あの日から、どれくらいの時間が経っただろうか。時計を見る気力すら湧かず、
毎日、午後一時になると彼女は現れる。昨日と同じように、あるいは少しだけ違う表情で。そして、昨日と同じように、あるいは少しだけ違う角度で、その裸体を晒す。圭吾はそれを描く。ただひたすらに、木炭を動かし、絵の具を重ねる。
最初の衝撃と動揺は、繰り返される日常の中で、鈍い
制作は、遅々《ちち》として進まなかった。彼女の裸体は、何度見ても、何度描いても、その本質を捉えきれない。完璧すぎるフォルム、滑らかな肌の質感、そして何より、全てを見透かすような菫色の瞳。それらは、圭吾の技術と精神力を容赦なく削り取っていく。描けば描くほど、自分の才能の限界を、そして彼女という存在の底知れなさを思い知らされるばかりだった。
キャンバスには、苦闘の跡が生々しく刻まれていた。何度も塗り重ねられ、削り取られ、また描き加えられた線と色彩。それは、もはや単なるヌードデッサンや油彩画ではなく、圭吾自身の混乱と
「……手が、止まっていますわよ」
静寂を破ったのは、菫の声だった。氷のように冷たく、それでいてどこか甘美な響きを持つ声。圭吾ははっと我に返り、再び筆を握りしめた。
「少し、変化が欲しくなりましたわ」
菫は、ふいにそう呟いた。そして、ゆっくりと動き出す。これまでただ静かに立っているだけだった彼女が、まるでバレリーナのようにしなやかに、しかしどこか挑発的なポーズを取り始めたのだ。
片足を軽く上げ、つま先立ちになる。腕を高く掲げ、天を仰ぐような姿勢。あるいは、床に膝をつき、背中を大きく反らせて胸を強調するポーズ。その一つ一つが、計算され尽くしたように美しく、そして官能的だった。
「さあ、描きなさい。今の私を、捉えてごらんなさい」
菫色の瞳が、挑戦的に圭吾を見据える。その視線は、彼の画力だけでなく、精神の奥底までをも試しているかのようだ。圭吾は息を呑み、再びキャンバスに向かった。
動きのあるポーズは、静止した姿を描くよりも遥かに難しい。筋肉の躍動、体の捻り、光と影の複雑な移ろい。それらを瞬時に捉え、二次元の平面に落とし込まなければならない。だが、それ以上に圭吾を苦しめたのは、ポーズから滲み出る彼女の感情――。
ある時は、深い悲しみに沈む聖母のように。
ある時は、無邪気に誘惑する妖精のように。
またある時は、全てを焼き尽くすような激しい怒りを
菫は、まるでカメレオンのようにその表情と雰囲気を変え、圭吾を
描く対象が複雑さを増すにつれて、圭吾の
菫の要求は、日に日にエスカレートしていった。ポーズはより複雑に、要求される感情表現はより微細になっていく。それはまるで、圭吾という楽器を、彼女が意のままに調律していく過程のようだった。圭吾は、その要求に応えようと必死になるうちに、自分が彼女の描きたいイメージを具現化するための、単なる「筆」になりつつあることを感じ始めていた。
屈辱感はあった。だが、それ以上に、彼女の要求に応えられた瞬間に感じる、奇妙な達成感と高揚が、圭吾の心を捉え始めていた。それは、画家としての喜びとは似て非なる、もっと倒錯的な満足感。彼女に認められたい、彼女の期待に応えたい――そんな歪んだ欲求が、彼の創作の新たな原動力となりつつあったのだ。
―――
その日は、突然訪れた。
いつものように午後一時、菫はアトリエに現れた。しかし、彼女は一人ではなかった。背後に、影のように従う男がいた。年の頃は四十代だろうか。上質なスーツを着こなし、整えられた髪、しかしその顔には表情というものが一切なかった。まるで能面のようだ。男は部屋に入ると、菫の後ろに音もなく立ち、存在感を消した。
「……彼は?」
圭吾は、困惑しながら尋ねた。菫は、いつもの微かな笑みを浮かべる。
「私の、
客人? 見学? 圭吾の疑問は深まるばかりだった。しかし、菫の有無を言わせぬ態度に、それ以上問い詰めることはできなかった。
「さ、始めましょうか」
菫はそう言うと、男の存在など意にも介さない様子で、いつものようにドレスを脱ぎ始めた。絹ずれの音が、やけに大きく部屋に響く。男は、微動だにせず、その光景をただ無表情に見つめていた。
圭吾は、激しい動揺と嫌悪感に襲われた。見知らぬ男の前で、彼女は裸になるというのか? そして、自分はその光景を描けというのか?
「今日は、少し趣向を変えましょう」
裸になった菫は、圭吾ではなく、後ろに立つ男の方へゆっくりと歩み寄った。そして、男の目の前で、挑発的な笑みを浮かべた。
「ねえ、あなた。欲しいのでしょう?」
囁くような、甘い声。男は、それでも無表情のままだった。しかし、その瞳の奥に、微かな欲望の光が宿ったのを、圭吾は見逃さなかった。
菫は、男のネクタイに手をかけ、ゆっくりと緩めた。そして、その首筋に、白い腕を絡ませる。
「……何を!」
圭吾は、思わず叫んでいた。菫は、ゆっくりと圭吾の方を振り返る。その瞳には、冷たい
「決まっているでしょう? あなたに、描いていただくのですよ」
彼女はそう言うと、男の唇に、自らの唇を重ねた。
時間が、止まったかのように感じられた。
圭吾は、目の前で繰り広げられる光景を、ただ呆然と見つめるしかなかった。菫と、見知らぬ男が、静かに、しかし深く口づけを交わしている。それは、ひどく変態的で、
「……描きなさい」
唇を離した菫が、圭吾に命じた。その声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「この、美しい瞬間を。私の、悦びを。そして……彼の、抑えきれない欲望を」
圭吾の手は、鉛のように重かった。筆を持つ指が、わなわなと震える。描けるはずがない。こんな、
しかし、菫の視線が、彼を強く射抜いていた。拒絶など許さない、という絶対的な意志。そして、その瞳の奥には、奇妙な期待の色すら見えた。まるで、圭吾がこの状況にどう反応するのか、試しているかのように。
(これは……罰なのか? それとも……)
圭吾の脳裏に、様々な感情が渦巻いた。屈辱、怒り、嫌悪感、そして……ほんの僅かな、背徳的な好奇心。この極限状況で、自分は何を描き出すのだろうか。この異様な光景は、キャンバスの上で、どのような「美」へと昇華されるのだろうか。
彼は、深呼吸を一つした。震える手で、パレットナイフを握り、絵の具を混ぜ合わせる。
(描くしかない……)
それは、諦めであり、同時に一つの決意でもあった。この地獄のような状況から目を背けず、全てを受け入れ、そして描き切る。それが、今の自分にできる、唯一のことなのかもしれない。
圭吾は、再びキャンバスに向かった。ファインダー越しのように、目の前の光景を客観的に捉えようと努めた。菫の恍惚とした表情、男の硬直した体、二人の肌の質感、部屋に差し込む光と影。
しかし、描けば描くほど、彼の視線は、冷静な観察者のものではなくなっていった。それは、強制された
同時に、激しい自己嫌悪と屈辱感が、彼の精神を
だが、その苦痛の中に、奇妙な感覚が芽生え始めていた。それは、背徳感と密接に結びついた、抗いがたい快感だった。禁じられたものを見る興奮、それを描くという行為。その全てが、彼の心を歪んだ形で満たしていく。
筆は、以前よりも遥かに滑らかに、そして大胆に動いていた。描かれる絵は、生々しく、官能的で、見る者を不安にさせるような、不穏なエネルギーを放っていた。それは、もはや単なる写実画ではない。圭吾自身の、歪んだ欲望と苦悩が、色と形となってキャンバスに叩きつけられていた。
菫は、時折、圭吾の様子を盗み見ては、満足そうな笑みを浮かべていた。彼の
「ふふ……いい
男との口づけの合間に、菫が
圭吾は、唇を噛み締めた。屈辱で体が震えた。しかし、筆を止めることはできなかった。いや、止めたくなかったのかもしれない。この背徳的な快感から、もう逃れられないのかもしれない。
―――
どれくらいの時間が経ったのか。太陽は傾き、部屋は深いオレンジ色の光に包まれていた。男は、いつの間にか姿を消していた。まるで幻だったかのように、何の痕跡も残さずに。
アトリエには、菫と圭吾、そしてイーゼルに立てかけられた、異様な迫力を放つ絵だけが残されていた。
圭吾は、椅子に深く身を沈め、荒い息を繰り返していた。全身が鉛のように重く、精神は完全に消耗しきっていた。しかし、彼の瞳には、以前にはなかった奇妙な光が宿っていた。それは、絶望とも、諦観とも、あるいは歪んだ達成感ともつかない、複雑な光だった。
菫は、ゆっくりとドレスを身に纏いながら、完成に近づいた絵を満足げに眺めていた。
「素晴らしいわ、圭吾さん。今日のあなたは、今までで一番、私の心を捉えていた」
その声には、確かな称賛の色が籠もっていた。だが、それは圭吾にとって、何の慰めにもならなかった。むしろ、更なる絶望へと突き落とす響きを持っていた。
「……あなたは、俺をどうしたいんですか」
掠れた声で、圭吾は尋ねた。菫は、ゆっくりと振り返り、彼の目の前に立った。その菫色の瞳が、じっと圭吾を見つめる。
「どうしたいか、ですって? 決まっているでしょう?」
彼女は、そっと圭吾の頬に手を伸ばした。ひんやりとした指先が、彼の肌に触れる。
「あなたを、私のものにしたいのよ。あなたの才能も、あなたの劣情も、あなたの苦悩も、全て」
その言葉は、甘美な毒のように、圭吾の心に染み渡った。抗う気力は、もう残っていなかった。
「続きは、また明日にしましょう。もっと、素敵なものを見せてあげるわ」
菫は、
圭吾は、立ち上がることができなかった。ただ、窓の外の、闇に沈んでいく庭園を眺めていた。
(明日……また、これが続くのか……?)
絶望的な問い。しかし、その問いの奥底に、ほんの僅かな、歪んだ期待が芽生えていることを、彼は否定できなかった。この緋色の檻の中で、自分はどこまで堕ちていくのだろうか。その果てに、何があるのだろうか。
答えは、まだ見えない。だが、運命の歯車は、もう確実に、狂った方向へと回り始めていた。