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第2話 死の淵と邂逅

 鬱蒼とした森の中を、カインは半ば引きずられるようにして進んでいた。

 背後からは兄たちの声が聞こえてくる。


「おいゲルハルト、今日の獲物はなんだ? まさかゴブリン程度ではあるまいな?」

「ふふ、兄上。今日はもう少し歯応えのある相手を用意しましたよ。この先の窪地に、少し大きめのボアが生息しているとの報告が」

「ほう、それは楽しみだ。……おいカイン、貴様もせいぜい見ているがいい。アルドレアの剣がいかなるものか、その目に焼き付けろ」


 ライナスがカインを振り返り、せせら笑う。

 ゲルハルトもそれに同意するように頷くが、その目には冷たい光が宿っていた。

 カインは俯いたまま、ただ黙って歩を進めるしかなかった。

 病弱な体は既に行軍だけで悲鳴を上げており、咳き込むのを必死に堪えていた。


 しばらく進むと、道が二手に分かれていた。

 普段訓練で使うのは右手の比較的開けた道だ。

 しかしゲルハルトは迷わず左手の、より薄暗く険しい道を示した。


「兄上、こちらへ。近道になります」

「……おい、この先はあまり良い噂を聞かんぞ。確か高位の魔獣が出るとか……」


 ライナスが僅かに眉を顰める。


「はは、まさか。それはただの噂ですよ。それに、万が一何か出たとしても、我々二人で対処できない相手ではありません。……むしろ、そういう状況の方が、この出来損ないには良い薬になるかもしれませんしね」


 ゲルハルトはそう言うと、意味ありげにカインを一瞥した。

 ライナスもその言葉に含まれた悪意を理解したのか、ニヤリと口角を上げる。


「フン……まあ、それもそうか。行くぞ、カイン! ぐずぐずするな!」


 ライナスに背中を強く押され、カインはよろめきながら薄暗い森の奥へと足を踏み入れた。

 リリアーナの心配そうな顔が脳裏をよぎったが、もう引き返すことはできない。


 進むにつれて、森の様相は明らかに変わっていった。

 木々はより高く、密集し、陽の光はほとんど届かない。

 先ほどまで聞こえていた鳥の声や虫の音は完全に消え失せ、不気味なほどの静寂が辺りを支配していた。

 空気は重く、肌を刺すようなプレッシャーを感じる。

 カインの本能が、この先に何か恐ろしいものがいると警告を発していた。


「兄上……なんだか、様子が……」


 カインが不安げに呟いた、その時だった。


 グルルルル……


 地の底から響くような低い唸り声が聞こえた。

 木々の間から、二つの紅い光点が現れる。

 それはゆっくりとこちらに近づいてきた。


「なっ……!」


 ライナスが息を呑む。

 茂みから姿を現したのは、体長3メートルはあろうかという巨大な狼型の魔獣だった。

 漆黒の体毛は闇に溶け込み、剥き出しになった牙は鋭く光っている。

 瞳は血のように紅く、飢えた殺意を湛えていた。


「シャドウハウル……だと……!? なぜこんな場所に……! 」


 ゲルハルトの声が僅かに上ずる。

 シャドウハウルは、低級とはいえども群れで行動し、単体でも騎士団の熟練兵が複数人で対応すべき高位魔獣だ。


「くそっ、話が違うじゃな……!」


 ライナスが悪態をつき、剣の柄に手をかけるが、その動きは明らかに遅い。

 シャドウハウルは既に臨戦態勢に入っており、その殺気は兄二人に向けられていた。


「……兄上、ここは一旦退きましょう! こいつは我々だけでは……!」


 ゲルハルトが撤退を具申する。

 その視線が、一瞬だけカインに向けられた。

 時間稼ぎの、捨て駒として。


「ちぃっ……! おいカイン、貴様、ここで奴の足止めを……」


 ライナスが言いかけた瞬間、シャドウハウルが咆哮と共に飛びかかってきた。

 狙いは、魔獣から見て最も弱々しく、脅威度の低い存在――カインだった。


「うわああああっ!」


 カインは咄嗟に身を翻して逃げ出す。

 背後で兄たちが舌打ちし、自分たちだけが逃げるために踵を返す気配を感じた。

 見捨てられたのだ。


(嘘だ……!)


 心の中で叫ぶが、現実は非情だ。

 必死に足を動かすが、病弱なカインの足では、俊敏な魔獣から逃げ切れるはずもなかった。

 鋭い爪が背中を掠め、激痛と共に地面に叩きつけられる。


「ぐっ……あ……!」


 息ができない。

 背中の傷が燃えるように熱い。

 朦朧とする意識の中、シャドウハウルがゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。

 紅い瞳が、死を宣告している。


(ここで……終わりなのか……? 母様……リリアーナ……)


 諦めが心を支配しようとした、その時。


 カインの視界の端に、何かが鈍く光るのが見えた。

 地面に半ば埋もれるようにして落ちている、古びた短剣。

 装飾もなく、ただ使い込まれたような、しかしどこか尋常ならざる気配を放つ短剣だった。

 無意識に、カインはその短剣へと手を伸ばした。

 傷口から溢れ出た自身の血が、その汚れた刀身にぽたりと滴り落ちる。


 瞬間、短剣が淡い光を放った。

 カインの意識が、急速に遠のいていく。

 身体の感覚が消え、周囲の景色が歪み、まるで水底に沈んでいくかのような浮遊感に襲われた。


 ――気がつくと、カインは見知らぬ場所にいた。


 周囲は無限に広がる暗闇。

 足元には何もなく、ただ自分がそこに存在しているという感覚だけがあった。

 先ほどの森でも、屋敷でもない。

 奇妙で、静かな精神の世界。


『――チッ、貧弱な小僧め。これほどの傷で死にかけるとはな』


 不意に、傲岸不遜な声が響いた。

 驚いて声の方を見ると、そこに一人の男が立っていた。

 半透明の、魂のような存在。

 推定三十代前後、鋭い眼光を持つ精悍な顔つき、無造作な黒髪。

 歴戦の剣士であることをうかがわせる、引き締まった体躯をしていた。

 服装は簡素な剣士の装束だ。

 男は腕を組み、値踏みするようにカインを見下している。


「だ、誰だ……? ここは……?」

『貴様に名乗る名などない。ここは貴様の精神世界、いわば意識の底だ』


 男はこともなげに言い放つ。

 その瞳には、カインに対する侮蔑の色がありありと浮かんでいた。


『それにしても……運の良い小僧だ。我が数百年ぶりに見つけた器が、これほど脆弱とはな。まあ、無いよりはマシか』

「器……? いったい、何の話を……」


 カインが問い返そうとした瞬間、男の背後に先ほどのシャドウハウルの幻影が現れた。

 実体を持たないはずなのに、その殺気は本物と同じようにカインの肌を刺す。


『フン、雑魚が』


 男は幻影を一瞥すると、腰に差していた剣(それもまた半透明だった)を抜くでもなく、ただ指先で虚空を薙いだ。

 それだけで、シャドウハウルの幻影は声もなく掻き消えた。

 圧倒的な力の差。


「……!」


 カインは言葉を失った。

 目の前の存在は、ただ者ではない。

 人知を超えた何かだ。


『どうやら状況が飲み込めてきたようだな、小僧』


 男は満足げに頷くと、再びカインに向き直った。


『貴様は今、死にかけている。肉体は瀕死、魂も消えかけだ。だが、我が力を貸せば助かる道もある』


 男の黒い瞳が、カインの魂を見透かすように細められる。


『選択肢は一つだ。このまま無様に死ぬか、あるいは――』


 男は不敵な笑みを浮かべ、宣告した。


『――我と契約し、生き延びるか。どうする、小僧? 死にたくなければ、今すぐ答えろ』

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