古びた革と乾燥した紙の匂い。
アルドレア侯爵家の広大な書庫の片隅で、少年カイン・フォン・アルドレアは分厚い歴史書の世界に没頭していた。
艶のないアッシュブロンドの髪が少し伏し目がちな青い瞳にかかっている。
ページをめくる細い指はインクで少し汚れ、彼の知的好奇心だけがこの静謐な空間で唯一許された自由であるかのようだ。
「ケホッ、ケホ……」
不意に乾いた咳が静寂を破った。
生まれついての病弱さは剣術名門たるアルドレア家において彼を『落ちこぼれ』の烙印から逃れられなくしている最大の要因だった。
いくら書物で知識を蓄えようとも剣を握ればすぐに息が上がり、型を一つこなすだけで目眩を覚える。
そんな虚弱な三男に父である現当主ダリウスが目を向けることはなく、武勇を重んじる二人の兄たちが敬意を払うことももちろんなかった。
昼食の時間はカインにとって最も気の重い時間の一つだった。
広い食堂には壮年の厳格な雰囲気を纏った父ダリウス、逞しい体躯の長兄ライナス、そして怜悧な目つきの次兄ゲルハルトが席についていた。
カインが遠慮がちに入室しても誰も彼に視線を向けない。
それがこの家での彼の定位置だった。
「――父上、先日の騎士団の合同演習ですが」
「うむ、それで?」
ライナスが父へ得意げに報告を始める。
その隣でゲルハルトが時折的確な補足を入れる。
彼らはアルドレア家の未来を担う者として期待と注目を集めている。
その輪の中にカインが入る隙間はどこにもない。
用意された食事は豪勢だがカインの喉を通るものは少ない。
まるで空気のように扱われるこの空間で彼はただ息を潜め、早くこの時間が終わることだけを願っていた。
「……そういえばカイン、貴様また書庫に籠っていたのか? 少しは体を動かしたらどうだ。アルドレアの血が泣くぞ」
不意にライナスが嘲るような視線を向けてきた。
その言葉には弟への気遣いなど微塵もなくただただ侮蔑の色が滲んでいる。
「……申し訳ありません兄上」
「フン、役立たずめ」
吐き捨てるような言葉にカインは俯くしかなかった。
ゲルハルトはそんな兄と弟のやり取りを面白がるかのように薄い笑みを浮かべて眺めているだけだ。
父はまるで何も聞こえなかったかのように食事を続けている。
(僕は、この家にいない方がいいのかもしれない……)
そんな考えが何度もカインの心を過る。
しかし彼には行く場所も頼る人もいなかった。
唯一の心の支えは数年前に亡くなった優しい母の思い出だけだ。
食事を終え重い足取りで自室に戻ると扉の前で柔らかな声が彼を迎えた。
「カイン様、お戻りなさいませ」
温かみのあるブラウンの髪をサイドで結んだ同い年の少女。
侍女のリリアーナ・クレスメントだ。
没落貴族の娘である彼女は幼い頃からアルドレア家(特にカインの母)に世話になっており、母亡き後はカイン付きの侍女となっていた。
「ああ、リリアーナ」
「顔色があまり優れませんね……。少しお休みになりますか? 温かい薬湯をお持ちしました」
彼女の翠の瞳にはいつも心配の色が浮かんでいる。
カインにとってはこの屋敷で唯一心を許せる存在だった。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「……そうですか? 無理はなさらないでくださいね」
リリアーナは慣れた手つきで薬湯をカップに注ぐ。
ハーブの穏やかな香りがカインの強張った心を少しだけ解きほぐした。
「……母様はカイン様の優しいところが好きでしたよ。誰よりも本を読むのがお好きだったカイン様をいつも自慢に思っていました」
薬湯を差し出しながらリリアーナが不意に言った。
それはカインが母から直接聞いたことのない言葉だった。
「……母上が?」
「はい。『あの子の知識はいつかきっとアルドレアの、ううん、王国の宝になるわ』って」
リリアーナは亡き女主人の言葉を大切そうに繰り返した。
その言葉は乾いたカインの心にじんわりと染み込んでいく。
たとえそれが母の贔屓目であったとしても今のカインにとっては救いだった。
その日はカインの十五歳の誕生日だった。
しかしアルドレア家で彼の誕生日が祝われることはない。
父や兄たちにとっては存在しないも同然の日だ。
リリアーナだけがささやかな焼き菓子と「おめでとうございます」という言葉を贈ってくれた。
それだけで十分すぎるほどだった。
(十五歳か……これから僕はどうなるんだろう……)
貴族の子息としては進路を決めなければならない年齢だ。
兄たちは既に騎士団に入ったり騎士養成学院で優秀な成績を収めたりしている。
だがカインにはそのどちらの道も閉ざされているように思えた。
そんな諦念に沈んでいた午後、彼の部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「おいカイン! いつまで部屋に引きこもっている! 」
怒鳴り込んできたのは長兄のライナスだった。
その後ろには相変わらず皮肉っぽい笑みを浮かべたゲルハルトもいる。
「兄上……? 何か……」
「今日から貴様も訓練に参加しろ。父上の許可は得ている」
「え……? 訓練って……魔獣討伐のですか?」
カインの顔から血の気が引いた。
アルドレア家では定期的に領内の森で低級魔獣の討伐訓練を行っているが、病弱なカインはこれまで参加を免除されていた。
「そうだ。いつまでも甘ったれているな。少しはアルドレアの男としての自覚を持て! 」
ライナスは有無を言わさぬ口調で言い放つ。
「ですが僕の体では皆さんの足手まといに……」
「うるさい! 口答えするな! 」
ライナスがカインの胸倉を掴み上げようとしたその時。
「お待ちくださいライナス様! 」
リリアーナがカインを庇うように二人の間に割って入った。
普段は控えめな彼女だがその瞳には強い意志の光が宿っていた。
「カイン様の体調をご存じでしょう! 無理な訓練は命に関わります! 」
「なんだ侍女ふぜいが口を出すな! 」
ライナスはリリアーナを邪険に払い除けようとする。
「まあまあ兄上。リリアーナの言うことも分かります。ですが父上の命令ですからね。それにただ見学させるだけでも良い経験になるでしょう? 万が一の時は我々が守ってやりますよ……ね?」
ゲルハルトがなだめるように言いながらライナスに意味ありげな視線を送る。
その目は全く笑っていなかった。
彼らがカインを守る気など毛頭ないことは明らかだった。
「ちっ……行くぞカイン! 」
ライナスは吐き捨てるとカインの腕を掴み、強引に部屋から引きずり出した。
「カイン様! 」
リリアーナの悲鳴のような声が背後で響く。
カインはなすすべもなく兄たちに引き立てられるように屋敷の廊下を歩かされた。
窓から差し込む陽光がやけに眩しい。
これから自分に何が待ち受けているのか。
カインの胸にはただただ不吉な予感だけが渦巻いていた。
それは彼の運命を根底から覆す長い長い一日の始まりだった。