煌星は、牀の上で静かに天を仰いだ。
行燈の灯りがゆらゆらと揺れ、ぼんやりとした橙色の光が室内を包んでいる。
今夜も“皇帝陛下”はお渡りらしい。
(……いや、もう来なくていいだろ)
昨夜、璃月と再会した後も、景耀――いや、景翊と共に過ごした。
寝台を共にしただけで何事もなかった……はずなのに、何故か腕の中に抱え込まれた状態で朝を迎えたのだ。
("寵愛アピール"が仕事なのは分かるけど、寝るときは必要ないだろ……)
心の中で文句を垂れながらも、今日もまた準備を進めなければならない。
「貴妃様、お支度を」
「はいはい……」
言われてしぶしぶと煌星は起き上がって鏡台の前に立った。
柳蘭が静かに近づき、鏡台の前で煌星の髪を梳かし始めた。
「……ねえ、柳蘭」
「何でしょう」
「……陛下って、そんなに僕の部屋に通う必要ある?」
柳蘭は、一瞬手を止め、僅かに視線を伏せる。
「それほどまでに、貴妃様を愛しておられるのでは?」
柳蘭は、微笑を崩さぬまま、いつも通りの穏やかな声音で言う。
(いやいやいや、演技だよ、演技……!)
煌星は、心の中で叫びつつ、ふと気づく。
(っていうか……柳蘭、知ってたんじゃん!?)
彼女の落ち着きっぷりと、言葉の選び方があまりに自然すぎる。
景翊の正体を最初から知っていて、それでも何事もなかったかのように"貴妃の侍女"として振る舞っていたということか。
(ちょっと待て、じゃあなんで僕には何も言わなかったのさ!?)
思わず柳蘭を見つめるが、彼女はあくまで平然としたまま、髪を整え続ける。
(いや、これ完全に"知らないフリしてました"ってやつだよな!?)
説明を求めたいところだが、問い詰める暇もなく――
「陛下がお着きです」
女官の声が響き、扉が静かに開かれた。
ゆったりとした足取りで、景翊が入ってくる。
煌星は、"一応"の礼を取った。
「お迎え申し上げます、陛下」
景翊は微笑みながら煌星を見下ろし、まるで当然のように目の前に立つ。
「そなたを見ぬと、夜が長く感じる」
(……ああ、始まった……)
煌星は、引きつる笑みを浮かべる。
「……それ、言う必要あります?」
「そなたは私の寵姫なのだから」
景翊は、涼しげに微笑んだ。
「いやいやいや、寵姫だからって、こんなに頻繁にお渡りがあるのは異例なんじゃないでしょうか……?」
「そなたは、私に逢うのが嬉しくないのか?」
(そういう話じゃねーよーーー!!!)
「……陛下が望まれることでしたら」
煌星が渋々答えると、景翊は満足げに頷く。
「それで良い」
(いや、全然良くないんだけど……!?)
そんな煌星の内心など知る由もなく、景翊はふと表情を緩め、距離を詰めた。
手を伸ばし、煌星の頬にそっと触れる。
「っ……⁈」
(な、なんだよ!?!?!?)
「よく耐えているな」
低く甘やかな声が、耳元に落ちる。
「――本題に入ろうか」
煌星は、思わず肩を跳ねさせた。
「……やっと?」
「お前が可愛らしい反応をするから、つい」
「……っ、もう話を進めてください!!!!」
顔を赤くしながら言うと、景翊はくつくつと笑い、ようやく真面目な表情に戻った。
「では、やるべきことを伝えよう」
景翊は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、盃を弄びながら煌星を見据える。
煌星も、緊張を隠しながらその前に座った。
「まず、お前には"後宮の監視役"を担ってもらう」
「……監視役?」
「そうだ」
景翊は、軽く盃を傾け、酒を喉に流し込む。
「僕にそんなこと、できるの?」
「できるとも」
景翊は微かに笑う。
「何より、お前は"蘇貴妃"だ。貴妃として後宮にいることで、自然と情報が集まる」
煌星は、内心でため息をついた。
(まあ、確かに。貴妃として過ごしていれば、後宮の動きが嫌でも目に入るだろうし……)
「お前の仕事は簡単だ。"疑わしい動きをする者を探し、報せる"――それだけだ」
「……だけ?」
「焦るな。まずは、"誰が何を考えているのか"を知ることが先決だ」
景翊は、じっと煌星を見つめる。
「お前は腕利きの調香師らしいな。璃月から聞いている。となれば嗅覚も鋭いだろう?」
「まあ……多分、ね」
「ならば、人の気配や違和感を察することもできるはずだ」
景翊の言葉に、煌星は微かに目を伏せた。
(確かに……僕は、人の"匂い"を敏感に感じ取れる)
それは、単なる香料の知識だけではなく、"気配"の違いさえも察することができる。
(……なるほど。だから僕がこの役を……ってことかな?)
景翊は、再び笑みを深めた。
「お前が何を感じるか、見せてもらおう」
煌星は、そっと息を吸う。
「……わかった」
覚悟を決め、煌星は頷いた。
「というわけで、寝るか」
「え」
景翊は立ち上がり、煌星へと手を差し伸べる。
「どうした?」
「……一緒に寝るんですかね?」
眉を寄せながら、景翊の手をじっと見た。
「当たり前だろう?なんだ?運んでもらいたいのか?」
「違っ……!」
景翊は、面白そうに煌星を見つめると、そのまま牀へと導いた。
そして――ゆっくりと押し倒す。
「ねえ!これ、本当にいりますかね……⁈」
煌星が絡まる腕を軽く叩きながら抗議すると――
「大人しくしろ。襲うぞ」
耳元で低く囁かれた。
びくっ、と煌星の肩が震える。
景翊は楽しげに笑いながら、そのまま煌星を腕の中に仕舞い込んだ。
(……絶対からかってる……!!!こっちは国家機密に巻き込まれて必死なのに、こいつはなんなんだよ!?!?影武者ってこんな仕事なのか!?!?)
景翊の腕に絡め取られながら、煌星は心の中で盛大に毒づいた。