市を巡り、橡様とともに神域の寝殿へ戻ると、日が少し傾き始めていた。
「楽しかったです」
そう言いながら、俺は手首に巻かれた組紐を見つめる。
「なら良かった。ここは村に比べると遊興は少ないかもだからねぇ」
橡様は穏やかに微笑む。
「……でも、ちょっと疲れたかもです」
「うん。今日はよく歩いたからね」
橡様は庭先にある縁側へ座り、俺を手招きする。
俺もその隣に腰を下ろすと、どこからか神使の子供たちが駆け寄ってきた。
「長様!あそぼう!」
「えっ、今から?」
「いいじゃないか。僕はここから見ているよ。とはいえ、長くんも疲れてるだろうし、皆、少しだけだよ?」
橡様は俺の背を軽く押し、神使の子供たちと遊ぶよう促してきた。
まあ、疲れたといっても農作業を丸一日するよりはましというもので。
俺は一度伸びをしてから立ち上がると、言葉に頷きながら神使の子らが俺の手や袖を引っ張る。
「引っ張るなって」
そう言いつつ、俺は神使の子供たちに手を引かれて庭へと出ていく。
笑い声が響く中、橡様は縁側に腰を下ろし、穏やかな目でこちらを見守っていた。
神使たちが「こっちこっち!」と無邪気に手を引くたび、ふと目が合う橡様の柔らかな微笑みが胸に残る。
遊びながらも、俺の視線は時折橡様に向かってしまう。
──不思議と、目が離せなかった。
やがて、夕日が庭を橙色に染め始めた頃。
子供たちが「もう一回!」と駄々をこねる中、橡様が立ち上がって声をかける。
「そろそろ入ろうか」
その一言に、神使たちは「はーい」と名残惜しそうに解散していった。
俺も深呼吸をして、火照った体を冷ますように額を拭う。
「楽しかった?」
縁側から立ち上がり隣に立つ橡様が、少しだけ身を屈めて俺の顔を覗き込む。
子供扱いされている気がして、少しむっとするが、悪い気はしなかった。
「まぁ、たまにはこういうのも……」
言葉を濁しながら視線を逸らすと、橡様はふっと笑う。
「長くんの笑顔が見られると僕も嬉しいよ」
そう言いながら、橡様がふわりと俺の髪に触れる。
その指が耳元をかすめると、くすぐったさと妙な緊張感が同時に襲ってきた。
「……橡様」
「何かな?」
「髪……そんなに触らなくても」
自分で気づかないうちに声が少し震えていた。
橡様は気にする様子もなく、指を髪から滑らせながら静かに微笑む。
「触っていたいんだよ」
さらりとした声に、余計に心臓が早くなる。
「ずっと待っていたお嫁さんだからねぇ」
「っ……」
不意に耳元で囁かれ、体が固まる。
顔がますます熱くなるのを感じて、俺は手首の組紐をぎゅっと握りしめた。
「そんなに赤くなることじゃないよ」
「……橡様が近いから、ですよ……」
気づけば、俺の言葉は小さくなっていた。
橡様は俺を見つめたまま、少しだけ身を乗り出してきて、髪を触っていた手で今度は俺の手を包んだ。
「近い方が、僕は安心するんだけどな」
「橡様……」
逃げられずに視線が交わるまま、手首を包む橡様の指が優しく組紐をなぞる。
その動きにどこか焦らされるような感覚がして、目を逸らそうとしても橡様は許してくれない。
「長くんは、僕から離れないよね?」
「……離れませんよ」
今更、もうどこに行けるというものでもなし……行きたいとも思わない、し。
けれどそこだけは照れてしまって黙ったまま、俺が小さく短く答えると、橡様はようやく満足したように微笑んで、俺の耳へと唇を寄せてからそっと距離を戻した。
「それでいい」
そう言う橡様の表情は、どこか満ち足りているように見えた。
手を離されるかと思ったが、橡様の手はまだ俺の手首に触れたままだった。
「……橡様?」
呼びかけると、橡様は少しだけ考え込むように視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「もう少しだけ、このままでもいいかな」
「えっ……」
視線を外そうとしても、橡様の指が組紐の上を優しくなぞる。
逃げることもできず、俺はただ小さく頷くしかなかった。
──こうして穏やかな時間が過ぎていった。
けれど、橡様の触れた感触だけは、その後もずっと頭から離れなかった。