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第四話  運命だって必然の連続にすぎないじゃない



「あの時はまさかと思っていたが‥‥‥」

 和也は胸ポケットから煙草の箱を出し、振って一本だけ出して口にくわえ、火をつける。「兄の発見したものは、妄想じゃなかった‥‥‥」

「方程式化された図形を思うだけで、どんな 怪物も思いのまま‥‥か‥」

 和也は那々美の言葉尻をとって続ける。

 思考する事で、脳内の原子核によって生じる空間の屈折が鍵となり、活性化した電子や原子の運動が、エーテル的な周囲の時空の運動に影響を与えて奇跡は具現される‥‥‥要約すれば、そういう事になる。

「‥‥‥学会に発表すれば、大騒動になっていただろうな‥‥‥魔法使いになれるんだ から。那々美さんという証人もいる事だし‥‥‥」

「‥‥‥」

 和也の言葉に、那々美は悲しげな表情を浮かべて顔を伏せた。

「兄は本当に、その力を使ったのでしょうか」

「ああ、その場に俺はいた。遥はその力を使って、里架子という少女を見つけ出した」

「‥‥‥」

 那々美は何も答えなかった。

 高校に入学した那々美は、最初の授業で里架子と会った。

 たまたま隣になった、片側だけを紐リボンで結んだ頭のコは、鞄をひっかきまわして何かを探していた。

『‥‥‥』

 那々美はしばらく黙って横目で眺めていた。普段であれば、そのまま黙って先生の話に耳を傾けていたであろう。が、その日は、遥の実験に遅くまで付き合っていたせいで、頭が少しぼんやりとしていた。

『どうかしたの?』

 声をかけたのは、はずみだった。言ってしまった直後、那々美はすぐに後悔した。

『うん、ちょっと筆記用具忘れちゃってね』

『‥‥‥』

 そのコは笑ってそう言った。那々美の小さな後悔は大きな驚きに変わった。

 積極的に人に話しかけるのが、何より苦手であり。それゆえ、冷たい人と誤解される事がしばしばあった。それに、親が政界に顔の聞く有名人であった為、同級生達からはいつも敬遠され、敢えて近づいてくる人もいなかった。笑顔で返されるのはあまりない経験である。

『じゃ、私の貸してあげる』

 ほとんど反射的に鉛筆を差し出していた。小さなカンペンケースの中には、ノック式のシャープペンも入ってはいたが、選んでいる心の余裕が無かった。

『えーっと、ありがとね』

 受け取った彼女は、とても嬉しそうに見えた。

 気を取り直して授業に集中する。時々、こっちの様子を伺っている事に気づき、どうしてだろうとしばらくその訳を考えていた。

『‥‥この人も、淋しいのかな‥‥』

 聞こえない程の小さな声で呟く。

『なに?』 

 最初の友達になれるかもしれない‥‥‥そう思った那々美はおもいきって聞いてみた。『え、うん、あなたの名前、思い出せなくって‥‥‥何だっけ?』

 尋ねられ、那々美は内心、とても嬉しかった。

『那々美‥‥‥白倉那々美‥‥‥あなたは?』

『渡瀬里架子‥‥』

 出されたその手をしばらく見つめる。握手という人の肌に直に触れる行為に那々美はためらった。

『‥‥よろしく‥』

 那々美は出されたその手を無視して笑っただけだった。





「‥‥‥とにかく」

「‥‥‥」

 和也の声に、ハっと我に返った。

「里架子さんの目的が、街の破滅と決まった 訳じゃないんだ。迂闊な事はしない方がい い」

「では里架子は何をしているのでしょう? 大規模な奇跡を起こす為のあの仕掛けは‥‥何の為に‥‥」

「‥‥さあな‥」

 和也は目を細める。

「どうして那々美さんは、彼女がそれほど危険な事をしようとしてると思うんだ?」

「‥‥‥」

 だが、那々美はそれきり黙り込んでしまった。





 駅のホームにベルが鳴り響き、それからしばらくして流線形の先頭車両がゆっくりと滑り込んでくる。扉が開いた途端、それまで二列で待っていた人々は、先を争う様に中へと傾れ込んでいく。朝の都心なら、何処にでも見られるありふれた光景であった。

「‥‥‥」

 人の波に背中を押された小柄な少女‥‥‥ちひろは、落としそうになった鞄を慌てて胸にギュっと抱える。狭い車内に押し込まれた後、またベルが鳴り、ガタンという振動の後、ゆっくり動きだす。見えているのはサラリーマンの背広の背中だけであり、これから幾つかの駅に止まる度に外に押し出され、また中へと戻る‥‥‥学校にある駅に着くまでの間、それを繰り返さなければなければならない。

「‥‥‥あれは‥‥‥夢?」

 定期的な揺れの中に身を任せる。息苦しい空間ではあったが、今ではそんな事はどうでもよくなってしまっていた。

 始発駅から乗り込んでいるらしい、椅子に座っている中年のサラリーマンの持ってる新聞の写真に目がいった。そこの見出しには、昨夜の火事が大きくとりあげられている様だった。

「ううん、夢じゃない‥‥」

『‥‥‥あと一週間以内に、あなたには逃れられない死が訪れる‥‥‥』 

「‥‥‥」

 ちひろは、寒気を感じて自分で自分の両肩を抱き締めた。それは死に対する悪寒ではなかった。

 鞄の落ちる音と同時にガダと下から大きな音が響き、直後、電車は急停止した。乗っていた乗客のほぼ全員はその場に倒れこんだ。

「‥‥う‥」

 特に怪我もなく、ちひろは立ち上がる。

 ”ご乗車中のお客様に連絡致します”

 皆は流れてきたアナウンスに耳を傾ける。”ただ今、通過中の踏み切りにおいて、人身 事故が発生致しました。たいへんご迷惑を おかけ致します。五分少々お待ちください”

 終わると同時にざわざわという声が辺りに広まる。

 ”‥‥どうせ飛込みだろ?”

 ”‥‥‥ったく、迷惑なんだよな。急いでんのにさ‥‥”

「‥‥‥飛込み‥‥‥」

 足元から伝わってきたゴリ‥‥‥というリアルな振動を思い出す。

『‥‥逃れられない死が訪れる‥‥‥』

「‥‥‥」 

 その時、初めて『死』を実感した。





「‥‥昨夜はとんだ邪魔が入ったけど‥‥‥」 

 里架子は、広げていたノートを荒っぽく閉じた。棚には古ぼけた本が並んでいる。離れた四人がけのテーブルには、同じガラの女子校の制服を着た三人の女の子達が、図書館の中にしては大きな声で喋っている。

「‥‥‥」

 頬杖をついた里架子は、窓へと顔を向ける。自然と表情がほころんできた。放課後の図書館はお気にいりの場所だった。

「ま、大体は予定通りね」

 鞄の中から、ノートを取り出す。広げてみれば、そこには、意味不明な無数の図形の走り書きがあった。注釈らしきものも書いてはある様だったが、その字はかなりの癖字で、やはりパっと見だけでは何の事かは分からない。

 それは遥の残した記録の一部を、里架子がノートに書き写したものである。平面的なこれらの図の元のほとんどは三次元的な立体図形であった。遥が残したのもパソコンのデータとしてである。これらの立体図を強く思えば、魔法に似た奇跡を起こす事が出来る。が、その為には、その複雑な図をわずかな違いもなく、覚える事が前提となる。それに、その立体図は、一つだけでは何も為さないものが多く、様々な状況の下、複数の図を想像する事で初めて力を発揮出来るものがほとんどであった。

 全てを覚える事は至難と言わざるをえなかった。

「‥‥確立‥‥奇跡‥‥‥フフ」

 こんな事をまじめにやっている自分が、何だか滑稽に思えた里架子は、知らずに笑みを浮かべていた。

「確かに人生なんて偶然の連続みたいなもんだから‥‥」

 あの時、こうしていたら‥‥‥していなかったら‥‥していたら‥‥‥思い返してみれば、些細な事でその後の展開が全く変わってしまったという事の何と多い事だろうと、里架子は改めて人の人生の数奇さを思わずにはいられなかった。

「‥‥‥遥に会わなかったら、私がこんな事をしている事はなかった訳だし‥‥‥でも、 遥が那々美の兄さんじゃなかったら、それも無かった‥‥‥その前に‥‥‥那々美が私の隣の席にならなかったら‥‥‥」

 そこまで記憶を辿ってきて、里架子の顔が曇った。

「‥‥‥お姉ちゃんが‥‥あの時‥」





 ”里架子‥‥‥起きなさい”

『‥‥う‥‥‥ん‥』

 旅行から帰ってきたその日の翌朝、里架子は母親の声で起こされた。

『‥‥‥お母さん、今、何時ー?』

『‥十二時‥‥半ぐらい』

 今から思えば、考、その時の母親の口調は少し変だった。が、起きがけで頭がまだぼーうっとしていた事もあり、その時の里架子はそんな事に気づきもしなかった。

『一時‥‥‥』

 里架子は布団の中に顔をうづめながら、何度か呟く。

『‥‥‥』

 思い出して、布団を跳ね退けた。

『‥‥お姉ちゃんは?』 

 起きて、着替えようとしたが、

『そ、それがね‥‥‥里架子‥‥‥‥‥』

『‥‥‥?』

 いつもはっきりとものを言う母親が、いつになく口ごもっている。里架子は首を傾げた。『どうしたの?』

『‥‥‥飛行機が‥‥‥落ちたの』

『え?』

 最初、里架子はその意味が分からなかった。

『さっき連絡があったの。乗ってた飛行機が 墜落して‥‥‥全員絶望だって‥‥だから ‥‥‥お父さんも‥‥‥‥』

『‥‥嘘‥』

『今、ニュースでやってるから‥‥‥』

『‥‥‥』

 里架子はすぐに居間に走った。既に壁かけ式のテレビはついており、五十インチの画面一杯に墜落現場の映像が流れている。丁度、犠牲者となった名前の一覧が出てきた所だった。

 国民番号の八桁の数字と記号の後に一人ずつ名前が浮かび上がった。

 その中のに‥‥‥。

『‥‥A341363U‥‥‥渡瀬善彦‥‥ ‥E382345U‥‥‥渡瀬‥‥‥野絵 実‥‥‥』

 父と姉の名がそこにあった。

 現実感がまるで無い。悲しいという気持ちはなく、虚無だけが心を満たしている。涙は全く浮かんでこなかった。

『嘘‥‥‥嘘に決まってる‥‥‥』

 その場にはいられなくなり、家から飛び出した。何処をどう走ったのか、目の前には百段以上ある石階段があった。

『‥‥‥くっ』

 一息で駆けあがる。膝に手を乗せ、肩で息をついた後、顔を上げるとそこには小さな公園があった。

『はあはあ』

 午後の公園は誰もおらず、聞こえてくるのは風と噴水の水音しか聞こえてこない。

 ゆっくりと歩き、噴水の縁に座る。水面に写った顔は、自分で考えていたより、沈んでいた。

 =もう、妹なんていらない=

『‥‥あの時‥』

 別の便に乗っていたら‥‥‥旅行しようなんて言わなかったら‥‥‥。喧嘩してなかったら‥‥‥様々な可能性が頭の中に浮かんでくる。飛行機事故に遭遇したのは、多くの偶然が重なった結果である。どれか一つの要素が欠けても、彼女はこの場にいたはずである。

『‥‥‥これが運命って‥‥‥事?』

 里架子は静かに歌い始める。

 姉がよく口ずさんでいたラブソング‥‥一つ年上の先輩に姉が憧れていた事を知っていたが、結局、歌の内容の様に、気持ちを伝える様な事はしなかった。

『‥‥‥』

 里架子は歌い続けた。

 そうする事で姉が側にいる様な、そんな気がしてきた。

 怪しくなっていた空がとうとう泣き始めた。水面に雨粒が落ちて波紋を広げる。


 その幾つかの輪の中に、涙がいくつか混じった。


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