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第3話 魂の契約と地獄の始まり

 精神世界に、謎の男――レオンと名乗るべきか――の声が響く。

 死ぬか、契約して生き延びるか。

 それは問いかけというより、最後通牒に近かった。


 カインは逡巡した。

 目の前の存在は明らかに人ではない。


 傲慢で、冷酷で、何を考えているか分からない。

 契約すれば、一体どうなるのか? 

 この魂に利用され、もっと酷いことになるのではないか?


 だが、脳裏をよぎるのは、先ほどの死の恐怖。

 シャドウハウルの紅い瞳。

 そして、屋敷で待つリリアーナの顔、亡き母の優しい笑顔。


(死にたくない……!)


 ここで死ねば、もう二度とあの温もりに触れることはできない。

 母が遺してくれた知識も、リリアーナの優しさも、全てが無に帰す。


(生きたい……生きて、変わりたい……!)


 心の底からの叫びが、カインの口をついて出た。


「……契約、する……! 僕は……生きたい!」


 その言葉を待っていたかのように、レオンの口元が歪んだ。


『フン……よかろう。その言葉、忘れはしないぞ』


 レオンが右手をカインに向かって差し出す。

 その手がカインの胸に触れたか触れないかの瞬間、凄まじい力の奔流がカインの魂に流れ込んできた。


「ぐっ……あぁっ……!」


 熱い! 

 魂が焼けるようだ。

 膨大な情報と、経験と、そして強大な力が、濁流のようにカインの中を満たしていく。

 意識が眩い光に包まれ、何も考えられなくなる。


『我が名はレオン。かつて剣神と呼ばれた者だ。今日より貴様の肉体は我が仮の器。そして貴様は、我が弟子となる』


 声が直接、魂に響く。


『我が求めるは剣の極致。そして……我を裏切りし者共への報復。貴様にはそのための礎となってもらう。せいぜい期待に応えろよ、脆弱な小僧』


 それは契約というより、一方的な支配の宣言だった。

 だが、カインにはもう抗う術も気力も残されていない。

 ただ、レオンの力がもたらす熱と、不思議な全能感が身体を満たしていくのを感じるだけだった。


 ふっと意識が浮上する。

 土と血の匂い。

 背中の鈍い痛み。

 カインは自分が森の地面に倒れていることを思い出した。

 目の前には、涎を垂らしながら威嚇の唸り声を上げるシャドウハウルがいる。


(夢じゃ……なかったのか……)


 だが、身体が先ほどとは明らかに違う。

 あれほどの深手を負ったはずなのに、背中の傷は浅くなっており、出血も止まっている。

 全身に力が漲るような感覚さえあった。


『小僧、意識は戻ったか。さっさとその駄犬を始末しろ』


 頭の中に、レオンの声が響く。


「始末って……僕に、できるわけ……」

『案ずるな。我が導いてやる。……いや、少し体を借りるぞ』


 カインが言い終わる前に、身体の主導権が奪われるような奇妙な感覚に襲われた。

 自分の意思とは関係なく、身体がゆっくりと立ち上がる。

 シャドウハウルが警戒し、後退る。

 カインの瞳の色が、一瞬だけレオンと同じような鋭い黒に変わった。

 立ち姿には、先ほどまでの弱々しさは微塵もない。


『フン、やはり脆い器だ。力が十全には伝わらんな。……まあ、この程度なら問題ない』


 レオン(の意識を宿したカイン)は、落ちていた手頃な木の枝を拾い上げると、それを剣のように構えた。

 シャドウハウルが襲い掛かってくる。


 常人ならば反応すらできないであろう速度。

 しかし、レオンにとっては止まって見えるかのようだった。

 最小限の動きで爪と牙を掻い潜り、シャドウハウルの懐へ。

 そして、木の枝をまるで鋭利な刃物のように扱い、魔獣の急所――首筋の動脈を一閃した。


 ブシャッ、と血飛沫が上がる。

 シャドウハウルは悲鳴を上げる間もなく、巨体を震わせると、そのまま地面に崩れ落ち、動かなくなった。


「はぁ……はぁ……」


 身体の主導権がカインに戻る。

 目の前の光景が信じられなかった。

 自分が、あの恐ろしい魔獣を倒した? 

 いや、違う。

 今のは……。


『いつまで呆けている。さっさと屋敷に戻るぞ』


 レオンの声が、カインを現実に引き戻した。

 カインはふらつく足取りで立ち上がり、屋敷への道を辿り始めた。

 身体は疲弊しているはずなのに、不思議と足取りは軽い。

 背中の傷も、もうほとんど痛みを感じなかった。


 屋敷の門が見えてきたとき、門番がカインの姿を認め、驚愕の声を上げた。


「か、カイン様! ご無事でしたか! 一体何が……!」


 他の使用人たちも駆け寄ってくる。

 彼らの視線は、泥と血に塗れながらも、致命傷を負っているようには見えないカインの姿に注がれていた。


「カイン様!」


 その声に振り返ると、リリアーナが涙を浮かべて駆け寄ってきた。


「よかった……! 本当に……! ライナス様とゲルハルト様から森で逸れたと聞いて、どれほど心配したか……! お怪我は……え?」


 カインを抱きしめようとしたリリアーナは、彼の身体に残る傷が、魔獣に襲われたにしてはあまりに浅いこと、そして何より、カインの纏う雰囲気が以前とはまるで違うことに気づき、言葉を失った。

 以前の儚げな影はなく、どこか芯の通った、力強い何かが感じられる。


「リリアーナ……心配かけて、ごめん」


 カインはうまく説明できず、ただそう言うしかなかった。


 自室に戻り、侍医の手当(ほとんど擦り傷程度だったが)を受け、ようやく一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 ベッドに倒れ込もうとした瞬間、頭の中にレオンの声が響いた。


『おい小僧、感傷に浸っている暇はないぞ』

「うわっ! ……な、なんだよ急に……」


『貴様は生き延びることを選んだ。ならば、もう以前の貴様ではない。今日から我が徹底的に鍛え直してやる』


 レオンは有無を言わさぬ口調で告げる。


『まずはその腐った根性と、貧弱すぎる肉体を叩き直す! 立て! 腕立て伏せ100回! 腹筋200回! それが終わったら呼吸法の訓練だ! さあ、始めろ! 』

「え……ええええっ! 今から!? 死ぬ! 死んじゃうよ!」

『死なぬ! 死ぬ気でやれ! 返事は!』

「は、はいぃぃぃっ!」


 その日から、カインの地獄のような(しかし確実に彼を変えていく)日々が始まった。

 夜な夜なカインの部屋から聞こえてくる奇妙な物音や、苦悶の声ともとれる叫び声。

 そして翌日には、青白い顔をしながらも、庭でふらふらと走り込みや素振りを始めるカインの姿。

 アルドレア侯爵家の使用人たちは、三男坊の身に一体何が起こったのかと、ただただ困惑し、囁き合うしかなかった。

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