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第10話:甘い夢の口直しに香ばしい現実はいらないんですが!

 あたしはトウマに抱きしめられていた。

 彼の香水の香り――甘くて、どこかスモーキーな香りに包まれながら、腰をぐっと引き寄せられる。


真名まなちゃん、ずっとこうしたかったんだ」


 囁く声が耳の産毛を掠め、思わず肩が小さく跳ねる。

 あたしが言葉を返す間もなく、彼の唇が重なってきた。


 柔らかく、熱を帯びた唇があたしの下唇を捉え、そっと吸い上げるようについばむ。彼の舌があたしの唇をなぞり、ぬめるような水音とともに、らすように口内を割り入ってくる。


 舌が絡み合い、唾液が混ざり合い、くちゅっ、ちゅっ……と卑猥な音が響くたび、あたしの背筋にゾクリとした快感が走った。


 やがて唇は離れていき、あたしの耳元へ移動する。ぬるりと熱い舌が生き物のようにあたしの耳の中を探り、顎へと下り、首筋をくすぐる。あたしは思わず吐息を漏らす。


「真名ちゃん、大好き……」


 彼の指が背中を這い、やがて服の裾の隙間から入り込む。熱い指先が柔らかなタッチで素肌をなぞるたびに、その場所から甘い震えが全身に広がっていく。


 彼の手が前に回ってくる。あたしの腹部を手のひらで撫で、指先で肋骨の形を確かめながら、その上へと――


「……シア」


 意識の外側から声がして、世界が揺れた。そして突然の暗転。


「……マナシア、起きてください」


 瞼をゆっくりと開けると、目の前には彼がいた。


「セラディス?」

「夕食の時間ですよ。ダイニングへ行きましょう」


 ああ……夢だったのか。


 目の前に同じ顔があるのに、あたしは、自分が少しがっかりしているのが不思議だった。

 トウマにとって、数いる姫(ホストクラブの客)のひとりでしかなかった真名よりも、セラディスのたったひとりの妻である今の方が、100倍幸せなはずなのに。


「マナシア、どうしたんです? 気分がすぐれませんか?」


 目に少しかかったあたしの前髪を優しくよけながら、セラディスが尋ねる。


「ううん、なんでもない。お腹空いちゃった」


 あたしは明るく返事をし、体を起こした。



 ダイニングテーブルには、出来立ての食事が並んでいる。

 刻んだハーブの浮かぶ琥珀色のスープ、白くふっくらした魚のソテー、表面が艶やかでころんと丸いロールパン。


「いただきます」


 座ってスープを口に含むと、さっぱりとした滋味じみが広がった。

 セラディスも静かに食事を始める。昼間のティアリナのようなお祈りは、やはりしていない。


 と、そこであたしは昼食前のティアリナとの出来事を唐突に思い出した。彼女にベッドへ押し倒され、好きだと言われたこと。そしてキスされかけたこと。


 言うべきか、言わないべきか。


 あたしは悩んだ。

 言うにしても、なんて説明すればいいのかわからない。あなたの腹心のシスターに襲われました、なんて言ったら、セラディスはどう思うのだろう。彼は、同僚としてティアリナのことを信頼しているようだし……。

 それにあたしだって別に、ティアリナのことを告げ口したいわけじゃない。


 いろいろ考えて、あたしは結局、黙っていることにした。未遂だったし、力尽くでもなかったのだ。ティアリナはそんなに害のある人間じゃない。今後は彼女をそういう気にさせないよう、私が気をつけていればいいだけの話。


 そう自分の中で結論づけて、そういえば、ともう一つの出来事を思い出す。


「今日、昼間にエリオードがあなたを訪ねて来たよ」


 セラディスの手が僅かに止まったような気がした。


 あれ、あたし何か変な言い方した? ううん、これでいいはず。妻であるあたしも以前に会ったことのあるセラディスの親友、エリオードが来た。ちゃんとそういう言い方になってたでしょ?


「エリオードが……そうですか」

「うん。メイドちゃんが出掛けてたからあたしが応対したんだけど……何かまずかった?」

「いいえ、少し驚いただけです。すみません」


 なんだか事情のありそうな言い方だなと思って黙っていると、セラディスは続けた。


「彼は何か、あなたに嫌なことを言いませんでしたか」


 ああそういうことか、とあたしは納得する。セラディスはエリオードがあたしに冷たいのを知っているのだ。


 逆に言うと、エリオードはセラディスの前でも、その妻であるマナシアにああいう態度なのだ。まったく恐れ入る。


「うーん、別に嫌なことは言われてないかな。ちょっとぶっきらぼうではあったけどね」


 あたしは少し嘘をついた。


「そうですか。それならいいのですが」

「うんうん。全然心配しないで」

「それにしても、うかつでした。彼はしばらくの間、聖堂修復の仕事で南方都市メルヴィレへ行くと言っていたのですが、もう戻ってくるなんて」

「うかつ、って別に」

「いえ、上手く言えませんが、彼には少し我儘なところがありまして」

「我儘?」

「学生時代からそうです。こと私に関しては随分と――」


 玄関ベルが、甲高く鳴り響いた。そして間髪入れずにドンドンドン、とドアが叩かれる。

 給仕のために控えていたメイドちゃんが、慌てて駆けていく。


「おい、セディ! いるんだろ?」


 屋外から響く声に、あたしとセラディスは、顔を見合わせた。


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