「今夜は君の近くで様子を見るよ。君が安心できるようにね」
橡様は寝殿で俺を抱き寄せながら、小さく囁いた。
その腕に包まれながら目を閉じると、不思議と安心感が広がり、意識が遠のいていく。
――だが、深夜、ふと冷たい視線を感じて目を覚ました。
なんだ……?
背中に這うような違和感が肌に伝わる。音を立てないようにそっと橡様の腕を抜け出し、寝殿の外へ足を運ぶ。庭には冷たい夜風が吹き、闇が辺りを支配していた。
昨夜と同じ場所で、黒い影が揺らめいていた。だが、今度はそれが徐々に形を変えていく。次第に人の姿を取り、俺の前に立つ。
「初めまして……いや、正確には初めてではないかな?」
その声は低く、冷たさの中にどこか柔らかさを持っていた。影から現れたのは、蛇のような模様が肌のところどこにうっすらと滲む、白い髪の怪しげな男だった。顔の作りで言えば矢張り人の世にはいないような美丈夫とも言えなくない、が……。
「君が橡の神嫁か……なるほど。確かに面白そうだ」
「……お前は……誰だ?」
全身に冷たい汗がにじむ。俺が問いかけると、男は薄く笑った。
「私は、
「興味って……俺に何の用だよ?」
声を震わせないようにするのが精一杯だった。玖珂と名乗った男は微笑みながら一歩近づき、まるで俺を弄ぶかのように首を傾げた。
「簡単なことさ。君は神嫁だ。しかも、橡の――ね。それがどれほど特別か、君自身はまだ分かっていないんじゃないかな?」
その言葉に、胸がざわつく。俺自身も「神嫁」という存在の意味を理解しきれていないからだ。
玖珂がまた一歩近づき、指先で俺の髪に触れかける。
「少しだけ……橡の神嫁に触れてみても?」
その瞬間、橡様の手が素早く玖珂の腕を払った。
「触れるな。誰が許した?」
「……ずいぶんと独占欲が強い」
玖珂は目を細めて面白そうに笑うが、橡様の目は冷たいままだった。
「それがどうした?」
玖珂をねめつける様に見つめたまま橡様の腕が俺を後ろへと引き寄せる。
その仕草が、安心して、と言わんばかりで妙に心地よく──俺はただ、橡様の腕に身を委ねていた。
「玖珂……君がここまで入り込むなんて珍しいね。そうか、長くんが言ってたのは……君か」
橡様の金色の瞳が鋭く光り、その声にはいつもの穏やかさとは違う冷たさが混じっていた。玖珂は気にする様子もなく、肩をすくめる。
「挨拶に来ただけさ。君が手に入れた“宝物”がどんなものか、ちょっと見てみたかったんだ」
「僕の神域に入り込んで、挨拶とは随分と無礼な話ではないかな?」
橡様の声がさらに冷たくなる。玖珂は少しの間沈黙した後、薄笑いを浮かべて言った。
「長くん、だっけ?君には、君にしかない特別な力があるんだよ。橡が君を守りたくなる気持ち、分かる気がするなぁ」
「その特別さに手を出すなら、君と敵対することになる。それを覚悟しているんだよね?」
橡様の瞳がさらに鋭さを増す。玖珂はその視線を真正面から受け止めるが、平然と笑みを浮かべた。
「今日はこのくらいにしておこう。……また来るかもしれないけれどね」
玖珂はそう言い残し、再び黒い影と化して夜闇に消えた。
橡様は深く息をつき、俺へと視線を下ろした。その表情は穏やかでありながら、どこか緊張を孕んでいる。
「まだ夜も深い。戻ろうか」
俺の肩を抱いたまま、二人で歩き出す。
「ごめんね、長くん。怖い思いをさせた」
「いえ……でも、橡様が守ってくれたので……」
俺がそう言うと、橡様の腕が俺の肩をそっと抱きなおした。その力にはいつも以上の温もりと、何か強い決意が込められているように感じられた。
「橡様……」
思わず声をかけると、橡様は少しだけ振り向く。
「何かあったら、僕のそばから離れないようにね」
橡様の言葉は、優しさと強い決意が混ざっていた。
玖珂が来る前からずっとそうだったけど、橡様は俺のことを守ろうとしてくれている。
でも──。
「橡様はずっと、俺のことを守ってくれるんですね」
「もちろん」
橡様の声は変わらず穏やかだったけど、どこか思い詰めたようにも感じた。
これ、俺が橡様の重荷になっているんじゃないか……?大丈夫なんだろうか……。
そう思いながら、しばらく無言で歩き続けていると、橡様がふと足を止めてまだ暗い空を見上げた。
「明日は、
「市?」
意外な言葉に顔を上げると、橡様はゆっくりと微笑む。
「幽世は神域に近い場所で……いや、神域の一部かな?神や妖怪が集まる場所でね。そこで市が開かれるんだ。屋台が立ち並んで、賑やかになるよ」
へぇ、と俺は思う。
そんな人間がしているようなことを……いや、この場合は人間が模倣しているのだろうか?
「行ってみたいです」
橡様は小さく頷く。
「じゃあ、明るくなったら少し出かけようか。長くんはもう少し休んだ方がいい」
その優しい声に、不安が少しだけ消えた気がした。