『‥‥‥』
里架子が家から帰った後、那々美は一人、部屋で考えていた。
屋上からプールに突き落としたのは、もしかしたらやりすぎたのかもしれない、風邪でも引かなければいいと思ったが、力をどう使えば風邪を防げるのか見当もつかず、部屋の窓からぼうっと夕闇迫る空を見上げていた。
『いけない』
そのうちに灰色かかった雲が、ぽつぽつと雨粒を落とし始める。那々美は廊下に走って出た。今日はお手伝いが休みを取っており、洗濯物を取り込む者が誰もいなかった。
『きゃあ!』
階段を駆け降り、玄関を開けた所で誰かにぶつかった。
『おっと!』
反動で尻餅をつきそうになった那々美は、腕を取られて支えられた。
『和也さん』
那々美は安堵のため息をついた。和也は兄の大学の先輩という事もあり、今まで何度もこの家に来ている。三人で遠出した事もあった。
『どうしたの、そんなに慌てて?』
『庭に洗濯物が干しっぱなしなんで‥和也さ んこそどうしたんです?』
『遥のおつかい。チャイム鳴らそうとしたん だけどね。話しは後だ、早く取り込もう』
『すみません』
夕立ちはすぐにやんだ。落ち着いた頃には、もう夕日が部屋を紅色に染めていた。遥の部屋で何かの書類を何かを探している和也に、那々美はトレイに珈琲をいれて持ってきた。
『捜し物は見つかりましたか?』
『だいたいね』
『じゃあ、一息入れましょう』
『悪いね』
和也は那々美の珈琲をうまそうにすする。『それで、理力の図形は覚えたかい?』
『そうですね。少しは‥‥‥』
那々美は杖を持ち、ぶづぶつと呪文を口にして、和也に見せた。突風が窓をガクガクと揺らした。
『凄いな、もう完璧じゃないか』
和也は心底関心している様だった。
『俺はいくらやっても駄目だった。どうも才能が無いらしい』
『でも、兄の話では思った以上の力は出せていないという事です』
昨夜もそれで何度も繰り返していた。兄の落胆する顔を見る度、那々美の顔は曇った。
『私は、人工物には力を働きかけられないみたいなんです。同時に複数の事も出来ないし』
『仕方ないさ』
和也はポケットから煙草を出し、火をつけた。
『しかしまさか、ここまで物凄い代物だとは な‥‥‥最初は全く、信じて無かったんだ が‥‥‥』
『大学にこれを見せれば、学会の兄への不信も解けるのに‥‥‥どうして、まだ黙っているんです?』
『見せても信じないからさ』
煙を吐き出す。
『教授連中は頭が固いからな。目の前でいくら実践して見せても、それが理屈に合わなければ、最初から認めたりはしない』
『でも、このままでは兄は大学を追われてしまいます』
『だからこの理力の研究を続けて、ちゃんとした論文にするんだよ。奴らにぐうの音も言 わせない様な。だから辛いだろうけど、那々美さん‥‥‥』
『‥‥分かってます。私も出来るだけの協力はしますから』
『‥‥心配するなって‥悪い様にはならない 何しろ俺達は魔法という強い力があるんだ から』
『‥‥‥魔法?』
『みたいなものだろ? まさにこれは』
和也は同意を求める様に片目をつぶった。
『‥‥‥』
那々美は黙ってうつむく。
『それで‥‥‥今日は、兄は‥‥‥家に帰っては来るんでしょうか?』
『そうだな、泊り‥‥‥だろうな。今日は遥 自身が実験してたみたいだし』
『兄さんが?』
『ああ。今日‥‥‥』
『‥‥‥』
和也は煙草の火を灰皿に擦り潰して消し、会話に少し間を置く。
『‥‥今日、ここに誰か連れて来なかったかい?』
『‥‥‥』
それが里架子の事を指している事はすぐに分かった。
『うん、学校の‥‥‥友達。どうして?』
友達と呼ぶには、まだ彼女の事を知らなすぎた。が、那々美は敢えてそう付け加えた。
『そのコはね、遥が理力の実験の為に呼び寄せたんだ』
『え?』
和也の口から漏れるその台詞が頭の中で何度もこだました。
『理力を使いこなす才能のある者を、その理 力を使って君に近付ける様に仕向けた‥‥ ‥らしいんだが‥‥‥』
『‥‥‥』
那々美は息を止めた。
隣の席が里架子だったのも、忘れ物をした彼女に話しかける事になったのも‥‥‥偶然と思っていた事は、偶然では無かったのでかもしれない。
つまり二人は、友人になるべく、運命をつくり変えられたのである。
力によって。
つまりこれは偽りの友情だったのだ。
『‥‥‥』
那々美は握った拳を震わせる。
『遥の冗談だと思ってたんだが‥‥那々美さんのその様子だと本当みたいだな‥‥‥信 じられないよ』
和也は驚いている‥‥‥と言うより、少し興奮している様だった。
『でも‥‥‥』
長い沈黙の後、那々美は口を開いた。
『でも、里架子‥‥‥彼女が理の力を使えると決まった訳じゃ‥‥本当に偶然かもしれ ないし』
『それを確かめる為にも、今度大学に連れて来たらどうだい?』
『‥そんな‥‥』
『本当かどうか確かめるべきだろう。駄目だったらそれでいいし、理力の才能があるなら、 遥の研究もはかどる。どっちに転んでも悪い事にはならないんじゃないかな』
『‥‥‥』
遥の為‥‥‥そう言われた那々美は、断るべき理由を見つけられなかった。
火災現場に群がる人々を尻目に、里架子とちひろの二人は、悠々とその場を後にした。
入った五十階建ての建物は、里架子の住むマンションである。狭いエレベーターの数字が三十三を示し、開いた扉のその廊下の先に、里架子の部屋があった。
廊下にはルームナンバーだけが違う同じ扉が無数に並んでいる。
一つの扉の前に立った里架子は、制服の胸ポケットからカードを出して、ナンバーの下の隙間にサっと通した。ピっと小さな電子音が鳴って開く。同時についた照明が、玄関を淡い光で照らした。
「狭い所だけど、入ってよ」
里架子が先に中に入る。
「お邪魔します」
少しおどおどしながら、ちひろが後に続いた。
足元に何か小さなものが現われた。
「あ、猫だ!」
黒い子猫は、ちひろの足に頭を擦り寄せ、みゃーと鳴いた。
「かわいー!」
ちひろは猫を抱き上げる。
「このコ、名前なんていうんですか?」
「‥‥チェリオ」
冷蔵庫を開けながら里架子は答えた。居間のソファーに腰掛けたちひろに、里架子は缶コーラを渡した。
「すみません、先輩」
「自炊しないから、何もないけどね」
部屋着のスウェットに着替えた里架子は、
猫をあやしているちひろの正面に座った。
「先輩‥‥‥やっぱり、先輩は魔法使いだから、黒猫を飼ってるんですか?」
「そんなんじゃなくて‥‥‥何となくね」
缶ジュースの栓を開ける。シューという炭酸の抜ける音は、雨音を連想させられた。
『これ使って』
『‥‥ありがと』
那々美に渡されたタオルで髪を拭く。濡れた制服は乾燥機に入れられている。小一時間もせずに、きちっとアイロンをかけられ出てくる。それまでしばしの時を里架子は那々美の家で過ごす事になった。
『雨、降ってきたみたい』
『じゃ、それまで』
吹き抜けになっている居間に、里架子の声が響いていく。
『‥‥‥それでね、遠足の日の前の日ってね、 ほら、なかなか寝付けないじゃない』
『うん』
『四時過ぎまで頑張ってたんだけど、結局朝まで眠れなくてさ』
『それでも行ったの?』
『もちろん!』
里架子は他愛もない話を、延々と喋り続けた。那々美はただ首肯いて聞いていただけである。
一時間は瞬く間に過ぎた。
『何か‥‥‥私、一人喋ってたみたいね』
『ううん』
きちんと畳まれた服を渡される。
『ね、一人暮らししてる訳じゃないんでしょ』
『うーん、お父さんもお母さんも仕事が忙しいらしくて、ほとんど帰って来ないから、二人暮らしみたいなものかな』
『お兄さん、学院生なんだって? へえ、かっこいいんだ』
写真立てを持った里架子がそう言うと、
『そんな事ないよ』
那々美は困った様に笑ったが、まんざらでも無い様だった。
『そろそろ、帰って来るんだ?』
『ううん、最近、帰りは遅いから‥‥‥』
『やっぱりその魔法の研究で忙しいんだね』
『‥‥たぶん‥』
那々美の表情が曇った。里架子はその訳が分からなかった。
『私にも、魔法教えてくれない?』
『え?‥‥‥でも‥‥憶えなくちゃならない 事が一杯あって、難しいと思うし‥‥‥』
『そうなの』
がっかりして、ドサっとソファーに腰をおろした。
『じゃあ‥‥‥ちょっとだけでいいからさ‥ ‥‥駄目?』
『んー‥‥』
那々美は人差し指をあごに当てて、上目遣いになって考えている様だった。
『ちょっと‥‥‥だけなら』
『やった!』
那々美の手を取って飛び上がって喜んだ。
『‥‥運命を変えて奇跡を起こす‥‥‥それって凄い、興味があるの』
『‥‥どうして?』
『どうしてって‥‥‥よく分かんないけどさ‥‥‥やっぱり不幸だったからじゃないか な‥‥‥』
『不幸‥‥‥だから?』
『だから運命を変えたいっていつも思ってた。一人で頑張ってきたけど、やっぱりどうし 様もない事で、諦めてた‥‥気持ちが後向きになってたんだ。だけど、その力があればどんな事だって出来る‥‥‥前向きにね』
『何でも‥‥‥前向きに出来る』
那々美は里架子の言葉を繰り返した。
『そうかも‥‥‥うん、そうね』
里架子の手を強く握り返した。
『お兄ちゃんの話だと、私もまだまだなの‥ ‥だから二人で、勉強していこう』
『そうそう、その意気!』
握り合った手を上下に振りながら、二人は声を出して笑った。
雨はとっくに止んでいた。