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九、影武者の甘い囁き

煌星は、牀の上で静かに天を仰いだ。

行燈の灯りがゆらゆらと揺れ、ぼんやりとした橙色の光が室内を包んでいる。

今夜も“皇帝陛下”はお渡りらしい。


(……いや、もう来なくていいだろ)


昨夜、璃月と再会した後も、景耀――いや、景翊と共に過ごした。

寝台を共にしただけで何事もなかった……はずなのに、何故か腕の中に抱え込まれた状態で朝を迎えたのだ。


("寵愛アピール"が仕事なのは分かるけど、寝るときは必要ないだろ……)


心の中で文句を垂れながらも、今日もまた準備を進めなければならない。


「貴妃様、お支度を」

「はいはい……」


言われてしぶしぶと煌星は起き上がって鏡台の前に立った。

柳蘭が静かに近づき、鏡台の前で煌星の髪を梳かし始めた。


「……ねえ、柳蘭」

「何でしょう」

「……陛下って、そんなに僕の部屋に通う必要ある?」


柳蘭は、一瞬手を止め、僅かに視線を伏せる。


「それほどまでに、貴妃様を愛しておられるのでは?」


柳蘭は、微笑を崩さぬまま、いつも通りの穏やかな声音で言う。


(いやいやいや、演技だよ、演技……!)


煌星は、心の中で叫びつつ、ふと気づく。


(っていうか……柳蘭、知ってたんじゃん!?)


彼女の落ち着きっぷりと、言葉の選び方があまりに自然すぎる。

景翊の正体を最初から知っていて、それでも何事もなかったかのように"貴妃の侍女"として振る舞っていたということか。


(ちょっと待て、じゃあなんで僕には何も言わなかったのさ!?)


思わず柳蘭を見つめるが、彼女はあくまで平然としたまま、髪を整え続ける。


(いや、これ完全に"知らないフリしてました"ってやつだよな!?)


説明を求めたいところだが、問い詰める暇もなく――


「陛下がお着きです」


女官の声が響き、扉が静かに開かれた。

ゆったりとした足取りで、景翊が入ってくる。

煌星は、"一応"の礼を取った。


「お迎え申し上げます、陛下」


景翊は微笑みながら煌星を見下ろし、まるで当然のように目の前に立つ。


「そなたを見ぬと、夜が長く感じる」


(……ああ、始まった……)


煌星は、引きつる笑みを浮かべる。


「……それ、言う必要あります?」

「そなたは私の寵姫なのだから」


景翊は、涼しげに微笑んだ。


「いやいやいや、寵姫だからって、こんなに頻繁にお渡りがあるのは異例なんじゃないでしょうか……?」


「そなたは、私に逢うのが嬉しくないのか?」


(そういう話じゃねーよーーー!!!)


「……陛下が望まれることでしたら」


煌星が渋々答えると、景翊は満足げに頷く。


「それで良い」


(いや、全然良くないんだけど……!?)


そんな煌星の内心など知る由もなく、景翊はふと表情を緩め、距離を詰めた。

手を伸ばし、煌星の頬にそっと触れる。


「っ……⁈」


(な、なんだよ!?!?!?)


「よく耐えているな」


低く甘やかな声が、耳元に落ちる。


「――本題に入ろうか」


煌星は、思わず肩を跳ねさせた。


「……やっと?」

「お前が可愛らしい反応をするから、つい」


「……っ、もう話を進めてください!!!!」


顔を赤くしながら言うと、景翊はくつくつと笑い、ようやく真面目な表情に戻った。


「では、やるべきことを伝えよう」


景翊は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、盃を弄びながら煌星を見据える。

煌星も、緊張を隠しながらその前に座った。


「まず、お前には"後宮の監視役"を担ってもらう」

「……監視役?」

「そうだ」


景翊は、軽く盃を傾け、酒を喉に流し込む。


「僕にそんなこと、できるの?」

「できるとも」


景翊は微かに笑う。


「何より、お前は"蘇貴妃"だ。貴妃として後宮にいることで、自然と情報が集まる」


煌星は、内心でため息をついた。


(まあ、確かに。貴妃として過ごしていれば、後宮の動きが嫌でも目に入るだろうし……)


「お前の仕事は簡単だ。"疑わしい動きをする者を探し、報せる"――それだけだ」

「……だけ?」

「焦るな。まずは、"誰が何を考えているのか"を知ることが先決だ」


景翊は、じっと煌星を見つめる。


「お前は腕利きの調香師らしいな。璃月から聞いている。となれば嗅覚も鋭いだろう?」

「まあ……多分、ね」

「ならば、人の気配や違和感を察することもできるはずだ」


景翊の言葉に、煌星は微かに目を伏せた。


(確かに……僕は、人の"匂い"を敏感に感じ取れる)


それは、単なる香料の知識だけではなく、"気配"の違いさえも察することができる。


(……なるほど。だから僕がこの役を……ってことかな?)


景翊は、再び笑みを深めた。


「お前が何を感じるか、見せてもらおう」


煌星は、そっと息を吸う。


「……わかった」


覚悟を決め、煌星は頷いた。


「というわけで、寝るか」

「え」


景翊は立ち上がり、煌星へと手を差し伸べる。


「どうした?」

「……一緒に寝るんですかね?」


眉を寄せながら、景翊の手をじっと見た。


「当たり前だろう?なんだ?運んでもらいたいのか?」

「違っ……!」


景翊は、面白そうに煌星を見つめると、そのまま牀へと導いた。

そして――ゆっくりと押し倒す。


「ねえ!これ、本当にいりますかね……⁈」


煌星が絡まる腕を軽く叩きながら抗議すると――


「大人しくしろ。襲うぞ」


耳元で低く囁かれた。

びくっ、と煌星の肩が震える。

景翊は楽しげに笑いながら、そのまま煌星を腕の中に仕舞い込んだ。


(……絶対からかってる……!!!こっちは国家機密に巻き込まれて必死なのに、こいつはなんなんだよ!?!?影武者ってこんな仕事なのか!?!?)


景翊の腕に絡め取られながら、煌星は心の中で盛大に毒づいた。

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