――間違いない。
「……」
沈黙が落ちる。
璃月は、じっと煌星を見つめていた。
その視線はどこか疑うようで、それでいて懐かしむようでもあった。
「煌星……?本当に、あなたなの?」
「……璃月姉上」
煌星は、喉の奥に絡まる違和感を押し殺しながら、静かに息を吐いた。
「……無事でよかった」
璃月の睫毛が、わずかに揺れる。
「……やはり、そうなのね」
「……そうとは?」
煌星が問い返すより早く、璃月は景耀を鋭く見た。
「貴方が『後宮を守る』と言ったのは、こういう意味だったの?」
景耀は、僅かに微笑む。
「そなたの弟に務まるなら、それが最善だろう?」
璃月の眉が、僅かに寄る。
「……私は聞いていないわ。煌星を後宮に入れるなんて」
「事前に言えば反対するだろう?」
「当たり前でしょう!?どうして煌星を巻き込んだの!?」
苛立ちを隠さぬ璃月の声が、空間に鋭く響く。
そのやりとりを見ながら、煌星の胸には不穏なものが広がっていく。
(……何だ?どういうことだ……?)
璃月は、突然姿を消したわけではなかったのか?
景耀は、初めから璃月の居場所を知っていた?
では、自分が「璃月の代わり」として送り込まれたのは――誰の意思だった?
「……待って」
煌星は、ゆっくりと景耀を見据える。
「これは……どういう状況なのですか?璃月姉上がここにいるということは……?」
景耀は、僅かに目を細め、余裕の笑みを浮かべた。
「――そなたに、すべてを話そう」
言葉とともに、景耀は璃月の前にある椅子へとゆったりと腰を下ろす。
煌星は息を詰め、無意識に拳を握り締めた。
「――今、宮廷で即位している皇帝は"本物"ではない」
空気が凍りつく。
「……っ」
「"本物"の皇帝――景耀は、毒を盛られ、いまだ完全には回復されていない」
「毒……?」
煌星の胸に、冷たい刃が突き立つ。
(皇帝が……毒を……?)
思わず璃月を見る。
彼女の表情は、怒りと焦燥が入り混じった複雑なものだった。
「では、今宮廷にいる陛下は……?」
「影武者だ」
景耀は、あまりにも当然のように言った。
「影武者が皇帝として振る舞い、皇帝の番である蘇貴妃がそばに控えている……それが、この後宮の"真実"だ」
煌星は、喉が渇くのを感じながら、じっと景耀を見つめた。
「そして、その影武者とは――」
景耀は微かに笑みを深める。
「――この私だ」
「本物の景耀……皇帝陛下は、離宮にいるのよ」
璃月の言葉に、煌星は息を呑んだ。
煌星は、ゆっくりと景耀――いや、その男を見た。
「……影武者……」
景耀は微かに笑みを浮かべ、余裕たっぷりに肩をすくめる。
「私は──いや、俺は景翊という」
「そんなことが……」
思わず呟く。
だが、考えれば考えるほど辻褄が合う。
璃月が、後宮から忽然と姿を消したこと。
自分が呼ばれたこと。
「璃月……じゃあ、お前はずっと……?」
「ええ」
璃月は、静かに頷いた。
「私は、離宮で陛下をお支えしている。毒に侵された陛下は、まだ完全には回復されていないけれど、少しずつ……」
「待って、待って……そんなの、全然知らなかったんだけど!?」
思わず声を上げる煌星に、景翊が皮肉げな笑みを向けた。
「当然だろう?お前が知る必要がなかったからだ」
「……っ」
煌星の胸に、嫌な冷たさが広がる。
景翊は、ゆったりと腕を組みながら続けた。
「元々、宮廷の機密が外に漏れることはない。だが、これは特に国家を揺るがしかねない重大事――本来なら、お前にも知らせるべきではなかった。
だが、お前は今や“蘇貴妃”として、後宮の中心にいる。知っておかねばならないこともある」
景翊の目が、鋭く煌星を射抜く。
「――この宮廷のどこかに、陛下を陥れようとする者がいる」
静寂が落ちた。
「……」
「毒を盛った者も、まだ捕まっていない。つまり、犯人は今もこの宮廷に潜んでいるということだ」
煌星の背筋に、ひやりとした感覚が走る。
(皇帝毒殺は未遂に終わった……けど、犯人はまだ潜伏してる……)
璃月が、一歩前に出て煌星の肩を握る。
「煌星――景翊と協力して、謀反人を探して」
「……!」
「本当は私が動きたい。でも、今は離宮で陛下を支えるのも大事なことなの――」
その瞳は、迷いなく煌星を見つめていた。
「だから……私のかわりに、煌星にやってほしいの」
煌星は、唇を引き結んだ。
唐突な選択を迫られ、景翊と璃月の顔を交互に見る。
どちらの表情にも迷いはない。
「巻き込みたくなかった」という璃月の想いと、「お前はもう巻き込まれたんだ」という景翊の冷静な現実――。
今更「冗談でした」というような状況になりそうにもない。
唐突なこと過ぎて逃げたい気持ちも大きかった。けれど──
(……どうせ逃げられないんだよな……)
静かに息を吐き、煌星は視線を落とす。
そして、次の瞬間には顔を上げ、ゆるく微笑んでみせた。
「……わかったよ」
その瞬間、景翊が満足そうに目を細める。
「心が決まって何よりだ」
そして、ゆっくりと告げた。
「お前には、もう一人の協力者がいる」
「……?」
「魏嬪だ」
「……は?」
煌星が困惑した刹那――スッと、音もなく影が揺れた。
「!!?」
気づいた時には、闇の中から、まるで霧のように魏嬪が現れていた。
先ほどまでの端然とした妃の姿そのままに、彼女は静かに膝をつき、慎み深く頭を垂れる。
「御前に」
その一言に、景翊が満足そうに微笑む。
「魏家は、代々王家に仕える"影"の一族だ」
「影の……一族……?」
「つまり、魏嬪は表向きは妃の位にあるが、裏では宮廷の監視者だ」
煌星は、魏嬪を凝視する。
昼間、あれほど慎重に立ち回っていた彼女が、今はまるで別人のように見えた。
「俺と魏嬪で、お前を試させてもらった」
「……試す?」
「妃嬪たちとの挨拶だよ。お前、相当疲れただろう?」
(あれ……仕組まれてたの……!?)
煌星は、午前中のやり取りを思い出し、思わず顔をしかめた。
「うわ……」
魏嬪は微笑み、優雅に膝を進める。
「お許しくださいませ、煌星様。ですが――あの受け答え、見事でしたわ」
そして、静かに続ける。
「……それに、璃月様にあまりにもよく似ておられて。私は、感動で胸がいっぱいでしたのよ」
璃月が、微かに笑みを浮かべる。
「――彼女は、どういうわけか私に心酔しているのよ」
煌星は、一瞬言葉を失った。
(影の一族が璃月に心酔ってる……?それ、どういうこと……?)
魏嬪は、静かに頷く。
「璃月様は、私にとって特別な方ですから」
それを聞き、璃月が煌星の肩を軽く叩いた。
「魏嬪は、すでに動いてくれている。だから――煌星、お願い」
煌星は、大きく溜息を吐いた。
そして、天井を仰ぎ、目を伏せる。
数秒後、息を吸い、改めて璃月を見た。
そして、ゆるく笑い、肩をすくめる。
「任せて、とは言えないけど。――僕なりに、やってみるよ」
璃月は微笑み、「ありがとう」と囁いた。