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第17話:禁断の果実は無垢じゃないヒトにも微笑みかける

 セラディスの言葉が、静寂の中で響いた。


「それでも私は、目の前のあなたに絶望することなんてできないのです。いつかあなたが、別のあなたになってしまうかもしれなくても」


 あたしはハッと気づかされた。


 そうだ。あたしはこのまま永遠に、この世界のマナシアの体に宿っていられる存在ではないのかもしれない。

 最初のマナシアや、マナキがそうだったように。

 何かのはずみで宿って、また、何かのはずみで……。


 そう思ったら、少し怖くなった。もともと死んだ身なのだから、今生きているのはボーナスタイムみたいなものだけど……この体を離れたあたしの魂は、一体どこへ行くのだろう。


「マナシア、私は今、幸せです。あなたがそばにいてくれて」


 顔を上げると、スポットライトのような陽だまりの中でセラディスが微笑んでいた。


 ああ、素敵だなぁ。


 セラディスは祭壇の上で眠っていたマナシアを天使のようだったと形容したが、彼だってまるで天使みたいだ。

 迷える子羊の心に寄り添う神父様なんて、ほとんど天使と同義ではないか。


 セラディスが一歩ずつ、こちらへ近づいてくる。今度は少しも怖くなかった。

 彼はやがてあたしの立つ影った場所までやってくると、その両腕であたしを優しく包み込んだ。


「愛しています、マナシア」


 真っ直ぐな声が、あたしの中にすっと染み込んでくる。


 トウマの顔が頭に浮かんだ。彼の声。少しやんちゃな話し方。香水の匂い。最期に抱き締めてくれた体温。


 だけど……。


 あたしは震える唇を噛みしめて、考えに考えて、ようやくその言葉を返す。


「あたしも……セラディス、あたしも愛してる」


 それは嘘ではなかった。でも、本当かどうかと問われたら自信がなかった。

 それでも言わずにはいられなかった。

 あたしは浮気者なんだろうか。薄情者なんだろうか。

 トウマを愛しながら、セラディスを愛してはいけないだろうか。


 彼はあたしの両肩に手を当ててそっと体を離し、あたしの目を覗き込んだ。


「行きたい場所があるんです。我儘を聞いてもらえますか?」

「もちろん」


 眉尻を下げてあたしに伺いを立てる彼を、あたしは愛おしいと思った。



 あたしたちはどちらともなく手を繋ぎ、教会をあとにした。

 そして、そこからさらに森の奥へと入っていった。どんどん街から離れていくことも、セラディスと一緒なら怖くはなかった。敬虔な彼は神様に守られていて、隣にいるあたしまで一緒に守ってもらえているような気がした。


 道々、あたしたちはほとんど言葉を交わさなかった。けれどもあたしは、手を繋いでいるだけで十分だった。幸福感が胸に満ちていた。そこに言葉は必要なかった。


 やがて、木々の間から差す光の向こうに、きらきら輝く何かが見えてきた。


 そこには、澄んだ湖が広がっていた。水面は鏡のように滑らかで、周囲の木々や空の雲がくっきりと映っている。湖畔には白い小石が敷き詰められた岸辺があり、そよ風に揺れる草花が彩りを添えていた。


「綺麗……」

「私が子どものころに、よく来ていた場所なんです」


 そう言ったセラディスの声は、どこか楽しげだった。


 あたしたちは転ばないようゆっくりと岸辺まで歩いた。

 そして、足先の数メートル向こうに水が揺蕩たゆたう場所まで来た時、彼の手がスッと離れていった。


 彼は――いきなり神父服の上着を脱ぎ始めた。次に靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、シャツの袖を捲る。


「えっ……あの、セラディス?」

「いけませんか?」


 小さく笑った彼は、そのまま走って湖へ向かい、ジャブジャブと水の中へ入っていく。


「わ、ちょ、ちょっと、何やってんの!?」


 驚くあたしの声に、セラディスの笑い声が重なる。


 なんなの、この人。急にどうしたっていうの?


「マナシア、あなたも泳ぎませんか?」


 水面から顔を上げたセラディスが、濡れた髪を掻き上げて楽しげに言った。


 その動作が記憶の中のトウマと重なり、あたしの中で何かがぐらりと揺れる。


 "何か"は、あたしの中であたしを通せんぼしていた躊躇いを、押しやった。


 カーディガンを脱ぎ、ブーツと靴下を脱いで、湖に向かって走る。

 足先が水に浸かり、進むたびに水位が上がっていく。

 心地良い冷たさと、ワンピースが手足にまとわりつくもどかしい感触。


「セラディス!」


 あたしは待ち構えていた彼の腕に飛び込んだ。濡れた服越しに伝わる、互いの肌の柔らかさ。


 大人げない、と誰かが笑ったっていい。


 あたしたちは湖で泳ぎ、浅瀬で水を掛け合い、少年と少女のように無邪気にはしゃいだ。

 湖畔の樹にっていたりんごを勝手に取って食べた。

 木陰に横たわり、遠くで何度も鳴く鳥が、今度は何度ピューヒョロロを繰り返すか予想して、夕食のデザートを賭けた。


 健全な幸せ。日の当たる幸せ。

 そんな言葉があたしの中に浮かんでいた。



 夕日が湖面をオレンジ色に染めたころ、お昼寝から跳ね起きたあたしたちは急いで帰り支度をした。

 洗濯して干す前みたいな湿ったワンピース姿のあたしに、セラディスは神父服の上着を羽織らせてくれた。


 司祭館に帰り着き、玄関ドアをノックした時には日はすっかり落ちていた。

 夕方までに戻るという約束をオーバーしたあたしたちに対し、ドアを開けて出てきたエリオードは案の定ぶすっとしていたが、嵐の中を駆け抜けてきたみたいなあたしたちの姿を見るや、彼は目を剥いた。


「おい、何だよその恰好!?」

「すみません。少し、はしゃぎすぎてしまいまして……」

「床が濡れるから中に入るな、タオル取ってくる! まったく、何をどうしたらデートで濡れ鼠になるんだよ。ガキが川遊びに行くんじゃねぇんだぞ」


 ぶつくさ小言を言いながら、ばたばたと廊下の奥へ去っていくエリオード。

 その後ろ姿を見送りながら、あたしとセラディスはいたずらっ子みたいに顔を見合わせて、こっそりと笑い合った。


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