鬱蒼とした森の中を、カインは半ば引きずられるようにして進んでいた。
背後からは兄たちの声が聞こえてくる。
「おいゲルハルト、今日の獲物はなんだ? まさかゴブリン程度ではあるまいな?」
「ふふ、兄上。今日はもう少し歯応えのある相手を用意しましたよ。この先の窪地に、少し大きめのボアが生息しているとの報告が」
「ほう、それは楽しみだ。……おいカイン、貴様もせいぜい見ているがいい。アルドレアの剣がいかなるものか、その目に焼き付けろ」
ライナスがカインを振り返り、せせら笑う。
ゲルハルトもそれに同意するように頷くが、その目には冷たい光が宿っていた。
カインは俯いたまま、ただ黙って歩を進めるしかなかった。
病弱な体は既に行軍だけで悲鳴を上げており、咳き込むのを必死に堪えていた。
しばらく進むと、道が二手に分かれていた。
普段訓練で使うのは右手の比較的開けた道だ。
しかしゲルハルトは迷わず左手の、より薄暗く険しい道を示した。
「兄上、こちらへ。近道になります」
「……おい、この先はあまり良い噂を聞かんぞ。確か高位の魔獣が出るとか……」
ライナスが僅かに眉を顰める。
「はは、まさか。それはただの噂ですよ。それに、万が一何か出たとしても、我々二人で対処できない相手ではありません。……むしろ、そういう状況の方が、この出来損ないには良い薬になるかもしれませんしね」
ゲルハルトはそう言うと、意味ありげにカインを一瞥した。
ライナスもその言葉に含まれた悪意を理解したのか、ニヤリと口角を上げる。
「フン……まあ、それもそうか。行くぞ、カイン! ぐずぐずするな!」
ライナスに背中を強く押され、カインはよろめきながら薄暗い森の奥へと足を踏み入れた。
リリアーナの心配そうな顔が脳裏をよぎったが、もう引き返すことはできない。
進むにつれて、森の様相は明らかに変わっていった。
木々はより高く、密集し、陽の光はほとんど届かない。
先ほどまで聞こえていた鳥の声や虫の音は完全に消え失せ、不気味なほどの静寂が辺りを支配していた。
空気は重く、肌を刺すようなプレッシャーを感じる。
カインの本能が、この先に何か恐ろしいものがいると警告を発していた。
「兄上……なんだか、様子が……」
カインが不安げに呟いた、その時だった。
グルルルル……
地の底から響くような低い唸り声が聞こえた。
木々の間から、二つの紅い光点が現れる。
それはゆっくりとこちらに近づいてきた。
「なっ……!」
ライナスが息を呑む。
茂みから姿を現したのは、体長3メートルはあろうかという巨大な狼型の魔獣だった。
漆黒の体毛は闇に溶け込み、剥き出しになった牙は鋭く光っている。
瞳は血のように紅く、飢えた殺意を湛えていた。
「シャドウハウル……だと……!? なぜこんな場所に……! 」
ゲルハルトの声が僅かに上ずる。
シャドウハウルは、低級とはいえども群れで行動し、単体でも騎士団の熟練兵が複数人で対応すべき高位魔獣だ。
「くそっ、話が違うじゃな……!」
ライナスが悪態をつき、剣の柄に手をかけるが、その動きは明らかに遅い。
シャドウハウルは既に臨戦態勢に入っており、その殺気は兄二人に向けられていた。
「……兄上、ここは一旦退きましょう! こいつは我々だけでは……!」
ゲルハルトが撤退を具申する。
その視線が、一瞬だけカインに向けられた。
時間稼ぎの、捨て駒として。
「ちぃっ……! おいカイン、貴様、ここで奴の足止めを……」
ライナスが言いかけた瞬間、シャドウハウルが咆哮と共に飛びかかってきた。
狙いは、魔獣から見て最も弱々しく、脅威度の低い存在――カインだった。
「うわああああっ!」
カインは咄嗟に身を翻して逃げ出す。
背後で兄たちが舌打ちし、自分たちだけが逃げるために踵を返す気配を感じた。
見捨てられたのだ。
(嘘だ……!)
心の中で叫ぶが、現実は非情だ。
必死に足を動かすが、病弱なカインの足では、俊敏な魔獣から逃げ切れるはずもなかった。
鋭い爪が背中を掠め、激痛と共に地面に叩きつけられる。
「ぐっ……あ……!」
息ができない。
背中の傷が燃えるように熱い。
朦朧とする意識の中、シャドウハウルがゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
紅い瞳が、死を宣告している。
(ここで……終わりなのか……? 母様……リリアーナ……)
諦めが心を支配しようとした、その時。
カインの視界の端に、何かが鈍く光るのが見えた。
地面に半ば埋もれるようにして落ちている、古びた短剣。
装飾もなく、ただ使い込まれたような、しかしどこか尋常ならざる気配を放つ短剣だった。
無意識に、カインはその短剣へと手を伸ばした。
傷口から溢れ出た自身の血が、その汚れた刀身にぽたりと滴り落ちる。
瞬間、短剣が淡い光を放った。
カインの意識が、急速に遠のいていく。
身体の感覚が消え、周囲の景色が歪み、まるで水底に沈んでいくかのような浮遊感に襲われた。
――気がつくと、カインは見知らぬ場所にいた。
周囲は無限に広がる暗闇。
足元には何もなく、ただ自分がそこに存在しているという感覚だけがあった。
先ほどの森でも、屋敷でもない。
奇妙で、静かな精神の世界。
『――チッ、貧弱な小僧め。これほどの傷で死にかけるとはな』
不意に、傲岸不遜な声が響いた。
驚いて声の方を見ると、そこに一人の男が立っていた。
半透明の、魂のような存在。
推定三十代前後、鋭い眼光を持つ精悍な顔つき、無造作な黒髪。
歴戦の剣士であることをうかがわせる、引き締まった体躯をしていた。
服装は簡素な剣士の装束だ。
男は腕を組み、値踏みするようにカインを見下している。
「だ、誰だ……? ここは……?」
『貴様に名乗る名などない。ここは貴様の精神世界、いわば意識の底だ』
男はこともなげに言い放つ。
その瞳には、カインに対する侮蔑の色がありありと浮かんでいた。
『それにしても……運の良い小僧だ。我が数百年ぶりに見つけた器が、これほど脆弱とはな。まあ、無いよりはマシか』
「器……? いったい、何の話を……」
カインが問い返そうとした瞬間、男の背後に先ほどのシャドウハウルの幻影が現れた。
実体を持たないはずなのに、その殺気は本物と同じようにカインの肌を刺す。
『フン、雑魚が』
男は幻影を一瞥すると、腰に差していた剣(それもまた半透明だった)を抜くでもなく、ただ指先で虚空を薙いだ。
それだけで、シャドウハウルの幻影は声もなく掻き消えた。
圧倒的な力の差。
「……!」
カインは言葉を失った。
目の前の存在は、ただ者ではない。
人知を超えた何かだ。
『どうやら状況が飲み込めてきたようだな、小僧』
男は満足げに頷くと、再びカインに向き直った。
『貴様は今、死にかけている。肉体は瀕死、魂も消えかけだ。だが、我が力を貸せば助かる道もある』
男の黒い瞳が、カインの魂を見透かすように細められる。
『選択肢は一つだ。このまま無様に死ぬか、あるいは――』
男は不敵な笑みを浮かべ、宣告した。
『――我と契約し、生き延びるか。どうする、小僧? 死にたくなければ、今すぐ答えろ』