煌星は、鏡台の前で静かに櫛を通しながら、深く息を吐いた。
(……やはり今夜も、来るよなぁ……)
仮初とはいえ皇帝の寵愛を受ける立場となった以上、夜を共にすることは避けられない。
昼間の妃たちとのやり取りだけでも、十分に神経をすり減らしたというのに――。
今夜はどう切り抜けるべきか。
「貴妃様」
柳蘭が、静かに部屋へ入ってくる。
「陛下がこちらへ向かわれております」
(だよなぁ……そう足しげく通わんでも……いや、璃月が愛されてるのはいいことなんだけど、今は僕なんだよなぁ……)
逃げられるものなら、どこへでも駆け出したかった。
けれど、そんなことは不可能だ。
煌星は、すっと立ち上がり、扉の前へと歩み寄る。
考えたところで、避けようのないこと。
今はただ、璃月としての役目を果たすのみ。
静かな足音が近づく。
扉が開かれた。
景耀が、ゆったりとした動作で部屋へと入ってくる。
煌星は、優雅に膝を折り、慎ましく頭を下げた。
「お迎え申し上げます、陛下」
景耀の視線が煌星を捉える。
「顔を上げよ」
言われるままに顔を上げると、景耀はわずかに微笑んでいた。
「貴妃が上手く立ち振る舞っていると聞いた」
「陛下にご心配をおかけしないよう、務めております」
景耀はゆっくりと近づき、煌星の前で立ち止まる。
空気がわずかに重くなる。
「そなたは、後宮の女たちをどう思う?」
(……唐突な問いすぎる、どうもこうもまだ1日目ですけど……)
煌星は表情を崩さぬよう、穏やかに返す。
「皆様、陛下をお慕いしておられかと」
「それは当然のことだ」
「それゆえに、私がどのように振る舞うか、注意を払わねばなりません」
「ふむ……」
景耀は、しばし沈黙する。
煌星は、その隙に彼の表情を探る。
(何を考えてる……?)
景耀の視線には、何かを測るような色があった。
煌星は、慎重に息を整える。
「では、張嬪については?」
(……ピンポイントで名前出してくる!?)
煌星は、わずかに視線を伏せ、自然な口調を作る。
「感情豊かで、可愛らしい方ですわ」
「ほう」
「ゆえに、陛下のお心を強くお求めになるのも、ごく自然のことかと」
「……」
景耀は、しばらく煌星を見つめた後、唇の端をかすかに歪めた。
「そなたは、張嬪を疎ましく思うか?」
(またその質問!?)
「いいえ? 色々な方がおそばにいる方が、陛下の御心を癒すこともできましょう」
景耀は微かに目を細め、低く笑う。
「そなたは、優しいな」
(いや、別に優しさとかじゃなくて!この場をどうにかしのぎたいだけです!!!)
景耀は軽く手を差し伸べる。
「こちらへ」
煌星は、内心で警戒しながらも、ゆっくりと彼の前へ進む。
その瞬間、かすかに甘い香りが鼻をかすめた。
(……この人の、匂い……?)
香木のような、けれどそれだけではない。
どこか、龍血の気配を強く感じる――本能が、訴えていた。
(……凄く良い……)
鳳華の体は、龍血に惹かれる性質を持つ。
それは「番」としての本能。
だが、煌星の番は景耀ではない。むしろそうであると困る。
歴史的にも、兄妹・姉妹で一人の皇帝に嫁いだことがないわけではない。
しかし、煌星としては御免なのだ。姉の番と懇ろになるなど。
――では、なぜ?
(いや、気のせいか……な……)
景耀は、そんな煌星の微かな戸惑いを見透かしたように、ゆっくりと口を開く。
「そなたは、よくやった」
「恐悦至極にございます」
「――では、そなたに"真実"を見せよう」
(……?)
煌星は、一瞬きょとんとする。
景耀は、ゆっくりと微笑んだ。
その瞳には、何か確信めいた光が宿っている。
「ついてこい」
景耀は、迷いなく寝殿の扉を抜け、静かな廊下を進んでいった。
煌星も、無言のままその背中を追う。
(……どこへ行くつもりだ?)
後宮の奥へと続く廊下は、人の気配がほとんどない。
煌星は、ただならぬ気配を感じながらも、口を開くことができなかった。
やがて、景耀が足を止める。
彼の前には、ひっそりとした小さな扉があった。
「入れ」
低い声が響く。
景耀は扉に手をかけると、迷いなく押し開いた。
煌星は、一瞬だけ躊躇する。
だが、景耀の背が室内へと消えていくのを見て、覚悟を決めた。
息を整えながら、一歩足を踏み入れる。
そして、視線を向けた先で――
「……っ」
煌星の呼吸が止まった。
薄明かりに照らされた室内。
そこに、ひとりの人物が静かに座っていた。
揺れる灯火が、その姿を浮かび上がらせる。
凛とした佇まい。
しなやかな黒髪。
見覚えのある気高さを湛えた面差し。
「――璃月……?」
自分と瓜二つの、唯一無二の姉。
間違いなく、本物の蘇璃月がそこにいた。