沈黙が、痛いほど重かった。
凛は何も言わず、ただそこにいる。
俺は便座を見つめたまま、呼吸だけが異様にうるさく感じた。
(……無理……こんなん、無理に決まってんだろ……)
頭では分かっているのに、体が拒絶する。
普段なら何気なく済ませることなのに、
「見られている」 ただそれだけで、こんなにも意識してしまう。
じわりと背中に汗が滲む。
今すぐここから逃げ出したいのに、足枷がそれを許さない。
「……出ない?」
不意に、凛の声が落ちる。
「っ……!」
その一言だけで、心臓が跳ねる。
顔を上げるのも嫌で、俺はただ唇を噛みしめた。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
「……っ」
その言葉が、逆にプレッシャーになる。
待たれている、見られている、監視されている。
それが分かるほど、余計に体が強張っていく。
「れーちゃん?」
優しく促す声。
それすら、もう耐えられなかった。
「……もう、いい……」
かすれた声で、それだけを言った。
もう、何も考えたくなかった。
服をなおす。ベルトはもうしなかった。
凛はしばらく俺を見つめたあと、微笑んだ。
「……そっか」
それだけ言って、俺の腕をそっと引いた。
「じゃあ、戻ろっか」
俺はただ、されるがままにベッドへと引き戻されるしかなかった。
「……ちくしょう……」
俺は歯を食いしばりながら、足枷のせいで歩幅の狭いまま、部屋へと戻された。
何も言わずに、ただ凛に手を引かれるまま。
「お疲れさま」
凛が穏やかに微笑みながら、俺をベッドへと押し戻す。
「頑張ったね」
優しい声が降る。
「頑張ったんじゃねぇ……」
皮肉を込めたつもりなのに、力のない声しか出なかった。
「ううん、ちゃんと偉かったよ」
そう言いながら、凛は俺の髪をゆっくりと撫でる。
「っ……触んな……!」
「ふふ、ごめんね」
微笑むくせに、まるで悪びれてない。
なのに、俺はもう 怒る気力すら湧かなくなっていた 。
(……なんだよ、これ……)
悔しいのに、怖いのに、何もできない。
さっきまで「絶対に逃げてやる」と思っていたのに、今はただ、シーツの感触を確かめることしかできなかった。
少しずつ、体力が落ちていく感覚。筋肉が抜けるような脱力感。
「疲れたよね。れーちゃん、休んでいいよ」
凛は優しく俺をベッドへ横たえ、毛布をかける。
「少し寝たら、楽になるよ」
(楽になんて、なるわけねぇだろ……)
目を閉じようとした瞬間、じわりと違和感が広がった。
(……あ……そうだ……)
まだ、トイレに行ってない。
尿意はある。けど――
(……いや、まだ……我慢できる……)
わざわざ、またあの地獄を味わいたくない。
『ここでできないなら、尿瓶?』
あの時の凛の言葉が脳裏にこびりつく。
(……絶対に、あんなの使わねぇ……)
でも、意識すればするほど、気になる。
けど、体はもう疲れ切っていた。
(……考えるのも、めんどくさ……)
我慢できないほどじゃない。なら、寝てしまえ――。
※
「れーちゃん、こっち!」
澄んだ声が響く。
俺は、幼い頃の自分の姿をしていた。
膝まである草むらをかき分けながら、無邪気に走る。
その先にいるのは、凛。
小さな手を振りながら、俺を待っていた。
「ほら、早く!」
「わかってるよ!」
息を切らしながら、俺は凛のもとへ駆け寄る。
そこは、昔よく遊んだうちの庭だった。
木陰に隠れたり、鬼ごっこをしたり――ただ、それだけのことで笑い合えた。
「ねえ、れーちゃんの夢ってなに?」
凛がふと、問いかける。
「夢?」
俺は考えた。
「んー……強いαになって、すげぇかっこいい俳優とか?」
子供の頃は、単純に憧れていた。
俺の家族は芸能関係者ばかりだったし、自然とそういう未来を思い描いていた。
「ふーん……」
凛は小さく笑う。
「でも、どこに行っても、れーちゃんはれーちゃんだよね」
「……?」
「僕も、一緒にいるから」
凛がそう言った瞬間、風が吹いた。
なぜか、少しだけ 胸の奥がざわめく。
(……なんだ?)
子供の頃の俺は、その違和感に気づけなかった。
でも、今なら分かる。
この言葉の 本当の意味 を。
「れーちゃん、ずっと一緒だよ」
風の音がやけに大きくなる。
世界がぼやけていく。
(……あれ……?)
視界が、滲む。
――そして、夢が終わる。