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三、逃げ場のない夜

煌星は、机の上の金牌を見つめたまま、深く息を吐いた。

皇帝が金牌を置いたなら、貴妃は夜を共にする準備をしなければならない。

それが、この後宮の掟――所謂、夜伽というものだ。


「貴妃様、お召し替えを」


柳蘭の静かな声が響く。

彼女の腕には、しなやかな紅の衣。

艶やかな金糸の刺繍が、夜灯の下できらめいていた。

煌星の思考が、一瞬、現実から逸れる。


(いやいやいやいや)


これは、まさか、そういう流れなのか?

ゆっくりと柳蘭の顔を見上げる。


「……ねえ、柳蘭」

「何でしょう」

「僕、逃げてもいいかな?」


柳蘭の睫毛がぴくりと動いた。

そして、ほとんど間を置かずに冷静な声が返ってくる。


「不可能です」

「……ですよね~~~~~~~~~!!!」


机に突っ伏す。

柳香が、涙目になりながら袖をぎゅっと握りしめた。


「き、貴妃様ぁぁぁ……!!」


(いや泣きたいのはこっちだ!!)


煌星は無言で天を仰ぐ。

どこかに逃げ場は――ない。


この後宮のどこを探そうと、皇帝の命から逃れられる場所など存在しない。

柳蘭が静かに近づき、肩に手を添えた。


「貴妃様。御心をお鎮めください」

「それ、無理じゃない? そして、いろいろと無理じゃない⁈」


柳蘭は微かにため息をつくと、手に持っていた衣を掲げた。


「では、着替えますよ」

「待て待て待て待て!!!」


慌てて後退る。


「何をどうやったって、これは無理だから!!!」

「ですが、貴妃様が整えられていなければ、陛下に無礼を働くことになります」

「……それは、そうなんだけど」


(いや、でもさ!?)


いくら璃月と自分が似ているからといって、完璧に装えば本物になれるわけではない。

それに、景耀は確実に 「何かを知っている顔」 をしていた。

もしも、自分の正体に気づいていて、試すつもりなら――。


(……脱がされたら終わりだろ、これ……‼)


いや、詰む。

本当に、詰む。


「貴妃様」


柳蘭が、すっと袖を差し出す。


「ご準備を」


煌星は硬直した。

逃げ場は、どこにもなかった。

そして非情にも時は過ぎてゆく。

あっという間に皇帝を迎え入れる刻限だ。

扉が静かに開かれる。

燭台の灯が揺らぎ、長い影が壁に映った。

皇帝・景耀がそこにいる。

琥珀色の瞳が、先ほどと変わらぬまっすぐな眼差しで煌星を捉えた。

その視線には、言い知れぬ圧がある。

煌星はゆっくりと膝を折り、頭を垂れた。


「陛下――お迎え申し上げます」


驚くほど落ち着いた声が出た。

内心では、心臓が跳ね上がっているというのに。


(どうする……どうする……)


目の前の男は、すべてを知っているのか。

それとも、まだ――。


「……待たせたな」


低く響く声。

景耀がゆっくりと部屋へ足を踏み入れる。

扉が閉じられる音が、ひどく遠く感じた。

煌星は、顔を上げるべきか迷う。

貴妃として迎え入れたなら、どう振る舞うべきか。

わかっていても、どうしても身体が動かない。


(バレる? いや、バレないはず……でも……脱がなければなんとか……‼)


そんな考えを読んでいたかのように、景耀がふと薄く微笑んだ。


「……璃月、何をそんなに緊張している?」

「……いえ、そんなこと……」


目を細められる。


(無理だって……!)


必死に表情を崩さぬよう、静かに息を整える。


「……久方ぶりのことで、少々緊張が」

「ふむ」


景耀は、それ以上何も言わなかった。

だが、視線はどこか探るようで――。


「……そなたは、本当に蘇貴妃か?」


――心臓が跳ね上がった。


(!!!!!!!!!)


あまりにもストレートな問い。

想定外の直球が飛んできて、言葉が出ない。

沈黙が落ちる。

景耀は、その沈黙すら楽しんでいるかのようだった。


「……違うのか?」

「――陛下」


煌星は、ゆっくりと口を開く。

喉が渇いていた。

だが、ここで狼狽えれば即座に疑われる。


「――他の誰かに見えますか?」


景耀の表情が、ほんのわずかに変わる。


(……よし、切り抜けた……か?)


と、そのとき。

不意に、景耀の指が伸びた。


「――!?」


反射的に身体を引こうとしたが――間に合わなかった。

指先がそっと顎を掬う。


「……?」


(ちょっと待て待て待て!!!??)


触れられた瞬間、背筋がぞくりと震えた。

この男、どこまで確信している?

それとも、本当にただ試しているだけなのか――?

景耀の瞳が、ゆっくりと細められる。


「……緊張、か……そなたが珍しいことだ」

「……」

「……ふむ」


景耀の手が離れる。

指先の感触が、妙に皮膚に残った。


(ああああ、心臓に悪い!!!)


気づけば拳を強く握りしめていた。

景耀は、わずかに微笑む。


「おいで、璃月」


そして、静かに言葉を続けた。


「……いつものように、語らおう」


煌星は、息を呑んだ。


(……えっ?)


「……陛下?」


景耀は、ゆったりとした動作で袖を払う。

その動きに、わずかに冷たい空気が生まれた。


「……話して聞かせてくれ。良いか?」


(……いやいやいやいや!!!!!!そっちの意味の「良いか?」じゃないよな!? いや、違うよな!? 話だよな⁈)


「は、い……」


答えるしかなかった。

まさか、「聞かせられません」と拒むわけにもいかない。

景耀は、部屋の奥へ進み、牀へ腰を下ろす。

その仕草は、まるでここが自分の宮であるかのように自然だった。


(あ~~~~場所~~~~……そこかぁ……)


本来の璃月ならば、何も問題のない行動。

妻なのだから。

だが、煌星にとっては絶望的な距離感だった。


「……璃月、そなたも座れ」


促され、煌星はそちらへ向かう。

景耀の正面に、少し距離をとる形で立ち、迷った。


(……近すぎるのは、まずい。かといって、離れすぎても……)


だが、煌星が答えを出すよりも早く、景耀は手を伸ばした。

袖を軽く引かれ、気づけば、すぐ隣へ座らされる。


「……っ」


(なんで!?)


思わず硬直する煌星を、景耀は面白そうに見つめた。


「今宵は随分と遠慮がちだな」

「……そんなことは」

「そなたは、もっと私に甘えるものだと思っていたが?」


(甘え……⁈)


どうする?

どうすれば、疑われずにこの場をやり過ごせる?

――考えろ。考えろ、煌星。

璃月なら、どう振る舞うか?


(……そうだ。璃月なら、こんなとき――)


煌星は、少しだけ視線を下げ、わずかに不機嫌そうな顔を作った。


「……嘘ですわね。だって私が戻ったのは昨日ですわ。今日まで私のことなど放っておいたくせに」


拗ねたように唇を尖らせる。

思えば、璃月はこういう態度をよく取っていた。

特に父に何かを強請るときなどは、決まってこの調子だった。

景耀の目が、わずかに細まる。


「……拗ねているのか?」

「さあ、どうでしょう?」


景耀は短く笑う。


「そなたは変わらぬな」


(……変わってるけどね!? 中身違うけどね‼)


ふいに、顎をすっと持ち上げられる。


「……そなたが拗ねる姿は、可愛らしいものだな」

「……っ」


(ひ、ひえ……!!)


景耀は、煌星の反応を楽しむように、ゆっくりと指を離した。


「……さて、そなたの里帰りの話を聞かせてくれ」


(……!!!!!!)


警戒を強める。

適当な話をすれば、矛盾を突かれる――。

どうすべきか、と思った時位煌星は閃いた。


(……待て、僕が普段話してることでいいんじゃないか?)


煌星はひとつ息を飲み、景耀を見上げた。


「家では──……」

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