背中が、ひやりとした石の壁に触れる。息が詰まりそうになるほどの緊張のなか、セラディスが静かにもう一歩、距離を詰めてきた。
「マナシア……」
彼が呼びかける声が、教会の空間に溶けていく。静寂の中で、それだけがやけに響いて聞こえる。
「あなたの真実の名前を知りたい」
それは問いではなく、願いのようだった。
あたしは唇を噛んだ。心臓が壊れそうなくらい速く鳴っている。
もし本当の名前を明かしたら、彼はどう思うのだろう? あたしが“マナシア”じゃないって、はっきり知られたら――。
「あたしは……」
言いかけて、口を閉ざす。足元が揺らぐような不安に、思わず目を伏せた。
「どうして……知りたいの?」
「あなたのことを心から愛しているからです。そしてあなたの過去ごと、愛したいからです」
その言葉に、あたしは胸を掴まれたような気持ちになった。
逃げてはいけないと思った。あたしはゆっくりと目を上げて、彼の深い青を見た。
「あたしの名前は、
セラディスの目が、わずかに見開かれる。
「マナ……可愛らしい名前です。マナ、そうですか……」
彼は唇に指を触れた。それは彼が考え事をするときの仕草。そして考えがまとまると指を離し、
「二人目のマナシアの真実の名前は、マナキでした。あなたと同じように、別の世界で命を落とし、ここに転生してきた人間です」
「マナキ……」
「はい。気がつきましたか? 転生者の名前がよく似ています。それに三人には、元の世界で亡くなっているという共通点もある。転生者としてその体に宿る魂には、何か法則性のようなものがあるのかもしれませんね……」
彼の声が、思索に沈もうとする。
けれど勝手に沈んでもらっては困る。あたしにはもうひとつ、言っておきたいことがある。
「あのさ、セラディス。あなたはあたしに愛しているとか愛したいって言ったけど……あたしはあなたが愛した最初のマナシアじゃないんだよ?」
彼は顔を上げて、真っ直ぐにあたしを見た。
「そのことは、あなたを愛さない決定的な理由になりますか? あなたは性格こそ異なれど、容姿も声もマナシアそのものなのに」
「だけど……」
「それにね、あなただって同じです」
「えっ?」
「あなたも、トウマという人を愛していたのでしょう? けれど今、彼とは違うこの私に心を向けてくれている。私はきっと、そのトウマさんに似ているのですね。あなたの目は時々、私を通して別の誰かを見ているような気がします」
あたしは返す言葉を失った。確かに、そうだ。自分だって、似たようなことをしている。セラディスをトウマの代わりにしようと。
後ろめたさで居心地が悪くなった。逃げ場を探すように、あたしは問いかけた。
「でも……愛してたっていう割に、最初のマナシアを半年間も寝室に軟禁していたって、ちょっとおかしくない?」
セラディスの表情が少しだけ陰った。
「そう思われても仕方ありません。ですが弁解させていただくと、それは彼女自身の意思だったのです」
「どういう意味?」
「最初のマナシアは、元の世界で自ら命を絶って転生してきた人間でした。彼女は人との関わりを極端に恐れていた。人目に触れない場所で静かに暮らしたいと望んでいました」
自ら命を、という言葉があたしの胸に針のように刺さる。
「それでも、私たちは少しずつ惹かれ合い、ついには、婚姻して
「それが、約半年前?」
「ええ。そして、そのすぐ後に、私たちは婚姻の儀を執り行いました」
嬉しいはずの婚姻という言葉が、どこか憂いを帯びているのにあたしは気づく。
しかし、とセラディスは続けた。
「結婚して間もなく彼女は、二人目のマナシア――マナキになったのです」
「そんな……」
「ある日の夕方、教会から帰ると、マナシアが玄関先に倒れていました。私は彼女を急いで寝室に運びました。……そこから先の展開は、あなたが現れた時と同じです」
まるで記録をなぞるように語られる言葉が、確かな重みを持ってあたしの胸にのしかかる。
「私は最初のマナシアにも二人目のマナキにも、さよならを言うことはできていません」