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第5話 救済

 季節は移ろい、庭園の木々は深紅しんく黄金こがねいろに染まっていた。圭吾けいごがこの邸宅に来てから、どれほどの月日が流れただろうか。時間の感覚は、とうに曖昧になっていた。アトリエと、すみれのいる空間。それが、彼の世界の全てだった。


 描く、という行為は、もはや日常の呼吸となっていた。朝目覚め、顔を洗い、食事を摂る。そして、イーゼルの前に立つ。菫が求める姿を、ただひたすらにキャンバスへと写し取る。それは、かつて彼が追い求めた芸術とは似て非なるものだったが、不思議な充足感があった。


 菫との関係も、あの書斎での夜を境に、新たな段階へと移行していた。支配者と被支配者という基盤は変わらない。しかし、その上には、共犯者としての奇妙な連帯感や、互いの孤独を舐め合うような歪んだ愛情が積み重なっていた。


 菫は、以前にも増して圭吾の前で様々な姿を見せるようになった。時には少女のように無邪気に笑い、時には全てを諦めたように静かに涙を流す。そして、時には、底知れぬ闇を覗かせるような冷酷さで、彼に屈辱的な要求を突きつける。


 その要求の一つが、定期的に行われるようになった「儀式」だった。それは、かつて彼に絶望的な屈辱を与えた、菫と見知らぬ男との交合を描くという行為。しかし、今の圭吾にとって、それはもはや苦痛ではなかった。むしろ、一種の神聖な儀式に参加するような、厳粛な興奮を伴うものへと変質していた。


 男たちの顔ぶれは毎回変わった。彼らがどこから来て、どこへ去っていくのか、圭吾は知らないし、知ろうとも思わない。彼らはただ、菫という女王蜂に蜜を捧げるためだけに存在する、名もなき雄蜂おすばちに過ぎない。圭吾の視線は、ただ一点、菫の姿だけに注がれる。彼女の表情、肌の艶、喘ぎ、そして、悦楽と苦痛が入り混じった瞳の奥の輝き。それを捉え、キャンバスに刻みつけることだけが、彼の使命だった。


 描いている間、菫は時折、圭吾に視線を送る。その瞳には、嘲りや憐れみではなく、共犯者への信頼とでも言うべき色が浮かんでいた。そして、行為が終わると、汗ばんだ裸体のまま圭吾に歩み寄り、彼の描いた絵を満足そうに眺めるのだ。


「……ええ、良いわ。今日も、ちゃんと私を捉えている」


 そう囁きながら、菫が圭吾の頬に触れる。その指先の冷たさと、行為の残り香である甘い匂いが、圭吾の感覚を痺れさせた。これは、彼らだけの秘密の儀式。二人を結びつける、血よりも濃い契約の証。



―――



 そんな歪んだ蜜月の日々が、永遠に続くかのように思われたある日。事件は起こった。


 その日、菫は珍しく機嫌が悪そうだった。朝から口数も少なく、アトリエに現れた彼女の瞳には、いつになく苛立ちの色が浮かんでいた。


「圭吾さん」


 低い声で呼ばれ、圭吾は筆を置いた。


「少し、見せたいものがあるの」


 菫はそう言うと、アトリエの奥にある、普段は鍵がかけられている戸棚へと向かった。重々しい音を立てて扉が開かれると、中には、いくつかのキャンバスが立てかけられていた。どれも、布がかけられており、中身を見ることはできない。


 菫はその中から、一枚の、比較的小さなキャンバスを取り出した。そして、躊躇ちゅうちょいなく覆っていた布を取り払う。


 現れたのは、一枚の肖像画だった。若い男性が描かれている。神経質そうな顔立ち、鋭い眼光。そして何より、その絵から放たれる、狂おしいまでの情熱と、破滅的な衝動。それは、かつての圭吾自身の作風にも通じるものがあった。


「……これは?」


「以前、ここにいた子の作品よ」


 菫は、淡々とした口調で言った。その瞳は、絵の中の青年を見つめている。


「彼も、あなたと同じように、才能があったわ。いえ、もしかしたら、あなた以上だったかもしれない」


 その言葉に、圭吾の胸が小さくざわめいた。


「彼は、私の全てを描こうとした。私の美しさも、みにくさも、孤独も、狂気も……全てを理解し、受け止めようとしてくれた。最初のうちは、ね」


 菫は、絵の中の青年から圭吾へと視線を移した。その瞳の奥に、冷たい光が宿る。


「でも、彼は耐えられなかった。私の愛の重さに。私の求める深さに。彼は、私を描くことで自分自身を見失い、壊れていったわ」


 菫は、肖像画の青年の頬を、まるで愛おしむかのように指でなぞった。


「最後は、自分の描いた私の絵の前で、自ら命を絶ったの。美しい、最期だったわ。まるで、完成された芸術品のように」


 その言葉は、氷のように冷たく、圭吾の背筋を凍らせた。目の前の肖像画が、途端に禍々《まがまが》しいオーラを放ち始める。この青年は、菫の愛の犠牲者。才能を搾り取られ、魂ごと囚われ、最後は自ら破滅を選んだ……。


(俺も、こうなるのか……?)


 一瞬、激しい恐怖が圭吾を襲った。逃げ出したい衝動。この緋色の檻から、一刻も早く。


 だが、その衝動はすぐに霧散した。足は床に縫い付けられたように動かない。いや、動かないのではない。動くことを、自分自身が拒否しているのだ。


 彼は、ゆっくりと菫に向き直った。菫の瞳は、彼の反応を試すように見つめている。


「……それで、なぜその絵を俺に?」


 圭吾の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。恐怖は、既に心の奥底に沈殿し、別の感情へと変質し始めていた。それは、諦念であり、覚悟であり、そして……菫への、完全な帰属意識。


 菫は、圭吾の反応に満足したように、微かに口元を綻ばせた。


「あなたは、彼とは違う。そうでしょう?」


「……ええ」


 圭吾は頷いた。


「俺は、もうこれ以上壊れることができない。あなたのいない場所では、息をすることさえできないでしょう」


 それは、偽りのない本心だった。この檻の中で、菫という存在を描き続けること。それだけが、彼に残された唯一の生きる意味なのだ。


「あなたのものです。この体も、魂も、そして、俺の描く全ての絵も」


 圭吾は、ゆっくりと菫の前にひざまずいた。完全な服従の姿勢。


 アトリエに、静寂が訪れる。窓の外では、風が木々を揺らす音だけが聞こえていた。


 やがて、菫の冷たい指先が、圭吾の髪に触れた。


「……よく言えましたわ、圭吾さん」


 その声は、慈愛に満ちているようにも、あるいは、獲物を手に入れた捕食者のように、満足げにも聞こえた。


「顔を上げて」


 促されるままに顔を上げると、菫の端正な顔がすぐ目の前にあった。その菫色の瞳は、深く、どこまでも澄んでいる。


「あなたは、私の最後の芸術家。そして、私の……愛しい共犯者」


 菫は、圭吾の手を取り、立ち上がらせた。そして、彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。それは、初めての口づけだった。冷たく、しかし、どこか甘美な味がした。


「さあ、始めましょうか。私たちの、最後の儀式を」



―――



 その夜、アトリエはいつもと違う空気に満たされていた。イーゼルは脇に寄せられ、床には大きな白いシーツが敷かれている。部屋の隅々には、無数の蝋燭ろうそくが灯され、揺らめく炎が壁に掛けられた圭吾の絵を幻想的に照らし出していた。それらは、圭吾がこの檻に来てから描き溜めた、菫の肖像画。様々な表情、様々な姿の菫が、まるで生きているかのように、二人を見つめている。


 シーツの中央で、圭吾と菫は裸で向かい合っていた。互いの肌が触れ合う距離。周りには、色とりどりの絵の具が置かれたパレットがいくつも並べられている。


「今日は、キャンバスはいらないわ」


 菫が囁いた。その声は熱を帯び、いつになく官能的だ。


「あなたの体が、私のキャンバス。そして、私の体が、あなたのキャンバスよ」


 菫は、パレットから深紅の絵の具を指に取り、圭吾の胸にゆっくりと塗り広げ始めた。冷たい絵の具の感触と、菫の指先の熱が、圭吾の肌の上で混ざり合う。


「感じて、圭吾さん。私の色に染まっていくあなたを」


 圭吾もまた、菫の白い肌に筆を走らせた。菫色の絵の具で、彼女の肩から胸元にかけて、流れるような文様を描いていく。菫は恍惚こうこつとした表情で目を閉じ、圭吾の筆遣いに身を委ねている。


 それは、言葉にならない対話だった。絵の具を通して、互いの魂に触れ合うような、倒錯的で神聖な儀式。赤、青、金、銀……様々な色が二人の裸体を彩り、蝋燭ろうそくの光の中で妖しく輝く。


 やがて、二人の体は、互いの色で完全に染め上げられた。まるで、一つの抽象画のようになった二人は、見つめ合い、そして、どちらからともなく唇を重ねた。


 口づけは次第に深くなり、息遣いは荒くなる。互いの肌に描かれた絵の具が、汗と熱で溶け合い、新たな色彩を生み出していく。圭吾は、菫を強く抱きしめた。彼女の柔らかな肌、甘い香り、そして、自分を受け入れる体の熱。全てが、彼の五感を満たしていく。


「……圭吾さん……」


 菫が、圭吾の耳元で甘く囁く。


「私を、あなたのものにして……そして、あなたも、私のものになって……」


 その言葉が合図だった。圭吾は、菫を鮮やかなシーツの上にゆっくりと押し倒した。菫色の瞳が、潤んで圭吾を見上げている。そこには、もはや支配者の冷酷さはない。ただ、一人の女としての、切ないまでの渇望が映し出されていた。


 二つの体は、一つに重なった。絵の具が混ざり合い、肌と肌が擦れ合う音、喘ぎ声、そして、蝋燭ろうそくの炎が揺れる音だけが、アトリエに響き渡る。それは、激しく、そしてどこまでも優しい交わりだった。互いの孤独を埋め合い、歪んだ魂を慰め合うような、究極の結合。


 圭吾は、菫の中で自身の全てを解放した。それは、画家としての創造性の解放であり、男としての劣情の解放であり、そして、人間としての魂の解放でもあった。もう、迷いも、葛藤もない。ただ、この瞬間の、強烈なまでの幸福感だけが、彼を満たしていた。



―――



 どれほどの時間が流れただろうか。蝋燭ろうそくの炎はほとんど燃え尽き、アトリエは薄明かりに包まれていた。


 圭吾は、イーゼルの前に立っていた。手には筆を握り、真っ白なキャンバスに向かっている。その表情は、虚ろでありながらも、どこか満ち足りたような、穏やかな光を宿していた。


 彼の視線の先には、豪奢ごうしゃな寝椅子に横たわる菫の姿があった。彼女は、薄い絹のガウンを纏い、静かに目を閉じている。その寝顔は、まるで聖母のように安らかに見えた。


 圭吾は、無心に筆を動かす。迷いのない線が、菫の姿をキャンバスに描き出していく。それは、もはや彼自身の意思ではないのかもしれない。菫という存在と完全に一体化した彼が、ただ、彼女の美しさを記録し続けるための、自動筆記のようなもの。


 アトリエの壁には、数えきれないほどの菫の絵が掛けられている。初期の、苦悩と抵抗が滲む作品。中期の、背徳的な悦楽に歪む作品。そして、後期の、歪んだ愛と安らぎが描かれた作品。それらは全て、高村圭吾という一人の画家が、霧島菫という女に出会い、その緋色の檻の中で魂を変容させていった、壮絶な記録だった。


 そして今、新たな一枚が生まれようとしている。それは、全ての葛藤を乗り越え、完全なる服従と一体化の果てにたどり着いた、歪んだ救済の肖像。


 窓の外が、白み始めていた。新しい一日が、またこの閉ざされた世界に訪れる。


 圭吾は、描き続ける。菫が目覚めるまで。そして、目覚めた後も、永遠に。


 このキャンバスに、終わりはない。ただ、歪んだ愛の記録が、静かに、そして際限なく、積み重ねられていくだけだ。


 それが、彼が見出した、唯一無二の救済なのだから。


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