今は味方でいてくれる。

だが――もし違っていたら?

間違いなく、後宮で最も警戒すべき相手になっていたことだろう。


「宴では、貴妃様は"陛下の隣"に座ることになります」


魏嬪が、さらりと言う。

煌星は、一瞬言葉を失った。


「え、なんで⁈ 上座なのはわかるけど……! 隣って、それこそ皇后の席じゃ……?」


魏嬪は、微苦笑を浮かべた。


「皇帝陛下のお指図です」

「……前からこうでしたのよ。璃月様も毎回、"なんで私ばっかり"とお嘆きでした」

「でも――陛下がとにかくそう望まれるのです」


魏嬪は、まるで"仕方のないこと"だとでも言うように微笑む。


(いやいやいやいや……この状況で? この状況でそれやる????)


煌星は、ぐっとこみ上げるものを堪えながら、額を押さえた。


「つまり、めちゃくちゃ視線を浴びるってことかぁ……」

「ええ。間違いなく」


魏嬪の笑みが、どこか楽しげに見えるのは気のせいか。


「ですが、貴妃様の"振る舞い"次第で、彼女たちの態度は変わりますわ」

「どういうこと?」

「例えば――張嬪様のような方は、貴妃様のほんの些細な仕草にも反応される」

「……めんどくさいなぁ」


煌星は、思わず肩を落とす。


「夜宴、普通に楽しむことはできないの?」

「難しいでしょうね」


魏嬪は、扇を閉じる。


「ですが――貴妃様はすでに"後宮の中心"にいるお方」

「堂々と構えていれば、それだけで十分ですわ」


(堂々と、ねぇ……)


煌星は、軽く襟元を正しながら、深く息を吐く。


「……わかったよ。とりあえず、やるしかないんだもんね」

「ええ」


魏嬪は、優雅に一礼する。


「では、今宵の宴で――貴妃様のご活躍を楽しみにしておりますわ」


煌星は、その言葉を聞いた瞬間、めちゃくちゃ胃が痛くなった。


(お香……帰ったら絶対、お香焚く……!)


気合を入れるべく、扇をきゅっと握りしめながら、煌星はそっと天を仰いだ。



煌星は、広間の扉の前で静かに立ち尽くしていた。


扉の向こうでは、すでに宴が始まっている。

豪奢な楽の音色、華やかな談笑、そして、立ち昇る馥郁(ふくいく)たる香の気配。

今宵の宴は、まさに後宮の華。


(……はぁぁぁぁぁ……胃が痛い……)


煌星は、そっと息を吐く。


後宮の妃たちが一堂に会し、皇帝の前で振る舞う――正式な夜宴。

煌星にとっては、まさに"見世物"の場である。

しかも、景翊の"寵愛演技"が炸裂するのは目に見えている。


「貴妃様、お時間でございます」


柳蘭が、静かに声をかけた。

煌星は、気を引き締め、扇を開きながら静かに頷く。


(……やるしかない……)


扉が、ゆるやかに開かれる。

煌びやかな光が煌星を包む。

金と紅に彩られた豪奢な宴席、漂う香の煙。

酒に混ざる甘美な香りは、鳳華の本能をかすかに揺さぶるものだった。

そして、中央には――

"皇帝"景耀が座していた。

だが、それは本物ではない。


(……景翊)


煌星は、表情を崩さぬようにしながら、ゆっくりと歩みを進めた。

彼の視線を意識しながらも、周囲の妃たちの目を感じる。


(うわぁぁぁぁ……すっごい睨まれてる……)


煌星は、静かに膝を折り、優雅に礼を取る。


「蘇貴妃、参りました」


景翊は、満足げに微笑み、促すように手を動かした。


「そなたの席は、ここだ」


煌星は、ゆるりと席に着く。

それは、本来ならば"皇后"の席。

当然、妃たちの視線はさらに鋭さを増す。


(……璃月、ほんとよくこんな状況耐えたな……)


魏嬪は、微かに微笑を浮かべていたが、張嬪の扇の動きが止まる。

分かりやすく、表情が引きつっていた。


「今宵は、皆の顔を見ることができて嬉しい」


景翊が、ゆったりとした声で告げる。

妃たちは微笑みながらも、各々が何かを隠しているのが煌星にも分かった。


(……この場にいる誰かが、何かを企んでいる……)


煌星は、盃を手に取りながら、静かに妃たちを観察する。


「陛下、今宵の宴はいかがでしょうか?」


魏嬪が、優雅に問いかける。

景翊は、盃を傾けながら微笑む。


「良い宴だ。そなたたちも、くつろぐがよい」


妃たちは一斉に礼を取る――だが、その中で、一人だけ煌星を真っ直ぐに見つめている者がいた。


(……張嬪……)


張嬪の瞳が、探るように煌星を見つめる。


「陛下が、これほどまでに貴妃様を寵愛なさるとは……」


ゆるりと扇を動かしながら、張嬪が口を開いた。


「我々も、羨ましく思うばかりですわ」


(うわぁぁぁぁ……ここでも言うんだ⁈いや、度胸がすごすぎん?)


煌星は、表情を崩さぬようにしながら、扇を閉じる。


「陛下の御心は、私の計れるものではございません」


それは、絶妙な"逃げ"の言葉。

煌星が望んだからではなく、皇帝の意志なのだ――そう伝えるためのものだった。

だが、張嬪は納得しない。


「ですが、陛下は毎夜、貴妃様のもとへと通われております。これほどの寵愛、まことに羨ましいことですわ」


(続いたぁ……!いや、僕もそう思うよ……ほんとに……!)


煌星は、心の中で深く息を吐く。


「それほどまでに、貴妃様に心を寄せておられるのですもの……」


張嬪は、じっと煌星を見据える。


「貴妃様……陛下の御心を、一番よくご存じなのでは?」


その言葉に――


「――それは、張嬪、そなたが知りたいことか?」


低く響く声が、広間に落ちる。

全員の視線が、一斉に"皇帝"へと向けられた。

景翊は、盃を手に持ったまま、張嬪を見つめている。


「陛下……?」


張嬪が、少し戸惑ったように目を伏せる。


「そなたが、我が貴妃を羨ましく思うのは勝手だが……」


景翊は、盃を軽く回し、煌星の腰を抱く。


(ひょ、ええええ……!?)


「そのように問い詰めるものではあるまい?」


景翊の指が、ゆるりと煌星の髪を梳く。

まるで、"誰にも渡さない"とでも言いたげに――。


(やめろおおおおお!!!!)


張嬪は、一瞬肩を揺らし――すぐに頭を下げた。


「……申し訳ございません、陛下」


煌星は、内心で冷や汗をかきながら、景翊の腕を引き剥がそうとする。


(こ、怖……!!部屋に帰りたい……!!!)


だが――その瞬間。

ふわり、と僅かに匂いが揺れた。


(……?)


煌星は、鼻を僅かにひくつかせる。

"香"ではない。

何かが、確かに"動いた"。

煌星は、盃を持つ指に僅かに力を込めながら、そっと視線を巡らせる。


(……香りが動いてる……?香ではない……)


煌星の心臓が、わずかに高鳴った。


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