その夜、
アトリエの窓から、満月が冷たい光を投げかけていた。その光に照らされたイーゼルの上の絵が、まるで生き物のように
(俺は、どこまで堕ちていくんだ……)
自嘲的な笑みが、乾いた唇からこぼれた。もう、引き返すことはできない。それは分かっていた。だが、この先に何が待っているのか。その答えが見えないことが、圭吾を
気分を換えるため、散歩をしようと部屋を出ると、廊下は月明かりに照らされ、まるで異界のような雰囲気を
と、その時。
書斎らしき部屋から、かすかな物音が聞こえた。扉は半開きで、中から漏れる明かりが廊下の闇を薄く照らしている。圭吾は足を止めた。こんな時間に、誰が?
覗き見るつもりはなかった。だが、扉の隙間から見えた光景に、圭吾は釘付けになった。
菫が、一人で座っていた。
菫は、その絵をじっと見つめていた。その表情には、圭吾が今まで見たことのない、何か切ないような感情が浮かんでいる。
「ねえ、あなたも、私を呪っているのかしら……?」
菫の囁きが、静寂を破った。その声には、いつもの冷たさはない。どこか寂しげで、人間的な響きを持っていた。
「仕方がないのよ。私には、これしかできないの。誰かの才を、魂を、私だけのものにする。それが、私の愛し方なの」
その
「才能のある人間は、美しい。でも、その美しさは儚いもの。だから、私は閉じ込める。永遠に私のものにするの。でも、皆、私を受け止められずに、壊れていってしまう」
その声は、次第に掠れていく。圭吾の胸に、奇妙な痛みが走る。これが、菫の本質なのか。孤独な魂が求める、歪んだ愛の形。そして、それを受け止めてくれる相手を探し続ける、永遠の放浪。
不意に、菫が顔を上げた。その菫色の瞳が、扉の隙間に立つ圭吾と真正面から合った。
一瞬、時間が止まったかのような感覚。
「……入りなさい」
菫の声は、静かだった。怒りも取り繕いもない。ただ、事実を告げるような口調。
逃げ出すことはできなかった。圭吾は、おずおずと書斎に足を踏み入れた。月明かりと、テーブルランプの灯りが、二人の影を壁に揺らめかせる。
「私の
菫は、自嘲的に微笑んだ。その表情には、いつもの優位性は感じられない。ただ、疲れたような、諦めたような色が浮かんでいた。
「……菫さんは、以前にも、他の画家を?」
圭吾は、震える声で尋ねた。菫は小さく頷く。
「ええ。あなたが初めてじゃないわ。才能のある画家たちを、私の檻の中に招き入れて、私だけを描かせて……でも、誰も最後まで私の愛に応えてはくれなかった。みんな、私から逃げ出すように壊れていった。私の愛は、あまりにも重すぎる」
菫は立ち上がり、ゆっくりと圭吾に近づいてきた。その足取りには、いつもの優雅さはない。どこか不安定で、人間的な揺らぎを感じさせた。
「ねえ、圭吾さん。あなたはどう思う? 私のことを、気味が悪いと軽蔑するかしら? それとも……」
菫の手が、圭吾の頬に触れた。冷たい指先が、彼の肌を撫でる。
その問いに、圭吾は答えられなかった。確かに、菫は異常だ。人の才能を私物化し、独占的な愛でがんじがらめにする、狂った収集家。だが、その狂気の奥底に潜む孤独と渇望は、どこか圭吾自身の中にあるものと共鳴していた。
「俺は……もう、戻れないところまで来てしまった」
圭吾は、絞り出すように言った。
「菫さんの檻の中で、俺は確実に壊れていっている。でも、それは菫さんのせいだけじゃない。俺自身の中にある、何かがそれを求めていたような……そんな気がする」
その告白に、菫の瞳が微かに潤んだ。
「ふふ……やっぱり、私は間違っていなかったわ。あなたは分かってくれるのね。私の孤独が、私の渇きが」
菫は、圭吾の胸に顔を埋めた。その仕草は、まるで迷子の子供のように儚かった。
「これからも私を描き続けて。私の全てを、あなたの歪んだ視線で切り取って。そして……私の愛を、最後まで受け止めてくれる? 私と一緒に、この檻の中で、永遠に」
その囁きは、甘美な毒のように圭吾の心に染み込んでいった。彼は、菫の髪に顔を埋めた。そこには、いつもの官能的な香りではなく、どこか懐かしい、人間的な匂いがした。
二人は、月明かりの中で長い時間抱き合っていた。それは、支配者と被支配者の
(ああ、これが……)
圭吾は、そう思った。自分は、この歪んだ愛の中でしか生きられない存在になってしまったのだ。それは、呪いであり、救いでもある。
月の光が、二人の影を一つに溶かし込んでいった。その光は、まるで永遠に続く檻の光のように、冷たく、そして慈しむように、二人を包み込んでいた。
―――
翌日から、二人の関係は微妙に、しかし確実に変化していった。
菫は相変わらず、圭吾に歪んだ要求をする。しかし、その要求の中に、どこか甘いものが混ざり始めていた。時には、ただ静かに寄り添うように座り、圭吾の筆の動きを見つめることもある。その視線には、支配欲だけでなく、何か切ないような感情が垣間見える。
圭吾もまた、菫を描く時の感覚が変わっていった。以前のような激しい屈辱感や自己嫌悪は薄れ、代わりに現れたのは、彼女の孤独に寄り添おうとする、歪んだ共感だった。描かれる絵も、官能と倒錯を孕みながら、どこか
それは、支配と被支配を超えた、もっと複雑な関係性の始まりだった。二人は、互いの歪みを受け入れ、そして慰め合う共犯者となっていく。その関係は、正常とは言えない。しかし、二人にとっては、それが最も自然な形だったのかもしれない。
アトリエの壁に並ぶ絵には、そんな二人の関係の変遷が、克明に記録されていた。最初の頃の、苦悶と屈辱に満ちた作品から、倒錯的な快感が滲み出る作品、そして今、生まれつつある、歪んだ愛情に彩られた作品へと。
それは、永遠に続く檻の中で、二つの孤独な魂が奏でる、狂った協奏曲のようだった。