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第4話 月光

 その夜、圭吾けいごは眠れなかった。昼間の出来事が、生々しい映像となって脳裏を駆け巡る。見知らぬ男と絡み合うすみれの姿。その光景を描かされた自分。そして、その過程で芽生えた背徳的な快感。吐き気と興奮が、波のように押し寄せては引いていく。


 アトリエの窓から、満月が冷たい光を投げかけていた。その光に照らされたイーゼルの上の絵が、まるで生き物のようにうごめいて見える。昼間描いた、あの一枚。菫と男の交わりの瞬間を切り取った、生々しい筆致。その絵に込められた、自分自身の歪んだ欲望。


(俺は、どこまで堕ちていくんだ……)


 自嘲的な笑みが、乾いた唇からこぼれた。もう、引き返すことはできない。それは分かっていた。だが、この先に何が待っているのか。その答えが見えないことが、圭吾をさいなんでいた。


 気分を換えるため、散歩をしようと部屋を出ると、廊下は月明かりに照らされ、まるで異界のような雰囲気をかもしていた。圭吾は、その幻想的な光の道を、キッチンがある方へと歩き始めた。


 と、その時。


 書斎らしき部屋から、かすかな物音が聞こえた。扉は半開きで、中から漏れる明かりが廊下の闇を薄く照らしている。圭吾は足を止めた。こんな時間に、誰が?


 覗き見るつもりはなかった。だが、扉の隙間から見えた光景に、圭吾は釘付けになった。


 菫が、一人で座っていた。豪奢ごうしゃな応接セットに、まるで人形のように端正たんせいな姿勢で。その手には、一枚の絵を持っている。見たことのない絵だった。若い男性の自画像のようだ。荒々しい筆致で、激しい感情を帯びた作品。


 菫は、その絵をじっと見つめていた。その表情には、圭吾が今まで見たことのない、何か切ないような感情が浮かんでいる。はかなさと執着が入り混じったような、形容しがたい表情。


「ねえ、あなたも、私を呪っているのかしら……?」


 菫の囁きが、静寂を破った。その声には、いつもの冷たさはない。どこか寂しげで、人間的な響きを持っていた。


「仕方がないのよ。私には、これしかできないの。誰かの才を、魂を、私だけのものにする。それが、私の愛し方なの」


 その独白どくはくに、圭吾は息を呑んだ。菫の言葉は、まるで告解のように、重く、そして痛々しかった。


「才能のある人間は、美しい。でも、その美しさは儚いもの。だから、私は閉じ込める。永遠に私のものにするの。でも、皆、私を受け止められずに、壊れていってしまう」


 その声は、次第に掠れていく。圭吾の胸に、奇妙な痛みが走る。これが、菫の本質なのか。孤独な魂が求める、歪んだ愛の形。そして、それを受け止めてくれる相手を探し続ける、永遠の放浪。


 不意に、菫が顔を上げた。その菫色の瞳が、扉の隙間に立つ圭吾と真正面から合った。


 一瞬、時間が止まったかのような感覚。


「……入りなさい」


 菫の声は、静かだった。怒りも取り繕いもない。ただ、事実を告げるような口調。


 逃げ出すことはできなかった。圭吾は、おずおずと書斎に足を踏み入れた。月明かりと、テーブルランプの灯りが、二人の影を壁に揺らめかせる。


「私のみにくい姿を、見てしまったわね」


 菫は、自嘲的に微笑んだ。その表情には、いつもの優位性は感じられない。ただ、疲れたような、諦めたような色が浮かんでいた。


「……菫さんは、以前にも、他の画家を?」


 圭吾は、震える声で尋ねた。菫は小さく頷く。


「ええ。あなたが初めてじゃないわ。才能のある画家たちを、私の檻の中に招き入れて、私だけを描かせて……でも、誰も最後まで私の愛に応えてはくれなかった。みんな、私から逃げ出すように壊れていった。私の愛は、あまりにも重すぎる」


 菫は立ち上がり、ゆっくりと圭吾に近づいてきた。その足取りには、いつもの優雅さはない。どこか不安定で、人間的な揺らぎを感じさせた。


「ねえ、圭吾さん。あなたはどう思う? 私のことを、気味が悪いと軽蔑するかしら? それとも……」


 菫の手が、圭吾の頬に触れた。冷たい指先が、彼の肌を撫でる。


 その問いに、圭吾は答えられなかった。確かに、菫は異常だ。人の才能を私物化し、独占的な愛でがんじがらめにする、狂った収集家。だが、その狂気の奥底に潜む孤独と渇望は、どこか圭吾自身の中にあるものと共鳴していた。


「俺は……もう、戻れないところまで来てしまった」


 圭吾は、絞り出すように言った。


「菫さんの檻の中で、俺は確実に壊れていっている。でも、それは菫さんのせいだけじゃない。俺自身の中にある、何かがそれを求めていたような……そんな気がする」


 その告白に、菫の瞳が微かに潤んだ。


「ふふ……やっぱり、私は間違っていなかったわ。あなたは分かってくれるのね。私の孤独が、私の渇きが」


 菫は、圭吾の胸に顔を埋めた。その仕草は、まるで迷子の子供のように儚かった。


「これからも私を描き続けて。私の全てを、あなたの歪んだ視線で切り取って。そして……私の愛を、最後まで受け止めてくれる? 私と一緒に、この檻の中で、永遠に」


 その囁きは、甘美な毒のように圭吾の心に染み込んでいった。彼は、菫の髪に顔を埋めた。そこには、いつもの官能的な香りではなく、どこか懐かしい、人間的な匂いがした。


 二人は、月明かりの中で長い時間抱き合っていた。それは、支配者と被支配者の抱擁ほうようというよりは、同じ孤独を抱えた魂同士の慰め合いのようだった。しかし、その慰めすら、どこか異様な色を帯びている。


(ああ、これが……)


 圭吾は、そう思った。自分は、この歪んだ愛の中でしか生きられない存在になってしまったのだ。それは、呪いであり、救いでもある。


 月の光が、二人の影を一つに溶かし込んでいった。その光は、まるで永遠に続く檻の光のように、冷たく、そして慈しむように、二人を包み込んでいた。



―――



 翌日から、二人の関係は微妙に、しかし確実に変化していった。


 菫は相変わらず、圭吾に歪んだ要求をする。しかし、その要求の中に、どこか甘いものが混ざり始めていた。時には、ただ静かに寄り添うように座り、圭吾の筆の動きを見つめることもある。その視線には、支配欲だけでなく、何か切ないような感情が垣間見える。


 圭吾もまた、菫を描く時の感覚が変わっていった。以前のような激しい屈辱感や自己嫌悪は薄れ、代わりに現れたのは、彼女の孤独に寄り添おうとする、歪んだ共感だった。描かれる絵も、官能と倒錯を孕みながら、どこかいつくしむような温もりを帯び始めていた。


 それは、支配と被支配を超えた、もっと複雑な関係性の始まりだった。二人は、互いの歪みを受け入れ、そして慰め合う共犯者となっていく。その関係は、正常とは言えない。しかし、二人にとっては、それが最も自然な形だったのかもしれない。


 アトリエの壁に並ぶ絵には、そんな二人の関係の変遷が、克明に記録されていた。最初の頃の、苦悶と屈辱に満ちた作品から、倒錯的な快感が滲み出る作品、そして今、生まれつつある、歪んだ愛情に彩られた作品へと。


 それは、永遠に続く檻の中で、二つの孤独な魂が奏でる、狂った協奏曲のようだった。


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