司祭館に戻ってきたのは正午を過ぎたころだった。お昼は屋敷にあるもので何か作ろうか――買ってきたり外食ばかりじゃ贅沢だもんね。節約、節約――なんてティアリナと話しながら玄関アプローチを進んでいると、エントランスからエリオードの悲鳴じみた声が漏れ聞こえてきた。
「え、なに? エリオードと……誰かいる?」
「しっ、様子を伺いましょう」
ティアリナの提案で、あたしたちはヒールの音が立たないよう抜き足差し足、玄関ポーチに上がり、ドアに耳を寄せた。
「セディ……俺が悪かった……許してくれ……!」
「どいてください。私は忘れ物を取りに来ただけで、君と話をしている時間は――」
「嫌だ! お前が許してくれると言うまでどかねぇ」
「エル……」
聞き耳を立てながらティアリナと目が合い、あたしたちはやれやれという感情を共有した。
話しているのはエリオードとセラディス。そして、エリオードが許しを請うているのは昨夜の揉め事のことだろう。
エリオードがどういうつもりだったのか真相は知れないが、事実として昨夜、彼はセラディスのナイトシャツを剥いたのだ。いつも神父服のボタンを一番上まできっちり留めている、清廉潔白を絵に描いたような、あたしの愛する夫のナイトシャツを!
あたしだってまだ、したことないのに!
「昨夜、俺は……お前にひどいことを……でももう二度としない。絶対しないと誓うからっ」
「わかりました。その話はまた、帰宅後に。今日はこのあとすぐ、信者との面談が――」
「そんなの放っておけよ!」
「何を言うんです」
「お前こそ、何なんだ!? 俺と話すより信者との面談が大事だってのか!?」
「そうは言って……」
なんだかムカムカしてきた。二度としない、などと蚊の鳴くような声で殊勝に言ったかと思えば、次の瞬間には、俺と信者とどちらが大事なんだと恫喝する。
どういう情緒をしているんだ、この男は。
「今朝だってそうだ。めちゃくちゃ早く起きて、俺がメシ用意する前に出ていっちまうし」
「それは、朝から信者と――」
「うるせぇ! どうせ俺と顔合わせたくなかっただけだろ!」
「違います。何故そんなこと……」
はあ、と隣からため息が聞こえてきて、あたしはティアリナに目を遣った。
「どうしよう、助けに入るべき? というか、助けに入りたいんだけど」
「やめなさい。私たちが介入したら逆効果になるわ」
「でも」
「平気よ。セラディスはアレと十年も付き合ってるんだから、慣れているでしょう」
「そういうもんかなぁ……」
セラディスは何故、こんな男と十年も親友でいられるのかあたしは不思議だった。こんな、一歩間違えばヤンデレ彼女みたいな男。
「昨夜のことでしたら、気にしていません。だからもういいんですよ。そんな顔しないでください」
話している時間はない、と拒否の姿勢だったセラディスが、どうやら気持ちを切り替えたらしく、さらりと謝罪を受け入れた。けれどその言葉はどこか他人行儀で、エリオードを薄皮一枚、遠ざけておきたいような雰囲気を感じる。
あたしが気づくのだから、エリオードが気づかないはずがない。
「嘘だ! 気にしないわけがねぇ」
「そんなこと……」
「なんで俺に嘘つくんだよ!」
「嘘なんかじゃ……」
「あのう、マナシア様……ですよね?」
あたしとティアリナは揃ってバッと背後を振り返る。
玄関ポーチを下りた先に、青年が立っていた。くすんだ赤と灰色の制服に、肩からは革製の大きな鞄を斜め掛けしている。柔らかそうな帽子のつばの影から、真偽を問うような目であたしを見ていた。
「こちら、セラディス様宛てのお手紙なのですが……」
あ、郵便屋さんか、とあたしは思い至る。
あたしの格好がいつもの上品なロングドレスでなく丈の短いフリフリワンピだったせい(化粧もいつもより濃い目だし)で、マナシアかどうか疑わしかったのだろう。
差し出されたのは、上等な羊皮紙に金の封蝋が押された封書だった。
「ありがとう。ごくろうさま」
あたしが手紙を受け取ると、青年はホッとした様子で頭を下げて行ってしまった。
隣のティアリナが、手紙の封蝋の印に目を留めて、小さく息を呑む。
「この印、ユダリスク様のものだわ」
「え、ダリ……誰?」
「ユダリスク・タレンミア様。聖都ルミナスを含む東方地区を統括する司教よ。今は確か、聖都アウレリアにいるはず」
「へえ。偉い人なんだ?」
「もちろんよ。彼は、アレオン神の天命を受けた五使徒の後継者のひとり。でも珍しいわね。ユダリスク様からの書簡が直接セラディスに届くなんて。司教様から主任司祭宛ての書簡なら大抵、聖アレオン大聖堂宛てに届くものなのに」
そのとき、玄関のドアが内側から開いた。
あたしとティアリナは慌てて、今帰ってきました風を装う。
逃げるように飛び出してきたのはセラディスだった。
「あっ、セラディス、帰ってたの? あたしたちも今、お買い物から帰ってきたところ」
あたしが微笑むと、セラディスはついさっきまでエリオードと揉めていた気配など微塵も感じさせない爽やかな笑みを返してくる。
「おかえりなさい、マナシア、ティアリナ。私は忘れ物を取りに来ただけですので、これから教会へ戻ります」
「そっか、お疲れさま。あ、そうそう、今ちょうど郵便屋さんが来て、これ受け取ったの」
あたしが手紙を差し出すと、セラディスはほんの一瞬だけ顔を強張らせた。彼でもやはり、司教からの手紙となると緊張するのだろうか。
「ありがとう、マナシア」
彼はあたしから手紙を受け取ると、「いってきます」と言って玄関アプローチを歩いていく。
「待ってくれ、セディ!」
耳にキンと響く叫びと共にまた玄関が開き、今度はエリオードが飛び出してきた。
彼はあたしとティアリナを一瞥したが、あたしたちの存在など意にも解さずといった様子で、遠ざかるセラディスの背中に叫ぶ。
「本当に悪かったと思ってる! 俺、お前に嫌われたら……生きていけない……!」
セラディスが足を止め、振り返った。そこに先ほどの笑みはなかった。
「過ちは繰り返しません」
それだけ言い残して行ってしまう。
何のことか、あたしにはわからなかった。でも、エリオードには伝わっているようで、それは彼の怒りとも悲しみとも後悔ともつかない表情が物語っていた。
あたしは少しぞっとした。
『過ちは繰り返しません』
そう告げたセラディスの声に、まるで機械のような無情さと冷酷さを感じたせいだった。