「‥‥これで‥‥‥死ぬのか‥‥‥」
父に必要とされなくなってからの日々を思い出し、床を見つめながらまた同じ台詞を繰り返した。
ミシ‥‥‥と、金属が捻れる音の後、床が更に大きく傾いた。ちひろは出入口に転がって背中からぶつかる。
「‥‥‥う」
反動で閉じていた扉に隙間が出来た。ライトは完全に消え、隙間からの青色の光が、月光の様に中へと差し込んでくる。
「‥‥‥」
ちひろは反射的に手を伸ばした。手をかけて少し力を入れると、思っていたより簡単に開いた。
「‥‥私‥‥‥何してるんだろ‥‥‥」
何とか一人分の隙間が出来た。エレベーターの箱そのものは、階の途中で止まっており、上の階の床が少し上に見えた。背伸びして手をかける。
「‥‥む‥‥‥く‥‥」
運良く、廊下に続く扉は開いていた。懸垂して足を途中の出っ張りに引っ掛ける。這い出る様に廊下へと出た。
その途端、今まで止まっていたエレベーターが、落下した。
「‥‥‥」
隙間から流れてくる風、少し遅れて衝突の際の激しい音が伝わってくる。ちひろはぼうっとその埃混じりの風に身をさらしていた。
「まだ‥‥‥私‥‥‥生きてるじゃない‥‥ あ、そうか‥‥‥」
来る様にと言われた場所は屋上である。ここで死ぬ運命ではなかったという事を悟ったちひろは、上への階段を探した。
向かい合った里架子と那々美、二人の瞳に互いの姿は写ってはいない。心の内にあるのは、無数の幾何学模様だけである。
「我は確率を極めし者‥‥‥」
那々美と里架子は、同時に同じ台詞を口にした。そしてその後、各々、似て非なる言葉が後に続けられた。
「我の喜びは、汝の喜びと共にある。現われよ! そしてこの那々美の力となれ!」
童話の中の林檎を売る魔法使いさながらの格好をした、黒い服の那々美は、両手でロッドを水平にかざす。
”UOOOOOOOO!”
杖から滲み出た、黒い煙の様なものは、すぐに足の無い人型へと形を整えた。のっほぺらぼうの顔、そして両手の鎌が特徴的である。
妖怪の様に見えるそれは、那々美の強い意志を、規定の思考法によって、時空に模したものである。
”KIAAAAAAAA!”
妖怪はすぐに里架子へと襲いかかった。鋭い腕を振り上げて突進していく。
「なにそれ!」
サンタクロースの帽子をかぶった、真っ赤な衣裳の魔法使い‥‥‥里架子は、那々美の創った妖怪を鼻で嗤った。
「過去に存在し、現在に在り、未来において 留まるものよ!」
指を二本、突き立て、ゆっくりと宙に大きな円を描く。
意識を集中させる為の呪文を唱えている短い間、里架子の心の中には、様々な図形が浮かび、繋がっている。それは、どんな鮮やかなコンピューターグラフィクよりもくっくりと‥‥‥図形の一つが欠けても、奇跡は現実のものとはならない。
”KEKEKE”
”GIHIHIHI”
”GUGU‥‥”
「え?」
里架子の出した妖怪に、那々美は思わず意識の集中が途切れそうになった。
例えるなら三つ首の巨大な蛇である。大きさは優に五メートルを越えている。
”OOOOOOOO!”
那々美の鎌イタチは、間に立ちふさがった蛇へと目標を変えて斬り付けた。が、蛇は動じる事なく、眼下の小さな妖怪を見下す。
二本の首がそれぞれ足と頭をとらえて噛み付いた。
「‥‥く‥」
考える図形のパターンの変更を余技なくされた那々美の表情が曇る。予め、幾つかは変化した図形を覚えてはいたが、それでも、絶えず変化し続ける状況に合わせて、最も適切なものを選ぶ事び出し、尚且つ、強い精神力を持って心に描き続ける事は、想像を絶する忍耐力を要した。
「‥里架子‥‥」
鎌イタチの鎌が一本の蛇の首を切り落とした。
”KISYAAAAAAA!”
たまらず、蛇はのたうつ。自由になった鎌イタチは、更に攻撃を繰り出す。体を引き裂かれ、大蛇は残った二本の首を振り回した。
”GI!”
給水タンクが大きく凹み、水が勢い良く吹き出す。
水のベール越しに、里架子はあごを引いて、近づいてくる那々美の妖怪を睨む。
「‥‥我は確率を極めし者‥‥‥全ての確率 は、我、里架子の望みのままにある。我、 守護の聖騎士、欲すなり!」
”UOOOOOOOO!”
襲いかかった鎌イタチは、里架子の三メートル程手前の正面で、電撃に見舞われた。折れた鉄塔の先にあった電線が、給水タンクの水に触れて放電したものである。結果的にそれは里架子を守る盾となった。
妖怪は消滅した。
「‥‥我は里架子‥‥‥全ての力‥‥‥我が元にある‥‥‥その力‥‥」
「‥‥‥」
聞き慣れない呪文に、那々美は体を強ばらせた。
「‥‥里架‥‥‥子‥」
「我、久遠の絆、断たんと欲す!」
空の暗雲が渦巻く、低気圧の雲が限界を越えて降下してきた。
「那々美さん!」
和也が那々美に飛び掛かった。直後、円錐状になった雲の底辺から稲妻の光が走った。
「‥‥‥光‥‥‥何の?」
屋上への非常口から丁度、ちひろが出てきた。白い輝きの眩しさに腕で顔を覆う。
那々美はその突然の来訪者に、息を飲む。
彼女こそ、里架子の仕掛けによって死すべき人間だった事が分かった。
「いけない!」
衝撃に、足元が崩れているのを見付け、すぐに手を差し伸べたが、
「駄目だ!」
和也に後ろから肩をつかまれ、止められる。屋上に走り続けるヒビは、足元に大きな隙間を開けていた。
「‥‥落ちる?」
フェンスは熱で飴の様に折れ曲がり、その役目を果たしてはいない。ちひろの立つ、小さなブロックごと、二百階下へと落ちようとしていた。
「!」
拳程の大きさの塊が落ちていった。ちひろは手摺りに掴まり、両足は宙吊りになっている。
「‥‥‥」
万歳の状態のまま、ちひろは下を見た。
ビルとビルとの間を走る道路が、細い緑色の光の糸の様に見えた。正面にある少し低めのビルの屋上にいる人々が、何か叫んでいたが、風の音にかき消され、何も分からなかった。ちひろは、少し顔をあげて横を見る。黒いビルに等間隔で、窓の光が並んでいるのが、星に似ていると思っただけで、それ以上の感慨は何も持てなかった。
「そうか‥‥‥‥手を離したら‥‥落ちて‥‥‥それで終わるのか‥‥‥」
墜落死という現実が迫っているといのに、妙に冷めた気分でいられる自分が、少しおかしく思った。
”何がそんなにおかしいのよ”
「‥‥‥」
顔をあげる。そこには赤い服の魔法使いが立って見下ろしていた。風にはためく赤いマントの下に、同じ高校の制服が見える。
「‥‥‥里架子‥‥先輩‥」
手は既に痺れており、いつ放してもおかしくはない。
「あなた馬鹿じゃない? 死ぬのよ。死ぬって事はなんにも無くなるのよ。それなのに、 どうして笑える訳よ! 信じらんない!」
「‥‥私は‥‥‥」
目が潤んでくる。悲しい訳でもないのに、どうして涙が浮かんでくるのか、ちひろ自身にも分からなかった。
「‥‥私は‥‥‥もう‥‥‥生きてる意味が‥‥いる意味が‥‥‥無いから‥‥誰にも ‥私はいらない存在だから‥‥‥‥」
「だから、死んでみて、生きるって事を確認したいって事?」
その言葉を聞いた里架子は、込み上げてくる怒りを止める事が出来なかった。
「信じられない! 私は、命を取り戻そうと、こんなに必死になってるのに‥‥‥こんな に簡単に手放そうとする人がいるなんて!」
遠目に聞いていた那々美は、その言葉に首を傾げた。
「‥‥命を‥‥取り戻す?」
里架子の真の目的は、恐らくはその辺にあるに違いなかった。
「‥‥‥一体、どういう‥‥‥」
問う様に和也に顔を向けたが、和也も首を横に振っただけだった。
そうしている間にも、ちひろの手は少しずつ離れていく。
「教えて‥‥‥ください‥‥‥里架子‥‥‥先輩‥‥‥」
掴まっているのも、そろそろ限界の様だった。
「‥‥先輩は‥‥‥何の為に‥‥‥生きているんです‥‥‥か?‥‥‥誰の‥‥為‥‥」
掴んでいた端が崩れ、コンクリの欠けらが落ちていった。ちひろは片手でぶらさがる。
「誰の人生でもない‥‥‥自分の人生だから‥‥‥私は私の為に生きている‥‥‥だからあなたみたいに人の為に何かをしていないと駄目な人間‥‥‥許せない‥‥その人 に必要とされなくなったからって‥‥安易に死のうとする人も‥」
里架子は穏やかな口調でそれだけ呟く。
「‥‥‥あなたは、自分という人間を自分で 実感していないだけよ。確かにあなたという命はここにあるんだから‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥思い出させてあげようか?」
里架子はニコと笑った。
「‥‥‥」
その屈託の無い笑顔に、ちひろは知らずに首肯いていた。
その瞬間、最後の指が離れた。
見ていた那々美達は驚きの声をあげた。
「あ‥‥‥あぁぁぁぁ!」
ちひろは悲鳴をあげる。手を伸ばしたその先に里架子が見えたが、みるみる小さくなっていく。
「‥‥ぁぁぁぁあ‥」
ちひろは目を閉じた。悲鳴も途中で止まる。
「‥‥安易に‥私は‥‥死ぬの?」
呟きが口から漏れた。大きな後悔が、津波となって心の中を満たした。
「い‥‥‥」
嫌‥‥‥と叫びそうになったその時、
「え?」
息もつけない程の強風が下から吹き上がってきた。衣服が全て飛ばされそうだった。それから数十メートル程落下すると、落ちる速度は次第にゆっくりしたものになってくる。やがてちひろは宙で静止した。落ちたビルの中程‥‥‥百階ぐらいの所だった。
”突発性乱気流‥‥‥って奴に助けられたみたいね。凄い偶然でしょ”
「‥‥‥」
腕組みした里架子が、赤いマントを風にバタつかせながら笑って降りてくる。
「‥‥‥里架子先輩」
同じ位置まできた時、里架子の降下は止まった。
「ね、恐かったでしょ‥‥‥でも、やっと分かった様ね。自分で死ぬのは、卑怯だって事が‥‥」
「‥‥‥」
二人は次第に高度を下げていく。
「自分の為にも‥‥‥生きないとね」
「‥‥‥はい」
里架子は笑いかけながら、昔、那々美に突き落とされた事を思い出していた。
『‥‥‥きゃあああああ‥‥‥!』
落ちる直前、プールの水が噴水よりも高く吹き上がり、里架子達の二人の体を優しく受けとめた。そのままプールに落ちる。
『う‥‥‥!』
『‥‥‥』
二人はまだ波打つ水面から同時に顔を出した。
逆光に、水しぶきが虹をつくっている。
庭の方では、大きな犬が驚いて吠え続けていた。
『ど、どうなったの?』
訳の分からない里架子は、隣に浮かんでいる那々美に聞いた。
『‥‥‥パイプが壊れて破裂したみたい。凄い偶然でしょ』
『‥‥でも‥』
もし、その偶然がなかったら‥‥‥そう考えた里架子は顔を青ざめさせた。
『もしかして‥‥‥これが‥‥‥魔法なの?』
『そう。凄いでしょ』
那々美は笑っている。そんな姿を見てるうちに段々と腹が立ってきたが、
『‥‥‥少しは元気でた?』
『え?』
突然、そんな事を聞かれ、里架子はきょとんとなる。
『ごめんね、何か、落ち込んでたみたいだったから‥‥よかったら、私に話して‥‥‥‥力になれるかもしれないから』
『‥‥‥』
気づくと腹立ちは何処かへ消えていた。心地よさだけが心に満ちている。
『これって魔法?』
『え?‥‥‥わっ!』
里架子は手で水をすくって那々美にかけた。
『冷たい!』
那々美も笑って返してきた。
水遊びをするには時期が早かったのか、翌日、二人はそろって風邪をひいて学校を休んだ。
「‥‥友達‥‥‥か‥‥」
ちひろと里架子はふわりと下へと降り立つ。上から落ちた灰色の瓦礫が、所々に残っている。
「‥‥‥」
里架子は真下から、黒く聳え立つビルを見上げた。今頃は那々美達も逃げているはずである。それを里架子も望んでいた。
「先輩‥‥‥私‥‥‥」
「こっち!」
泣きそうなちひろの手を取り、里架子はすぐに物陰に走った。すぐにサイレンの音が遠くから聞こえてくる。
「私‥‥‥」
「‥‥‥」
震えるちひろの頭に手を乗せ、消防士と警察をやり過ごす。
完全に足音が消えた後、里架子はふうと、大きなため息をついた。
「‥‥私‥私も、里架子さんの様に、強くなりたい‥‥」
「‥‥‥」
「だから、もう死にたいなんて思いません」
「それが得策かもね」
里架子はぶっきらぼうに答える。強い人‥‥‥と呼ばれる事に違和感を感じていた。
「迷惑をおかけしてすみませんでした」
ちひろは小さく頭をさげる。
「‥‥‥元気でた?」
昔、那々美に言われたままの台詞をそのままちひろにかける。
「はい」
ちひろは、初めて笑顔を見せた。
「‥‥‥これも魔法の力‥‥なの? 那々美」
「え?」
「ううん、何でもない」
自分でも気づかぬうちに、里架子も微笑んでいた。