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五、貴妃は朝から逃げられない

微かな意識の奥、淡く滲む朝の気配。


(……生きてる……いや、そりゃそうか)


煌星はゆっくりと瞬きをしながら、牀に横たわる自分を確認した。

無事に夜をやり過ごしたことに、密かに安堵する。

そして、隣を見た瞬間――心臓が跳ね上がった。

すぐそばで、景耀が静かに眠っている。


(……お、起こさずに、このままそっと抜け出せば……)


慎重に身体をずらそうとした、その瞬間。

がしっ――。


(……えっ)


景耀の腕が、煌星の腰を引き寄せた。


(いやいやいやいやいやいや!!!!)


「……もう少し、このままで良いだろう?」


低く掠れた声が、耳元をくすぐる。


(起きてた~~~~!ひぇぇ……寝起きの皇帝様、色気やばすぎんか……!?)


艶やかな黒髪に、切れ長の琥珀色の瞳。

端正な顔立ちは、どんな者も魅了するだろう。

だが、問題はそこではない。


(逃げられない……!!!)


腰を掴む手を無碍に振りほどくことなんて出来やしない。

煌星は、必死に冷静を装う。



「……陛下、お務めがおありでは?」

「……まだよい」


寝ぼけたような声音だが、腕の力はしっかりしている。

まるで、逃がす気などないかのように。


(だめだこれ、完全にロックされてる……)


絶望しかけたそのとき――


「貴妃様、お目覚めでしょうか」


部屋の外から、柳蘭の慎重な声が響いた。


(あ、あ、あ、あー!ナイスすぎる!!絶妙なタイミング!ありがとう!)


「……お支度の時間でございます」


景耀が、ゆっくりと瞼を開ける。

琥珀色の瞳が煌星を映し、ほんのわずかに細められた。


「……そなたは、このまま私と寝ていたい、などとは思わぬのか?」


(いやぁ……ご遠慮したいですね……)


思わず声に出そうになったが、そこは押さえて煌星は、微笑みを作った。


「この身は、陛下に捧げられたものです。ですが――」


軽く袖を滑らせる。


「朝日を浴びる陛下の御尊顔を拝するのも、貴妃の務めかと」


景耀は、一瞬だけ沈黙し、やがて短く笑う。


「……そうか」


ようやく、腰に回されていた腕が解かれて、自由になった。


(助かった……)


煌星は、なんとか体を起こし、そっと牀を下りる。

扉が開かれると、柳蘭と柳香が静かに入り、手際よく衣を整え始めた。


「貴妃様、お身体は大丈夫ですか?」


(大丈夫じゃないけど、大丈夫と言うしかない!!!)


「ええ、大丈夫よ。陛下のお支度を手伝うわ」


煌星は、なんとか取り繕い、微笑んだ。

皇帝の朝の支度を手伝うのも、妻の役目。


(……今日もまた、逃げられない一日が始まる……)


煌星は、そっと溜息を吐きながら、景耀へと向き直った。

景耀は支度を終えると、煌星と軽めの朝食を摂り、政務のために正殿へと向かった。

煌星は、皇帝の背を見送りながら、ようやく息をつく。

牀の上では張り詰めていた神経が、一気に弛緩し、どっと疲れが押し寄せた。

寝起きだというのに、すでに一日分の気力を消耗した気分だった。

ぐったりと椅子に座り込む。


(はぁぁぁぁぁ……心臓に悪すぎる……)


夜の間に何度も心臓が止まりかけたが、とにかく乗り切った。

だが、今後も景耀と寝所を共にする機会が増えることを考えると、気が重い。


「お疲れ様でございました、貴妃様」


柳蘭が静かにお茶を差し出した。

茉莉花の香りがふんわりと立ち上り、緊張した神経を和らげる。


「いい香りだね……」

「ええ。昔からお好きでしたよね」


柳蘭は微笑みつつ、首を傾げた。


「貴妃様、今朝はご機嫌がよろしいようで?」

「え……全然……?」


煌星は作り笑いを浮かべ、静かに茶を口に含む。

柳蘭と柳香は姉妹で、もともと蘇家に仕える黎家の娘たち。

璃月が後宮に入る際、柳蘭が付き従い、柳香はそのまま煌星の元に残った。

後宮の作法を熟知する柳蘭の存在がなければ、今頃とっくにボロが出ていたことだろう。

そんな柳蘭が、ふと真剣な表情になり、口を開いた。


「貴妃様、早速ではございますが、次の予定がございます」

「えええ……今度は何……」


茶を飲んでいる煌星に向かい、柳蘭が淡々と告げる。


「本日は、妃たちが貴妃様へご挨拶に参ります」

「えっ!?向こうが来るの!?僕が行くんじゃなくて!?」

「私、ですよ」

「ア、ハイ……」


柳蘭は淡々と頷き、続ける。


「貴妃様は、今の皇帝陛下のもとで最も位が高いお方。ですので、皆さまが来られるのです」


一難去ってはまた一難。

煌星は、ぐったりと頭を抱えた。


(……後宮の妃たちと対面……絶対に波乱しかない……!!!)

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