橡様と一緒に立ち入った幽世の街は、祭りみたいに賑わっていた。
屋台が立ち並び、神様や妖怪が楽しそうに品物を眺めている。
初めて神域に足を踏み入れた俺には、その光景がどこか夢の中みたいに思えた。
「橡様、この先には何があるんですか?」
隣を歩く橡様に声をかけると、橡様はゆっくり振り返る。
「そちらも市だよ。僕たちみたいな神や妖怪の子が集まって、いろんなものを売るんだ。面白いものもあるから、見て行こうか」
穏やかな声だった。橡様は普段、あまり多くを語らないけれど、その言葉にはどこか優しさがあって。安心できる。
「ゆっくり行きましょうか?」
俺がそう尋ねると、橡様はふっと微笑んだ。
「そうだね。せっかくだから、ゆっくり歩こうか。こうして」
橡様は俺へと返事をしながら、俺の手を取って握った。
そして歩き出す。
色とりどりの灯がともる屋台にはいろんなものが並んでいた。
光を宿す石、色鮮やかな香袋、不思議な模様が浮かび上がる鏡──。
どれも当たり前に初めて見るものばかりで、立ち止まるたびに自然と目を奪われてしまう。
「変わったものが多いですね」
思わず口にすると、橡様が隣から応える。
「ここでしか手に入らないものがほとんどだよ」
橡様は俺のを握ったまま歩きながら、ゆっくりとした声で話してくれる。
その声はまるで俺が不安にならないように気を遣ってくれているみたいだった。
ふと、俺は一軒の屋台の前で足を止めた。
そこには、色とりどりの組紐が綺麗に並んでいる。
赤色に桜色、橙色に藤色……その中でも気になるものがあった。
「これ……」
無意識に手を伸ばすと、屋台の主である小さな狐の妖が微笑んだ。
「旅の守りになる組紐ですよ。どこへ行っても帰る道を忘れないって言われてますこん」
「帰る道を……?」
それは紺色に金糸が組まれたものだった。
手に取った紐を、指にそっと巻き付けてみる。
ひんやりとして柔らかい感触が、なぜか懐かしく思えた。
「気に入ったのかい?」
橡様が、俺の上から静かに声をかけてきた。
「……いえ。ただ、なんとなく……」
否定しつつも、視線は組紐から離せない。
「ふふ、嘘だね」
橡様はくすっと笑いながら、俺の手を離すと、懐から巾着を取り出して狐に代金を渡した。
「……え、買うんですか?」
驚いて見上げると、橡様は迷いなく頷く。
「うん。似合うと思ったからね」
そう言いながら、橡様は俺の右手をそっと取る。
少し驚いたけれど、橡様の指先は驚くほど優しくて、何かを包み込むみたいだった。
ゆっくりと、組紐を手首に巻きつけていく。
「守りの代わりだよ。気にしないでつけておくといい。ちょっとだけ、僕の呪いを加えようか。いつでも君が僕のところだけに帰ってこれるように」
「え?」
言いながら、橡様は己の親指爪先でその中の指先をほんの少し押した。
赤い血が少量滲む。それを組紐の結んだ目に染み込ませた。
あっという間に組紐が血を吸い──そこは先ほどまでの色に戻る。
一連の動作は素早い動きで行われ、俺は言葉を挟む隙もなかった。
「これでいいね」
「あ、はい……」
少し照れくさかったけれど、手首に巻かれた組紐をじっと見つめた。
橡様の言葉は短いけれど、不思議と心に響いてくる。
──それが、橡様から初めてもらった贈り物だった。
橡様の優しさが詰まったその組紐の温もりを、俺はずっと忘れなかった。
たとえ何があっても、これだけは絶対に手放さない。そう心に誓う。
「お熱いお二人だこん!」
狐の妖が俺たちを祝福するように、ちょん、と跳ねた。
その様子が可愛らしく、俺も橡様も笑う。
「橡様がここまで入れ込むなんて、よっぽど好きなんだこんね~」
「うん。僕の大切なお嫁さんだからね」
さらりと答える橡様に、俺は思わず耳まで赤くなった。
狐の妖がくすくすと笑い、熱いこん!熱いこん!と尻尾をぱたぱたと振る。
そしてまた二人で市の中を歩いた。
時折、橡様が不思議な果物や菓子を買って俺の口の中に放り込む。
どれもこれも美味しいものばかりだった。
そのうちの一つを選び、橡様が神使の子達へのお土産にと包んでもらう。
本当に優しい神様だな、と思いつつ、この方の神嫁で良かったな……なんて俺は思ったのだった。