ずっと、こうしたかった?
耳元で囁かれたその言葉に、あたしの思考は完全にフリーズした。
ティアリナの指がそっとあたしの頬を撫でる。まるで高級な絹を扱うような丁重な手つき。
「ちょ、ちょっと待って!」
あたしは我に返って彼女の肩を押し返した。エメラルドグリーンの瞳が残念そうに
「どうして拒否するの? 私があなたのこと好きって、知ってて部屋に入れたくせに」
好き。その言葉が、脳にゆっくりと染み込んでいく。
「え、ええ!? ちょ、待って、えっ、セラディスじゃなくて!?」
「セラディス? なんのこと?」
「昨日、セラディスのこと大好きって言ってたじゃん」
「ああ、それね。確かに言ったけれど、それは
「ええっ、あの話、本心だったの!?」
「失礼ね。セラディスは大切な同僚であり、友人よ」
友人。
あたしはティアリナの瞳を凝視する。エメラルドグリーンの深い輝きには、嘘の色は見えない……気がする。
「半年前――まだあなたとセラディスが婚姻の儀を行う前、この部屋で初めてあなたを紹介された時、私は後悔したの。どうしてもっと早く、セラディスが何か隠している素振りを見せ始めたときに、問いただしておかなかったのかって。だって、あのとき、すでにセラディスはあなたとの婚姻を心に決めていいて、あなたの心は彼のものだった。彼はいつからここへ、あなたを隠していたのかしら」
「えっと、それは……」
わからない。知るわけがない。というか隠すって、何の話?
あたしとセラディスは、街で普通に出会って普通に結婚したんじゃないの?
「別に答えなくてもいいわ。今さらだもの。でもね、私、もしもあなたとセラディスの心が結ばれる前にあなたと会えていたら……あなたに愛してもらえる自信があった」
ティアリナの声は穏やかで、だけど確信に満ちていた。彼女の細い指があたしの髪を梳く。 優しく、まるで恋人を愛撫するように。
「そ、そんなこと言われても」
あたしは混乱の極致だった。まさか、気軽に昼食に誘った結果がこんな展開になるなんて。
ティアリナは美人だし、セクシーだし、包容力もあって、正直惚れる要素は山ほどある。
でも、相手はシスターで、しかもあたしは女で、人妻で……。
「ふふ、あなたは本当に可愛いわね」
ティアリナはあたしの動揺を楽しむように微笑み、あたしが拒む間もなくあたしの頬に口付けた。チュッ、というリップ音が耳に届くだけで、背筋がぞくっとする。
「好きよ、マナシア。私にちょうだい」
「な、なにを……?」
「あなたの、初めて」
ティアリナの色気と甘い声が、あたしの理性を少しずつ蝕んでいく。
彼女の指があたしの顎を軽く持ち上げる。綺麗な顔が近づく。
あ、あたし、キスされちゃう――!?
トウマの顔が、頭に浮かんだ。
あたしは腕を持ち上げ、手のひらで彼女の唇を塞ぐ。
彼女は驚いた顔で動きを止めた。
「待って、ティアリナ。あたし、あなたとはキスできない。愛してる人がいるもの」
これは嘘でも適当でもない。あたしの本心だ。
あたしが彼女の唇を塞いでいたから、彼女は何も答えなかった。けれどその目は、切なげに輝きを失っていた。
コン、コン、コン。
部屋のドアがノックされて、昼食の準備ができたと告げられる。
あたしはティアリナの唇から手を離し、彼女の下から抜け出て立ち上がった。
「お腹空いたね、ご飯食べ行こう」
あたしが言うと、ティアリナもベッドから下りて振り向いた。
「ええ。空っぽで死んじゃいそう」
ダイニングへ向かうと、いつものようにすでにテーブルには料理が並べられていた。
香ばしく焼かれたバゲットとブリオッシュ、パセリの散ったポタージュスープ、ハーブの香りが漂うローストチキン、そして付け合わせの温野菜。
「美味しそうね」
ティアリナは椅子を引き、優雅に腰を下ろした。
あたしも向かいに座り、まずはスープを一口飲む。ほんのりとローズマリーの香りが広がり、温かさが体に染み込むようだった。
ティアリナは、両手の指を組み合わせて目を閉じた。そして小声でぶつぶつと、何かを呟く。
食前の祈り、というものだろうか。詳しくは知らないが、あたしの元居た世界でも、キリスト教徒などはやっていた。
そういえば、とあたしは気づく。
セラディスとは今までに三度食事を共にしたが、食前に祈る姿は一度も見なかった。この祈りがアレオン教特有のものだというなら彼もやっていて然るべきだが、どうしてだろうか。
祈りを済ませると、ティアリナはカトラリーを手にして食事を始めた。その指先の動作ひとつひとつが洗練されていて、シスターというよりまるで貴族のようだ。
「マナシア、食べないの?」
「え? ううん、食べる食べる」
不思議そうな視線を向けられて、あたしは慌ててポタージュを二、三度掬い、口に入れた。すり潰した野菜と濃厚な鶏の出汁が効いていて満足感がある。
続いてローストチキンをひと口大に切り分け、ぱくり。柔らかくて身がほろほろ
温野菜はそのまま、ブリオッシュはバターを塗って、バゲットはポタージュに少し浸して、あたしは食欲の赴くまま次々と皿を平らげていく。
「マナシア、食事は好き?」
「そりゃ好きだよ。美味しいものを食べるのは、生きてる実感っていうか……幸せ感じるよね」
ティアリナは微笑みながらワイングラスに手を伸ばした。もちろん中身はアルコールの入っていないぶどうジュースだ。
「ふふ、そうね。あなたが楽しそうに食べるのを見ていると、私まで幸せな気分になれるわ」
「ぶっ……ごほっごほっ!」
この期に及んで意味深な台詞を投げかけられ、あたしはぶどうジュースを吹いた。