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八、影武者と偽りの皇帝

――間違いない。


「……」


沈黙が落ちる。

璃月は、じっと煌星を見つめていた。

その視線はどこか疑うようで、それでいて懐かしむようでもあった。


「煌星……?本当に、あなたなの?」

「……璃月姉上」


煌星は、喉の奥に絡まる違和感を押し殺しながら、静かに息を吐いた。


「……無事でよかった」


璃月の睫毛が、わずかに揺れる。


「……やはり、そうなのね」

「……そうとは?」


煌星が問い返すより早く、璃月は景耀を鋭く見た。


「貴方が『後宮を守る』と言ったのは、こういう意味だったの?」


景耀は、僅かに微笑む。


「そなたの弟に務まるなら、それが最善だろう?」


璃月の眉が、僅かに寄る。


「……私は聞いていないわ。煌星を後宮に入れるなんて」

「事前に言えば反対するだろう?」

「当たり前でしょう!?どうして煌星を巻き込んだの!?」


苛立ちを隠さぬ璃月の声が、空間に鋭く響く。

そのやりとりを見ながら、煌星の胸には不穏なものが広がっていく。


(……何だ?どういうことだ……?)


璃月は、突然姿を消したわけではなかったのか?

景耀は、初めから璃月の居場所を知っていた?

では、自分が「璃月の代わり」として送り込まれたのは――誰の意思だった?


「……待って」


煌星は、ゆっくりと景耀を見据える。


「これは……どういう状況なのですか?璃月姉上がここにいるということは……?」


景耀は、僅かに目を細め、余裕の笑みを浮かべた。


「――そなたに、すべてを話そう」


言葉とともに、景耀は璃月の前にある椅子へとゆったりと腰を下ろす。

煌星は息を詰め、無意識に拳を握り締めた。


「――今、宮廷で即位している皇帝は"本物"ではない」


空気が凍りつく。


「……っ」

「"本物"の皇帝――景耀は、毒を盛られ、いまだ完全には回復されていない」

「毒……?」


煌星の胸に、冷たい刃が突き立つ。


(皇帝が……毒を……?)


思わず璃月を見る。

彼女の表情は、怒りと焦燥が入り混じった複雑なものだった。


「では、今宮廷にいる陛下は……?」

「影武者だ」


景耀は、あまりにも当然のように言った。


「影武者が皇帝として振る舞い、皇帝の番である蘇貴妃がそばに控えている……それが、この後宮の"真実"だ」


煌星は、喉が渇くのを感じながら、じっと景耀を見つめた。


「そして、その影武者とは――」


景耀は微かに笑みを深める。


「――この私だ」

「本物の景耀……皇帝陛下は、離宮にいるのよ」


璃月の言葉に、煌星は息を呑んだ。

煌星は、ゆっくりと景耀――いや、その男を見た。


「……影武者……」


景耀は微かに笑みを浮かべ、余裕たっぷりに肩をすくめる。


「私は──いや、俺は景翊という」

「そんなことが……」


思わず呟く。

だが、考えれば考えるほど辻褄が合う。

璃月が、後宮から忽然と姿を消したこと。

自分が呼ばれたこと。


「璃月……じゃあ、お前はずっと……?」

「ええ」


璃月は、静かに頷いた。


「私は、離宮で陛下をお支えしている。毒に侵された陛下は、まだ完全には回復されていないけれど、少しずつ……」

「待って、待って……そんなの、全然知らなかったんだけど!?」


思わず声を上げる煌星に、景翊が皮肉げな笑みを向けた。


「当然だろう?お前が知る必要がなかったからだ」

「……っ」


煌星の胸に、嫌な冷たさが広がる。

景翊は、ゆったりと腕を組みながら続けた。


「元々、宮廷の機密が外に漏れることはない。だが、これは特に国家を揺るがしかねない重大事――本来なら、お前にも知らせるべきではなかった。

だが、お前は今や“蘇貴妃”として、後宮の中心にいる。知っておかねばならないこともある」


景翊の目が、鋭く煌星を射抜く。


「――この宮廷のどこかに、陛下を陥れようとする者がいる」


静寂が落ちた。


「……」


「毒を盛った者も、まだ捕まっていない。つまり、犯人は今もこの宮廷に潜んでいるということだ」


煌星の背筋に、ひやりとした感覚が走る。


(皇帝毒殺は未遂に終わった……けど、犯人はまだ潜伏してる……)


璃月が、一歩前に出て煌星の肩を握る。


「煌星――景翊と協力して、謀反人を探して」

「……!」


「本当は私が動きたい。でも、今は離宮で陛下を支えるのも大事なことなの――」


その瞳は、迷いなく煌星を見つめていた。


「だから……私のかわりに、煌星にやってほしいの」


煌星は、唇を引き結んだ。

唐突な選択を迫られ、景翊と璃月の顔を交互に見る。

どちらの表情にも迷いはない。

「巻き込みたくなかった」という璃月の想いと、「お前はもう巻き込まれたんだ」という景翊の冷静な現実――。

今更「冗談でした」というような状況になりそうにもない。

唐突なこと過ぎて逃げたい気持ちも大きかった。けれど──


(……どうせ逃げられないんだよな……)


静かに息を吐き、煌星は視線を落とす。

そして、次の瞬間には顔を上げ、ゆるく微笑んでみせた。


「……わかったよ」


その瞬間、景翊が満足そうに目を細める。


「心が決まって何よりだ」


そして、ゆっくりと告げた。


「お前には、もう一人の協力者がいる」

「……?」

「魏嬪だ」

「……は?」


煌星が困惑した刹那――スッと、音もなく影が揺れた。


「!!?」


気づいた時には、闇の中から、まるで霧のように魏嬪が現れていた。

先ほどまでの端然とした妃の姿そのままに、彼女は静かに膝をつき、慎み深く頭を垂れる。


「御前に」


その一言に、景翊が満足そうに微笑む。


「魏家は、代々王家に仕える"影"の一族だ」

「影の……一族……?」

「つまり、魏嬪は表向きは妃の位にあるが、裏では宮廷の監視者だ」


煌星は、魏嬪を凝視する。

昼間、あれほど慎重に立ち回っていた彼女が、今はまるで別人のように見えた。


「俺と魏嬪で、お前を試させてもらった」

「……試す?」

「妃嬪たちとの挨拶だよ。お前、相当疲れただろう?」


(あれ……仕組まれてたの……!?)


煌星は、午前中のやり取りを思い出し、思わず顔をしかめた。


「うわ……」


魏嬪は微笑み、優雅に膝を進める。


「お許しくださいませ、煌星様。ですが――あの受け答え、見事でしたわ」


そして、静かに続ける。


「……それに、璃月様にあまりにもよく似ておられて。私は、感動で胸がいっぱいでしたのよ」


璃月が、微かに笑みを浮かべる。


「――彼女は、どういうわけか私に心酔しているのよ」


煌星は、一瞬言葉を失った。


(影の一族が璃月に心酔ってる……?それ、どういうこと……?)


魏嬪は、静かに頷く。


「璃月様は、私にとって特別な方ですから」


それを聞き、璃月が煌星の肩を軽く叩いた。


「魏嬪は、すでに動いてくれている。だから――煌星、お願い」


煌星は、大きく溜息を吐いた。

そして、天井を仰ぎ、目を伏せる。

数秒後、息を吸い、改めて璃月を見た。

そして、ゆるく笑い、肩をすくめる。


「任せて、とは言えないけど。――僕なりに、やってみるよ」


璃月は微笑み、「ありがとう」と囁いた。

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