知ってるか、人間諸君よ。
神様の湯殿って凄いぞ!広いぞ!温泉だぞ!
お茶を飲んだ後は、神使の子たちがわらわらっと出てきて、まず湯殿に案内された。
儀式に向けて、身を清めるのだそうで……は、はは……。現実逃避するしかなかった。
ただそうは言っても、本当に湯殿は素晴らしいものだった。
檜で出来た浴槽は大きく、そこには並々と湯が張られていてた。
温泉地でもない限り、それはもうありえないものだ。
身体を洗うために渡された糠袋には何か花の香料が入っているようで、良い香りだし……。
初めて入るその場所に、少しはしゃいでしまって、長湯になってしまった。
夕食も素晴らしかった……!
特に今日はお祝いだそうで、いつもより豪勢らしい。
橡様と向かいになって膳で食事を頂く。
黄泉竈食にならないかな、なんて思いもしたが……橡様の様子からすると、食べようと食べまいと俺は嫁っぽいし……もう食べた。全力で。……意地汚くならないようには注意して。
夕食を終えた俺へと神使が透明な硝子の湯呑に入った水を運んできた。
なんでも神の水でこれを儀式の前に飲むらしい。
それはどこからどう見ても水で、口に含んでも無味無臭だった。
真っ白な正絹の寝巻を着せられ、就寝準備は完了だ。
神使たちが元気に「おやすみなさい!」と挨拶をして去っていった後、橡様は俺を寝殿に案内した。いつの間にか橡様も着替えたようで、黒い髪が歩くたびに美しく揺れる。
「今夜はここで一緒に過ごそう。……大切な儀式だからね」
「えっ、いや、その……一緒って」
橡様の寝殿は広く、美しい帳がかけられた寝台が中央に置かれている。
天子様が眠るような……ものでその場所がどう考えても「契り」の場であることに、俺は息を呑んだ。
これ、ここから走って逃げたらきっと駄目なやつだよな……?
正直、もう、全速力で逃げ出したい。神嫁とか俺には無理だって。
橡様はそりゃあ美しい神様ではあるが……。
でも逃げたら逃げたで村に祟りとか起きるのだろうか……そう思えば、矢張り逃げるという手段は永遠に封じられている気がする。
「長くん、こっちへおいで」
橡様が手招きをする。その瞳は相変わらず優しいけれど、どこか逃れられない力強さがある。
――やっぱり、俺、この儀式からは逃げられないのか……。
恐る恐る橡様の近くへと足を進める。
帳が橡様の手によって開かれて、中の寝具が目に入ると、ますます意識しないではいられない。頬が熱い……。
「あ、の……本当に、その……するんですか……?」
橡様は寝台に座り、俺の手を掴むと引いた。
誘われるように、俺は橡様の前に立つ。
「怖い?」
そりゃ、まあ……経験なんて皆無なんだし、怖いというか緊張するというか……。
ただそれを口にするのはなんとも恥ずかしくて、俺は少し口ごもる。
「そ、の……えっと、でも、あの……俺、男ですよ……?」
それに、だ。
自身にこれから起こりうる現象もそりゃ怖いが……そういうことをした後になって、男の子はね、なんて言われてみろ?どうしようもないじゃないか。
それで人里に戻れるならばまだしも……戻れるのだろうか?
とにかく、そういう思いで俺の中はぐっちゃぐちゃになっているのだ。
しかし橡様ときたら、
「そんなことわかっているから、大丈夫だよ?それに僕らからしたら、人の子の性別なんて些末なことだし……君がどうしても気になるなら、女の子にしてあげることもできるけど……」
とても気にしないように述べたどころか、そんな風なことを言いながら、どうする?と首を傾げた。
俺を!女の子に⁈人智を超え……そうだ、神様だものな……!
「で、できるんですか、そんなこと……」
なりたいわけじゃない。が、あまりのことに俺は問いを口に出していた。
「できるよ?すこぅし弄ればいいだけだからね。うーん、でも……」
「でも……?」
「僕は、今のままの君がいいな。そのままを、愛したい」
…………男がお好きなのだろうか?
いや、そういう意味じゃないんだろうな。てか、愛!愛って……。
早くないだろうか、それ……。
「愛、ですか……?まだ会って間もないのに……?」
俺がそう言うと橡様は、ふふ、と笑った。
「言ったでしょう?ずっと、待ってた……と」
その言葉が終わらないうちに俺は手を引かれて、橡様の腕の中に引き込まれる。
すっぽりと包んでから、俺を寝具の上へと優しく横たわらせた。
「ああ、本当に……君は、綺麗だねぇ……」
橡様が俺の顔の上でうっとりと呟く。
綺麗?俺が?……村で不細工と言われたことはないが、俺の評価は総じて『普通』だ。可もなく不可もなく。自分で顔を見てもそれは変わらない。上背もそうずば抜けて高いわけでもなく、身体に至っては肉が付きにくく貧相寄り……あ、いかん、自分を卑下しそう。
ともかく、普通かつ普通なわけで……。
「……普通、だと……思うのですが……」
「え?君、鏡……ああ!あー……そうか……」
「……?」
俺へと何か言おうとしたらしい橡様は、不意に気付いたかと思えば自己解決するように頷いた。そして、一つ息を吐く。
「ごめんね、それは……僕が術をかけちゃったから、そう見えているだけというか……」
「術」
何のだ?
俺が首を傾げると、ちょっと分が悪そうにその人は笑う。
「君を他の人に渡さないために」
「ために……」
「ちょっと見え方が変わる術を、ね……君が小さい頃にかけてしまって」
「……はぁ」
要するに、その術をかけられた俺は他の人間からは違うように見えてた、ということなのだろうが……これもまた、人の域を超えていてよくわからない。
それよりも、気になることが出てきたぞ……。
「小さいころ、というのは……」
そう、この方……今、俺に小さいころに術をかけた、と言った。
初対面ではないような口ぶりではあったので、当然どこかで会ったこと──もしくは見掛けられたことはあったのだろうが……。
「そのまんまだね。僕は君が小さいころから知っているから」
……えぇ……。
「それはその、稚児趣味的……な……?あ、だから小さい子が……?」
「違うよ⁈」
俺が口にしたことは後半、橡様の声で掻き消されてた。
「いや、確かに!小さいころから君は綺麗な子だったし、お嫁さんに欲しいとはそのころから決めていたけどね……!違うから!」
えらい勢いで橡様はまくし立てて、頭を横に振る。
神使の子たちが小さいこともあり、今の話からそっち系の人かとも思いそうになったが、俺がこの姿でいいなら、稚児趣味ではないか……?知らんけど。
「ああ、もう……とにかく、僕は君をずっと待ってて、この日をずっと望んでいたんだよ……そんな日なんだから……あまり、格好悪いことさせないでほしいな……」
なるほど。そういうところにもこだわりが……。色々と神様も大変なんだなぁ。
橡様は一つ溜息を吐いてから、俺の前髪を撫でる。
「話したいことは、これからたくさん聞くから……今は、静かに……」
そう言いながら、顔が近づき──俺の唇が呆気なく塞がれる。
俺は初めての感触に瞬きつつ、目の端に映る絹糸のような神様の黒髪を見て、これこそ夜の帳だなぁ……なんて的外れなことを思った。