煌星は、鏡台の前で静かに櫛を通しながら、深く息を吐いた。
(……夜宴、か)
宴の場で妃たちの様子を観察しろ――景翊の命は単純だ。だが、それを実行するのは、そう容易いことではない。
後宮の妃たちは、皇帝の寵愛を求める者たち。
煌星が"蘇貴妃"として振る舞う以上、彼女たちの敵意や関心を一身に受けるのは避けられない。
(……ていうか、景翊のあの"寵愛演技"も、またやられるんだろうな……)
正直、あの余裕たっぷりな態度で弄ばれるのは遺憾である。
そもそも、煌星は本物の璃月ではないのだから、彼女と同じように振る舞えと言われても無理があるのだ。
「……貴妃様」
柳蘭が静かに声をかけた。
「魏嬪様が、控えの間にいらしております」
煌星は、一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに頷く。
「……通して」
やがて、魏嬪が優雅に一礼し、寝殿へと足を踏み入れた。
「貴妃様、お召し物がよくお似合いですわ」
魏嬪の視線が、煌星の衣へと流れる。
桃色の衣に、繊細な金糸で牡丹が刺繍された華やかな装い。
これが"蘇貴妃"に相応しい姿なのだろうが――煌星には、どうにも落ち着かない。
「わざわざありがとう」
そう告げると、魏嬪は膝を折り、静かに口を開いた。
「貴妃様、今宵の宴では、どの妃も表向きは穏やかに振る舞われるでしょう。しかし――"誰が陛下の視線を求めるか"を見極めねばなりません」
煌星は、ふっと小さく息を吐く。
「……つまり、"誰が一番焦ってるか"ってこと?」
「ええ」
魏嬪は、そっと扇を広げ、視線を細めた。
「陛下の寵愛が貴妃様に傾いていることに、不満を抱いている者は少なくありません。特に――張嬪様は」
(やっぱり、名前出てきたか……)
煌星は、内心で溜息をつく。
「まあ、見た目からして張嬪は"分かりやすく"厄介そうではあるけど……」
「ええ、確かに感情を露わにされやすい方です。しかし、"裏で何を考えているのか"はまだ不明」
魏嬪の目が、ふと冷ややかな色を帯びる。
「嫉妬深いだけの妃ならば、単純なものですが――そうでないならば、貴妃様にとって最も危険な存在になりえます」
煌星は、言葉を詰まらせる。
(……張嬪、ただの"面倒な人"じゃないってこと?)
「じゃあ、逆に"誰が静観しているか"も、見ておいた方がいいってことかな?」
煌星の問いに、魏嬪は、微かに口元を綻ばせた。
「さすがですわ」
「冷静に動いている者こそ、真に恐るべきもの」
(……それってつまり、あなたみたいな人のことだよね)
煌星は、心の中でぼやきながら、魏嬪を見た。
彼女は璃月に心酔しているからこそ、今は味方でいてくれる。
だが――もし違っていたら?
間違いなく、後宮で最も警戒すべき相手になっていたことだろう。
「宴では、貴妃様は"陛下の隣"に座ることになります」
魏嬪が、さらりと言う。
煌星は、一瞬言葉を失った。
「え、なんで⁈ 上座なのはわかるけど……! 隣って、それこそ皇后の席じゃ……?」
魏嬪は、微苦笑を浮かべた。
「皇帝陛下のお指図です」
「……前からこうでしたのよ。璃月様も毎回、"なんで私ばっかり"とお嘆きでした」
「でも――陛下がとにかくそう望まれるのです」
魏嬪は、まるで"仕方のないこと"だとでも言うように微笑む。
(いやいやいやいや……この状況で? この状況でそれやる????)
煌星は、ぐっとこみ上げるものを堪えながら、額を押さえた。
「つまり、めちゃくちゃ視線を浴びるってことかぁ……」
「ええ。間違いなく」
魏嬪の笑みが、どこか楽しげに見えるのは気のせいか。
「ですが、貴妃様の"振る舞い"次第で、彼女たちの態度は変わりますわ」
「どういうこと?」
「例えば――張嬪様のような方は、貴妃様のほんの些細な仕草にも反応される」
「……めんどくさいなぁ」
煌星は、思わず肩を落とす。
「夜宴、普通に楽しむことはできないの?」
「難しいでしょうね」
魏嬪は、扇を閉じる。
「ですが――貴妃様はすでに"後宮の中心"にいるお方」
「堂々と構えていれば、それだけで十分ですわ」
(堂々と、ねぇ……)
煌星は、軽く襟元を正しながら、深く息を吐く。
「……わかったよ。とりあえず、やるしかないんだもんね」
「ええ」
魏嬪は、優雅に一礼する。
「では、今宵の宴で――貴妃様のご活躍を楽しみにしておりますわ」
煌星は、その言葉を聞いた瞬間、めちゃくちゃ胃が痛くなった。
(お香……帰ったら絶対、お香焚く……!)
気合を入れるべく、扇をきゅっと握りしめながら、煌星はそっと天を仰いだ。
※
煌星は、広間の扉の前で静かに立ち尽くしていた。
扉の向こうでは、すでに宴が始まっている。
豪奢な楽の音色、華やかな談笑、そして、立ち昇る馥郁(ふくいく)たる香の気配。
今宵の宴は、まさに後宮の華。
(……はぁぁぁぁぁ……胃が痛い……)
煌星は、そっと息を吐く。
後宮の妃たちが一堂に会し、皇帝の前で振る舞う――正式な夜宴。
煌星にとっては、まさに"見世物"の場である。
しかも、景翊の"寵愛演技"が炸裂するのは目に見えている。
「貴妃様、お時間でございます」
柳蘭が、静かに声をかけた。
煌星は、気を引き締め、扇を開きながら静かに頷く。
(……やるしかない……)
扉が、ゆるやかに開かれる。
煌びやかな光が煌星を包む。
金と紅に彩られた豪奢な宴席、漂う香の煙。
酒に混ざる甘美な香りは、鳳華の本能をかすかに揺さぶるものだった。
そして、中央には――
"皇帝"景耀が座していた。
だが、それは本物ではない。
(……景翊)
煌星は、表情を崩さぬようにしながら、ゆっくりと歩みを進めた。
彼の視線を意識しながらも、周囲の妃たちの目を感じる。
(うわぁぁぁぁ……すっごい睨まれてる……)
煌星は、静かに膝を折り、優雅に礼を取る。
「蘇貴妃、参りました」
景翊は、満足げに微笑み、促すように手を動かした。
「そなたの席は、ここだ」
煌星は、ゆるりと席に着く。
それは、本来ならば"皇后"の席。
当然、妃たちの視線はさらに鋭さを増す。
(……璃月、ほんとよくこんな状況耐えたな……)
魏嬪は、微かに微笑を浮かべていたが、張嬪の扇の動きが止まる。
分かりやすく、表情が引きつっていた。
「今宵は、皆の顔を見ることができて嬉しい」
景翊が、ゆったりとした声で告げる。
妃たちは微笑みながらも、各々が何かを隠しているのが煌星にも分かった。
(……この場にいる誰かが、何かを企んでいる……)
煌星は、盃を手に取りながら、静かに妃たちを観察する。
「陛下、今宵の宴はいかがでしょうか?」
魏嬪が、優雅に問いかける。
景翊は、盃を傾けながら微笑む。
「良い宴だ。そなたたちも、くつろぐがよい」
妃たちは一斉に礼を取る――だが、その中で、一人だけ煌星を真っ直ぐに見つめている者がいた。
(……張嬪……)
張嬪の瞳が、探るように煌星を見つめる。
「陛下が、これほどまでに貴妃様を寵愛なさるとは……」
ゆるりと扇を動かしながら、張嬪が口を開いた。
「我々も、羨ましく思うばかりですわ」
(うわぁぁぁぁ……ここでも言うんだ⁈いや、度胸がすごすぎん?)
煌星は、表情を崩さぬようにしながら、扇を閉じる。
「陛下の御心は、私の計れるものではございません」
それは、絶妙な"逃げ"の言葉。
煌星が望んだからではなく、皇帝の意志なのだ――そう伝えるためのものだった。
だが、張嬪は納得しない。
「ですが、陛下は毎夜、貴妃様のもとへと通われております。これほどの寵愛、まことに羨ましいことですわ」
(続いたぁ……!いや、僕もそう思うよ……ほんとに……!)
煌星は、心の中で深く息を吐く。
「それほどまでに、貴妃様に心を寄せておられるのですもの……」
張嬪は、じっと煌星を見据える。
「貴妃様……陛下の御心を、一番よくご存じなのでは?」
その言葉に――
「――それは、張嬪、そなたが知りたいことか?」
低く響く声が、広間に落ちる。
全員の視線が、一斉に"皇帝"へと向けられた。
景翊は、盃を手に持ったまま、張嬪を見つめている。
「陛下……?」
張嬪が、少し戸惑ったように目を伏せる。
「そなたが、我が貴妃を羨ましく思うのは勝手だが……」
景翊は、盃を軽く回し、煌星の腰を抱く。
(ひょ、ええええ……!?)
「そのように問い詰めるものではあるまい?」
景翊の指が、ゆるりと煌星の髪を梳く。
まるで、"誰にも渡さない"とでも言いたげに――。
(やめろおおおおお!!!!)
張嬪は、一瞬肩を揺らし――すぐに頭を下げた。
「……申し訳ございません、陛下」
煌星は、内心で冷や汗をかきながら、景翊の腕を引き剥がそうとする。
(こ、怖……!!部屋に帰りたい……!!!)
だが――その瞬間。
ふわり、と僅かに匂いが揺れた。
(……?)
煌星は、鼻を僅かにひくつかせる。
"香"ではない。
何かが、確かに"動いた"。
煌星は、盃を持つ指に僅かに力を込めながら、そっと視線を巡らせる。
(……香りが動いてる……?香ではない……)
煌星の心臓が、わずかに高鳴った。