精神世界に、謎の男――レオンと名乗るべきか――の声が響く。
死ぬか、契約して生き延びるか。
それは問いかけというより、最後通牒に近かった。
カインは逡巡した。
目の前の存在は明らかに人ではない。
傲慢で、冷酷で、何を考えているか分からない。
契約すれば、一体どうなるのか?
この魂に利用され、もっと酷いことになるのではないか?
だが、脳裏をよぎるのは、先ほどの死の恐怖。
シャドウハウルの紅い瞳。
そして、屋敷で待つリリアーナの顔、亡き母の優しい笑顔。
(死にたくない……!)
ここで死ねば、もう二度とあの温もりに触れることはできない。
母が遺してくれた知識も、リリアーナの優しさも、全てが無に帰す。
(生きたい……生きて、変わりたい……!)
心の底からの叫びが、カインの口をついて出た。
「……契約、する……! 僕は……生きたい!」
その言葉を待っていたかのように、レオンの口元が歪んだ。
『フン……よかろう。その言葉、忘れはしないぞ』
レオンが右手をカインに向かって差し出す。
その手がカインの胸に触れたか触れないかの瞬間、凄まじい力の奔流がカインの魂に流れ込んできた。
「ぐっ……あぁっ……!」
熱い!
魂が焼けるようだ。
膨大な情報と、経験と、そして強大な力が、濁流のようにカインの中を満たしていく。
意識が眩い光に包まれ、何も考えられなくなる。
『我が名はレオン。かつて剣神と呼ばれた者だ。今日より貴様の肉体は我が仮の器。そして貴様は、我が弟子となる』
声が直接、魂に響く。
『我が求めるは剣の極致。そして……我を裏切りし者共への報復。貴様にはそのための礎となってもらう。せいぜい期待に応えろよ、脆弱な小僧』
それは契約というより、一方的な支配の宣言だった。
だが、カインにはもう抗う術も気力も残されていない。
ただ、レオンの力がもたらす熱と、不思議な全能感が身体を満たしていくのを感じるだけだった。
ふっと意識が浮上する。
土と血の匂い。
背中の鈍い痛み。
カインは自分が森の地面に倒れていることを思い出した。
目の前には、涎を垂らしながら威嚇の唸り声を上げるシャドウハウルがいる。
(夢じゃ……なかったのか……)
だが、身体が先ほどとは明らかに違う。
あれほどの深手を負ったはずなのに、背中の傷は浅くなっており、出血も止まっている。
全身に力が漲るような感覚さえあった。
『小僧、意識は戻ったか。さっさとその駄犬を始末しろ』
頭の中に、レオンの声が響く。
「始末って……僕に、できるわけ……」
『案ずるな。我が導いてやる。……いや、少し体を借りるぞ』
カインが言い終わる前に、身体の主導権が奪われるような奇妙な感覚に襲われた。
自分の意思とは関係なく、身体がゆっくりと立ち上がる。
シャドウハウルが警戒し、後退る。
カインの瞳の色が、一瞬だけレオンと同じような鋭い黒に変わった。
立ち姿には、先ほどまでの弱々しさは微塵もない。
『フン、やはり脆い器だ。力が十全には伝わらんな。……まあ、この程度なら問題ない』
レオン(の意識を宿したカイン)は、落ちていた手頃な木の枝を拾い上げると、それを剣のように構えた。
シャドウハウルが襲い掛かってくる。
常人ならば反応すらできないであろう速度。
しかし、レオンにとっては止まって見えるかのようだった。
最小限の動きで爪と牙を掻い潜り、シャドウハウルの懐へ。
そして、木の枝をまるで鋭利な刃物のように扱い、魔獣の急所――首筋の動脈を一閃した。
ブシャッ、と血飛沫が上がる。
シャドウハウルは悲鳴を上げる間もなく、巨体を震わせると、そのまま地面に崩れ落ち、動かなくなった。
「はぁ……はぁ……」
身体の主導権がカインに戻る。
目の前の光景が信じられなかった。
自分が、あの恐ろしい魔獣を倒した?
いや、違う。
今のは……。
『いつまで呆けている。さっさと屋敷に戻るぞ』
レオンの声が、カインを現実に引き戻した。
カインはふらつく足取りで立ち上がり、屋敷への道を辿り始めた。
身体は疲弊しているはずなのに、不思議と足取りは軽い。
背中の傷も、もうほとんど痛みを感じなかった。
屋敷の門が見えてきたとき、門番がカインの姿を認め、驚愕の声を上げた。
「か、カイン様! ご無事でしたか! 一体何が……!」
他の使用人たちも駆け寄ってくる。
彼らの視線は、泥と血に塗れながらも、致命傷を負っているようには見えないカインの姿に注がれていた。
「カイン様!」
その声に振り返ると、リリアーナが涙を浮かべて駆け寄ってきた。
「よかった……! 本当に……! ライナス様とゲルハルト様から森で逸れたと聞いて、どれほど心配したか……! お怪我は……え?」
カインを抱きしめようとしたリリアーナは、彼の身体に残る傷が、魔獣に襲われたにしてはあまりに浅いこと、そして何より、カインの纏う雰囲気が以前とはまるで違うことに気づき、言葉を失った。
以前の儚げな影はなく、どこか芯の通った、力強い何かが感じられる。
「リリアーナ……心配かけて、ごめん」
カインはうまく説明できず、ただそう言うしかなかった。
自室に戻り、侍医の手当(ほとんど擦り傷程度だったが)を受け、ようやく一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。
ベッドに倒れ込もうとした瞬間、頭の中にレオンの声が響いた。
『おい小僧、感傷に浸っている暇はないぞ』
「うわっ! ……な、なんだよ急に……」
『貴様は生き延びることを選んだ。ならば、もう以前の貴様ではない。今日から我が徹底的に鍛え直してやる』
レオンは有無を言わさぬ口調で告げる。
『まずはその腐った根性と、貧弱すぎる肉体を叩き直す! 立て! 腕立て伏せ100回! 腹筋200回! それが終わったら呼吸法の訓練だ! さあ、始めろ! 』
「え……ええええっ! 今から!? 死ぬ! 死んじゃうよ!」
『死なぬ! 死ぬ気でやれ! 返事は!』
「は、はいぃぃぃっ!」
その日から、カインの地獄のような(しかし確実に彼を変えていく)日々が始まった。
夜な夜なカインの部屋から聞こえてくる奇妙な物音や、苦悶の声ともとれる叫び声。
そして翌日には、青白い顔をしながらも、庭でふらふらと走り込みや素振りを始めるカインの姿。
アルドレア侯爵家の使用人たちは、三男坊の身に一体何が起こったのかと、ただただ困惑し、囁き合うしかなかった。