「まーた那々美なの?」
問いに答える様に、強い風が里架子の死神の衣の裾を揺らした。
「‥‥しつこいわね‥」
態勢を低く変え、右左に素早く視線を走らせ身構えた。
”KISYAAAAAA!”
「!」
それは突然現われた。
月影に浮かび上がったその影は、足場の一つを壊した。
「くっ!」
頭上に降ってきた折れ曲がった鉄骨の欠片を素早いステップで避ける。立っていた地面が鉄骨の重さで揺れ、里架子は避けた先で転びそうになった。
「?‥‥那々美‥‥‥の創った妖怪じゃないみたいね」
バランスを保ちながら、ゆっくりと上体を起こす。
その影は、牛に爬虫類の翼と不釣り合いな程に長い尻尾‥‥‥という悪魔にも似た奇妙な姿だった。さっきのとは違い、輪郭がはっきりしてはおらず、黒っぽい色がといついていた。
「まさか自然発生したとか?‥‥‥まさかね」
指を立てて睨む。
「どっちにしても、せっかく作った場を壊されるのはごめんだわ!」
”OOOOOOOO!”
影が口をあけ、咆哮を発した。すぐに里架子は腕を振り、早口で呪文を口にする。大地がひび割れ、吹き出した水道管の水しぶきが、その衝撃波を遮った。
「我は確率を極めし者‥‥‥全ての確率は、我、里架子の望みのままにある‥‥‥」
呟きながら、腕を大きく円を描く様に動かす。目は、タイルを割りながら近づいてくる影から離さない。
「‥‥‥我、久遠の絆を断つべく、汝を討つ」
地下を走っていたガス管のネジは、影の歩いた衝撃で緩み、外れた。影を囲む様にガスが下から吹き出す。チカ‥‥‥と、小さな火花が散った瞬間、巨大な炎が天を焦がす勢いで現われた。
”GUOOOOOOOOO!”
言葉の通り、影は炎の剣に貫かれ、火だるまとなる。赤い炎の照り返しを受け、束の間、里架子の漆黒の外套も同じ色に染まる。
「‥‥誰にも私の邪魔させないんだから‥‥」
見つめる瞳の中にも揺れる炎が映っていた。
「‥‥‥」
完全に火が消え去る前に、里架子はやや大げさな仕草でマントを翻し、件の炎に背を向けて歩きだす。
建築中のマンション、深夜の火災‥‥‥恐らくは明日の新聞にその様に報道されるだろう。そして、調査の結果、分かる事は、全て、偶然の積み重ねから起こった災害という事になる。それはある意味、正しい見方である。妖怪が原因とは誰一人知る由もない‥‥‥はずだった。
「‥‥‥」
上から人の叫び声が聞こえ、里架子は足を止めて空を見上げた。
「‥‥‥あんな所に‥‥‥」
若い女の声だった。里架子を見つけた様で、何かを叫んでいる。
「‥‥面倒だけど、仕方ないかな‥」
数分を経ずして、騒ぎを聞き付けた警察や、消防がかけつける。ぐずくずしている暇は無かったが、それでも目撃者をこのままにしておく事は出来なかった。
「‥‥はあはあ‥」
真下で起こった爆発の振動で細い足場から滑り落ちそうになった高校の制服を着た少女は、すぐに近くの突起物に手をかけた。が、その鉄パイプはグラと揺れ、落ちて真下の暗闇の中へと吸い込まれていった。それでも少女は落下だけは免れる。静かになってからまた上へと続く足場を進みだした。
「‥‥あれは‥‥‥幻?」
悪魔を魔法によって倒した深紅のマントを羽織り、先にぼんぼんのついた帽子をかぶった死神‥‥‥その一挙一動までもがしっかりと目に焼き付いておきながらも、それがとても現実に起こったものとは思えなかった。
少女がこの工事現場に足を踏み入れたのは、上から飛び降りる為だった。命を断たんと決意しておきながら、たった今、目にした光景を思い出しただけで足の震えが止まらなかった。
「‥‥この世に本当に‥悪魔が‥‥」
鉄板の上を、一歩一歩硬い音を響かせながら登っていく。天辺まであと少しだった。
最後の登りの板を渡ると、白い布ばりの隙間から星が見えた。
『‥‥‥それじゃ、ちひろも大変だろう‥‥‥もう無理をする必要はないんだ』
『‥‥‥お前が心配する事じゃない。ここは、彰人が立派に継いでくれる』
『‥‥留学でもするか? ノルウェー辺りは、のんびりしていていい気候だぞ』
「‥‥‥」
最後の足場に足を一歩、乗せた。眼下には闇がただ広がっているだけである。何も見えない。
「‥‥私は‥」
ちひろは目を閉じた。
重力に引かれるまま、体を前に倒そうとしたその時、
”どうするつもりなの?”
「!」
後ろから女の声が響き、はっと体に力を入れた。
「‥‥‥」
息を止めてゆっくりと振り向く。
”‥‥‥飛び降りて‥‥それでどうするつもり?”
そこにいたのは、つい今し方まで、遥か下方にいた赤いマントの人物だった。
「‥‥魔法使い‥」
赤い外套の隙間から、高校の制服が覗いた。それが自分と同じものである事で更に驚きが増し、少しだけ目を見開く。
「あなたは‥‥‥誰なの?‥‥‥悪魔?」
「はー? 悪魔? それって違うと思うけどなー」
帽子の淵に指をかけて顔を見せた。それは普通の人間にしか見えなかった。
「‥‥私はもう生きていたくないの‥‥‥こんな‥‥だから止めても‥」
「別に止めに来た訳じゃないわ。死にたいな らどーぞご自由に」
悪魔の装束の少女‥‥‥里架子はいらいらと腕組みした先で指を上下させる。
「だけどその前に一つたけ聞きたいんだけど ‥‥例えばさ、人が死んだらどうなるかっ て、考えた事ある?」
「人が‥‥‥死んだら‥‥‥」
まさにそれは今、直面しようとしている事だった。
「‥‥それは‥‥‥分からない‥‥‥でも‥‥‥」
「でも、今よりずっとマシ?‥‥‥もしかして、死んだ後、魂が天国か地獄に行く‥‥‥そーんな都合のいい事、考えてる訳?」
「‥‥‥」
少女は戸惑いの顔になる。
「教えてあげようか。あのね、人は死んだらね、何も無くなるの。なーんにもよ。霊とか魂なんてないのよ。昔から目撃されてるさっきのアレはね、分かりやすく言うと、ただ死ぬ直前の活発な脳パターンが、時空に刻まれただけ。マネキンみたいなものよ‥‥‥だから死んじゃった 本人とは全然別物なの」
「‥‥‥」
「だからさっきも、あなたの死への強い思いが、エーテル体として実体化したのよ‥‥ああいうのが増えちゃうと私、困るの。すっごく」
「‥‥‥どうして?」
里架子はきつく少女を睨んだ。
「そんな事、あなたには関係ない事よ‥‥‥だけどもしどうしても死にたいんなら‥‥ ‥私が事故死させてあげるわ」
里架子はため息をついた。
「事故死?」
「そ‥‥‥自殺なんかじゃなくて、自然に事故死‥‥‥それならあんなものは生まれて こないから‥‥それとも死ぬのはただの当て付けで自殺じゃないと意味がないとか?」
「‥‥‥」
少女はぽかんと口を開けた。普段であれば、そんな絵空事の様な話を信じる事はなかっただろう。が、ついさっき、その奇跡を見たばかりで、目の前にいる彼女の口から洩れる言葉の一つ一つが、それ自体が魔法の様に、恐ろしく真実味を帯びている様に思われた。
「そんな事は‥‥‥私ただこの世界からいなくなりたいだけ‥‥」
「だったら話が早いわね」
里架子は肩をすくめ、薄笑いを浮かべて早足で少女に近づいた。
「‥‥‥」
少女は特に恐がっている様子もない。そんな様子に、里架子はまたいらいらしだし、両手の指を立てて構えた。
「我は確率を極めし者‥‥‥」
声は風に乗り、孤高の空を舞っていく。
「全ての確率は、我、里架子の望みのままに ある‥‥‥我、汝の命、断たんと欲す。そは鉄の騎士にて汝を迎える‥‥‥」
最後に、シュ!と、二本指を少女の額に当てた。
「‥‥‥おしまいっと‥‥」
呆然としたままの少女から離れる。
「‥‥‥‥‥‥」
「あと一週間以内に、あなたには逃れようのない死が訪れる‥‥」
里架子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
”‥‥‥じゃあね”
「待って!」
声をかけた時、そこに既に何もなかった。
「無茶だよ、どうして一人であんな事を‥‥ ‥」
雑居ビルの三階に、興信所の看板のある部屋の奥のソファーに腰掛けた那々美は、湯気の昇るカップを手渡される。部屋の主の和也は、今年三十になったばかりで、くたびれた事務所とは対照的で身なりはきっちりとしていた。短く刈った髪と、日にやけた肌が印象的である。
「‥‥‥」
両手で持ったカップをじっと見つめていた那々美は、一口だけ口をつけてテーブルに戻した。脇に立て掛けてある杖に目をやる。それから、壁に腕を組んで立っている和也に視線を戻した。
「私が、里架子を止める事はそれ程、無茶な事ですか?」
羽飾りの付いたその杖を掴んで力を込める。
「私はずっと兄のエーテル確率理論を聞いて きたんですよ‥‥」
「‥‥それはそうなんだけど‥‥」
和也はブラインドに指をかけ、隙間をひろげた。繁華街のネオンのどきつい灯りが、煙草の煙の充満している部屋へ、サっと差し込んでくる。すぐに目を細めた。
「‥‥‥那々美さんにも分かっているはずだ。呪文の様に聞こえるのは、彼の見つけた理 論を心の中で復唱するただの自己暗示でしかない事を‥‥」
吸いかけの煙草を灰皿に押しつける。
「‥‥里架子‥‥‥彼女には素質がある。記憶すべき複雑な方程式を、一年そこそこで 自分のものにしてしまった。天才的と言っていい。遥もそう言っていただろ」
「‥‥‥」
「それを知ってて遥は、里架子を君と‥‥‥」
「違う!」
大声を出し、那々美は唇を噛み締めた。
「そんな事はないわ。私と里架子は‥」
偶然‥‥那々美はその言葉を口にしかけたが、途中で飲み込んだ。
当時学院生だった遥は、エントロピー理論を研究していた‥‥それが大きく運命を変える事になった。
『おい遥、あんまり根を詰めすぎると、しまいには体を壊すぞ』
何かを発見したらしい遥は、憑かれた様に大学の研究室に連日徹夜で篭もり、研究を続けていた。遥の所属していた研究グループの副リーダーを勤めていた和也は、見かねて声をかけた。
『そんな事は問題ではないんですよ』
元々遥は学者肌の気質で頑固な所があり、大学院に進んだのも、実業家である親の反対を押し切っての事である。
和也は、机の上に視線を移す。
『エーテル理論か‥‥』
教授達は、遥の研究には酷く懐疑的であった。
その内容は、一口には人の意識を使って、周囲の時空‥‥‥エーテルに影響を与えるというものであった。
『まさか清野さんまで、疑っているんじゃな いでしょうね?』
遥はキーボートに乗せていた手をおいて、和也を見上げた。
『清野さんも知っての通り、人の知性とは脳細胞そのものではなく、そのパターンにあります』
『‥‥‥』
『パターンの密度は、惑星間物質より数千倍も濃いのですよ。これが、時空に影響を及ぼさない訳がない』
『‥‥‥』
熱っぽく語る遥に気圧されたのか、和也は顔をしかめた。
『何をどう思考すれば、どう影響が出るのかを解明出来れば、思っただけで何でも出来る様になるかもしれない‥‥‥そして、どんな不可能なでも可能になる‥‥‥そうでしょう?』
『出来ればな。中世ヨーロッパにも、ラプラスの魔という同じ様な妄想に取りつかれた 人々がいたよ。計算で全てが解き明かされるとね』
『これは妄想なんかじゃない!』
『‥‥‥どっちにしても、今すぐに結論の出るものじゃないさ』
立ち上がった遥の肩に手をのせる。
『君は疲れてるんだ。いったん、家に戻った方がいい。さっき妹さんから電話があったんだ。随分と、心配していたまたいだったぞ』
『‥‥那々美か‥‥そうですね‥』
意外にあっさりと遥は首を縦に振った。
『‥‥‥そうします。疲れている時は思考も鈍りますし』
机の上の書類をかばんに詰め込み、帰り支度を始める。家に帰った所で作業をやめるつもりが無い事は、手に取る様に分かった。