神輿が揺れるたび、俺は白い花嫁衣装の袖を握りしめていた。
緊張で汗が止まらない。村人たちの視線が俺に集中しているのも分かるし、友人たちが半分笑いながらも心配そうに手を振っているのも、目に入っている。
けれど、俺の頭の中にはずっと「どうして俺なんだ?」という疑問が渦を巻いていた。
伝え聞くところによれば、相当格の高い神様だという。
村を守り、加護を与えるありがたい存在。それは分かっている。けれど、その神様がどうして俺なんかを「嫁」に選んだんだ?もっと綺麗な、可愛い女の子は沢山いたはずだ。
「……本当に、なんで俺なんだよ……」
呟きは誰にも届かず、俺を乗せた神輿はゆっくりと森の中へと進む。
注連縄の向こうは、神域――人間が滅多に足を踏み入れられない、神様たちの住まう場所だ。
神輿が止まり、巫女が静かに言った。
「ここが橡様のお社です。長様、降りてください」
重たい足を引きずるように神輿から降りると、目の前には、思わず息を呑む光景が広がっていた。巨木に囲まれたその場所には、黒漆の柱が美しい社が静かに建っている。どこからか、澄んだ水の流れる音が聞こえる。
「……これが、神域……」
空気が――違う。息をするだけで、体が重くなるような、そんな感覚。
ここ、人が……俺みたいな神職とは違う人間が入って大丈夫なのだろうか……。
「長様、お進みください。橡様がお待ちです。末永くお倖せに……村への加護が続きますよう」
その言葉に緊張の上に重責を背負わされた気分だ……。
神嫁とは神と人間の架け橋。そして何より、神嫁が出た地域は次代までの加護が約束されているらしい。
そんな役割重すぎる……吐きそう。
そう言っても逃げられるわけでもない。
巫女に促され、俺はゆっくりと社の中へと足を踏み入れた。
社の奥は、外の世界とはまるで違っていた。穏やかで、それでいてどこか非現実的な空間だ。空気が張り詰め、音という音が消えたように静かだった。
――その中心に、橡様はいた。
「ようこそ、僕のところへ」
ゆったりとした、落ち着いた声が響く。俺は息を呑み、その姿を見つめた。
橡様――それは、黒い衣を纏い、どこか人間離れした美しさを持つ存在だった。俺より一尺は高い背丈に流れる長い髪は夜の闇のように黒く、その中で瞳だけが不思議な金色の輝きを放っている。
……ああ、これが神様なんだ。見た瞬間、そう理解した。
「……橡様、でしょうか」
自然と頭を下げていた。俺の声は少し震えていたかもしれない。
だが橡様は、優しく微笑んで言った。
「うん、そうだよ。君が……僕のお嫁さんになる人だね」
「……は、はあ……」
嫁だなんて、何度聞いても信じられない話だ。
けれど、目の前の橡様の表情には、嘘の欠片もない。俺が来て驚いた様子もない。
つまり、やはり……選ばれたのは俺らしい。
「ずっと、待っていたんだよ。君が僕のところへ来るのを」
橡様の言葉には、どこか嬉しそうな響きがあった。けれど――その目は、妙に真っ直ぐすぎて、俺は居心地の悪さを覚える。
「待っていたって……なんで、俺なんですか? 俺なんか……ただの村の人間ですよ?」
「ふふ、理由は後で教えてあげるよ。……今は、僕のところへ来てくれてありがとう」
橡様は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと手を差し伸べてきた。長い指が、俺の頬に触れる。
「……っ!」
その瞬間、体の芯が震えた。温かいのに、ぞわりとするような感覚。神様の力だろうか――それだけで、俺の心臓は大きく跳ねた。
「ここは神域だ。君がここで生きていくには……儀式を行う必要があるんだよ」
「……儀式って……」
橡様の言葉を受け止めきれずにいる俺を見て、橡様はますます優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、何も怖いことはない。長くん。まずは僕の屋敷に案内しよう」
頬にあった手が俺の手を取り、引かれる。
――俺の、これからの人生はどうなるんだ?
橡様の穏やかな声と、どこまでも優しい表情を見つめながら、俺は途方に暮れるしかなかった。