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第2話 対峙

 重厚な鉄の門が、音もなく滑るように開いた。自動で開閉する仕組みらしい。車は砂利を踏む静かな音を立てながら、ゆっくりと邸宅の敷地内へと進んでいく。闇に沈んでいたはずの庭園が、車が近づくにつれて設置されたセンサーライトによって次々と照らし出され、手入れの行き届いた芝生や、彫刻のように剪定せんていされた植木が浮かび上がった。まるで、舞台装置が順番に起動していくかのようだ。


 やがて車は、石造りの壮麗な玄関ポーチの前に静かに停止した。すみれは先に車を降り、圭吾けいごを促す。


「さあ、着きましたわ。ここが、あなたの新しいアトリエであり、住処すみかです」


 その声には、何の感情もこもっていない。ただ事実を告げているだけだ。圭吾は息を呑んで車外に出た。見上げる邸宅は、想像以上に巨大だった。ヨーロッパの古城を思わせる、ゴシック様式の建築。闇夜にそびえ立つその威容いようは、美しくも、どこか人を寄せ付けない冷たさを放っている。高く切り立った壁、尖塔せんとうアーチの窓、そして屋根の上にはガーゴイルのような装飾まで見て取れた。


 玄関の重厚な木製の扉が、これもまた自動でゆっくりと開く。菫に導かれるまま中へ入ると、そこは別世界だった。高い天井には巨大なシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床には深紅の絨毯じゅうたんが敷かれている。壁には時代を感じさせるタペストリーや、重厚な額縁に収められた絵画がいくつも飾られていた。どれも、美術館で見るような一級品ばかりに見える。


 空気はひんやりとして、どこか人工的な花の香りが漂っていた。生活感というものが全く感じられない、完璧に整えられた空間。まるで、巨大なドールハウスに迷い込んだかのようだ。


「あなたの部屋はこちらですわ」


 菫は長い廊下を迷いなく進み、一つの扉の前で立ち止まった。静かに扉を開ける。


「ここを自由に使ってください。必要なものは一通り揃えてあります。もし足りないものがあれば、遠慮なく申し出てくださって結構ですわ」


 通された部屋は、圭吾が住んでいたアパートの数倍はあろうかという広さだった。中央には大きなイーゼルと、まだ真っ白なキャンバスが数枚立てかけられている。窓際には大きなデスクと、座り心地の良さそうな革張りの椅子。壁一面には作り付けの本棚があり、美術書や画集がぎっしりと並んでいた。奥にはキングサイズのベッドと、簡素だが清潔なバスルームも備え付けられている。窓の外は、先ほど見た庭園が広がっていた。


 画材も、最高級のものが揃えられていた。様々な種類の油絵具、アクリル絵具、水彩絵具。多種多様な筆やペインティングナイフ。スケッチブックやパステルまで。これだけの画材を自由に使えるなど、圭吾にとっては夢のような環境だ。だが、その恵まれた環境が、逆に彼の心を重くさせた。これは、金で買われた自由なのだと。


「アトリエとしても十分な広さでしょう。食事は時間になれば運ばせます。あなたはただ、制作のことだけを考えていればいいのですわ」


「……あの」


 圭吾は意を決して口を開いた。


「いつから……描けばいいのでしょうか?」


 菫は、部屋の中央に置かれた空のキャンバスに視線を移した。


「そうですね……まずは、この新しい環境に慣れていただくのが先決かしら。明日から、私を描いていただきましょう」


 その菫色の瞳が、ふと圭吾に向けられた。値踏みするような、それでいて何かを期待するような、複雑な光。


「明日の午後一時、この部屋に来ます。それまでに、描く準備を整えておいてください」


「描く準備、ですか」


「ええ」


 菫は小さく頷くと、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。静かに閉まる扉の音だけが、やけに大きく響いた。


 一人残された圭吾は、部屋の中央に立ち尽くした。広すぎる部屋、揃いすぎた画材、そして窓の外に見える完璧な庭園。全てが現実感を欠いていた。本当に自分は、あの薄汚いアパートから、この場所に連れてこられたのだろうか。まるで、長い夢を見ているようだ。


 彼はゆっくりとイーゼルの前に歩み寄り、真っ白なキャンバスに触れた。滑らかな、上質な画布の感触。ここに、これから自分は「彼女」を描くのだ。


――姿は、私が指定する。


 契約書にあったその一文が、再び頭をよぎる。嫌な予感が、みにくい期待が、胸の奥でざわめいた。



―――



 翌日。圭吾は落ち着かない気持ちで、約束の時間を待っていた。食事は時間通りに、無口なメイドによって部屋の前まで運ばれてきた。味は良かったはずだが、緊張のせいか、ほとんど喉を通らなかった。


 部屋の中を何度も歩き回り、画材を確認し、イーゼルの角度を調整する。普段なら制作前にする精神統一も、全く手につかなかった。ただ、時間が過ぎるのを待つしかなかった。


 午後一時、きっかりにノックの音がした。圭吾が緊張しながら「どうぞ」と応えると、扉が開き、霧島菫が入ってきた。


 昨日と同じ、黒いシンプルなドレス姿。しかし、今日の彼女はどこか雰囲気が違った。化粧はやはり薄いが、唇には艶やかな深紅のルージュが引かれている。そして何より、その瞳に宿る光が、昨日よりも強く、挑戦的になっているように感じられた。


「準備はよろしいかしら、高村たかむらさん」


「は、はい……」


 圭吾は頷きながら、イーゼルの横に立った。パレットには基本的な色をいくつか出しておいたが、それ以上の準備はできなかった。


「では、始めましょうか」


 菫はそう言うと、部屋の中央、圭吾がモデルのために用意しておいた椅子――ではなく、その手前の、何もない空間に立った。そして、ゆっくりとドレスの背中のファスナーに手をかけた。


 ジジジ……という小さな音が、静まり返った部屋に響く。圭吾は、息を呑んだ。まさか、と思った。


 菫は、何の躊躇ちゅうちょいもなく、ドレスを肩から滑り落とした。絹ずれの微かな音と共に、黒い布地が床に落ちる。現れたのは、白い肌だった。滑らかで、陶器のように一点の曇りもない、完璧な肌。


 彼女は、下着すら身に着けていなかった。


 完全な、ヌード。


 豊かな胸の膨らみ、くびれた腰のライン、そして恥丘ちきゅうへと続く緩やかな曲線。全てが、計算され尽くした芸術品のように完璧なフォルムを描いていた。しかし、それは決して冷たい彫像のような美しさではない。確かな体温と、生々しいまでの存在感を伴っていた。部屋に漂う彼女自身の甘い香りが、圭吾の鼻腔びくうをくすぐる。


 圭吾は、金縛りにあったように動けなかった。視線が、彼女の裸体に釘付けになる。画家として、ヌードモデルを描く経験は何度かあった。だが、目の前の光景は、それらとは全く異質のものだった。そこには、芸術のための献身や、モデルとしての職業意識といったものは微塵も感じられない。ただ、圧倒的な存在としての「霧島菫きりしますみれ」が、その全てをさらけ出して立っている。


 そして何より、彼女の表情。そこには、羞恥心など欠片もなかった。むしろ、愉悦ゆえつの色すら浮かんでいるように見える。その菫色の瞳は、動揺し、視線を彷徨わせる圭吾の姿を、面白がるように捉えていた。


「……何をしているの? 早く描きなさい」


 冷たく、しかしどこか甘さを帯びた声が、圭吾の耳朶じだを打った。


「これが、私の指定した姿よ。最初の課題は、この私を描くこと」


 圭吾は、ようやく我に返った。そうだ、これは契約なのだ。彼女の要求に従わなければならない。


 だが、体が言うことを聞かなかった。画家としての理性と、男としての本能が、激しくせめぎ合っていた。目の前の裸婦は、あまりにも蠱惑的こわくてきで、危険な匂いを放っていた。これを描く? この、神聖さすら感じる裸体を、自分の手でキャンバスに写し取る?


 それは、冒涜ぼうとく的な行為のように思えた。同時に、抗いがたい誘惑でもあった。


 震える手で、パレットナイフを握る。絵の具を混ぜ合わせようとするが、指先がうまく動かない。額には、じっとりと汗が滲んでいた。


「どうしたの? 筆が進まないようね」


 菫が、くすくすと笑う気配がした。


「もしかして、緊張しているのかしら? それとも……興奮している?」


 挑発的な言葉。圭吾は顔を上げることができなかった。自分のみにくい動揺を、彼女に見透かされている。それが、たまらなく屈辱的くつじょくてきだった。


「……描きます」


 圭吾は、絞り出すように言った。画家としてのプライド。いや、もはやそれは意地に近いものだったかもしれない。ここで描けなければ、自分は画家として完全に終わる。それだけではない、人としての尊厳すら失ってしまうような気がした。


 彼は深呼吸を一つすると、震える手で木炭を握り、キャンバスに向かった。まずは、デッサンからだ。彼女の姿を、冷静に、客観的に捉えなければ。


 しかし、木炭を持つ指は震え、描かれる線は頼りなく揺れた。視線は定まらず、彼女の肌のなまやかさや、体の曲線に吸い寄せられてしまう。冷静になろうとすればするほど、意識は目の前の裸体へと引き戻された。


 時間だけが、刻々と過ぎていく。窓から差し込む午後の光が、部屋の中をゆっくりと移動していくのが分かった。その光が、菫の白い肌を滑り、陰影を作り出す。その様は、息を呑むほど美しく、そして官能的だった。


 圭吾は、無我夢中で木炭を動かした。プライドも、屈辱も、興奮も、全てを忘れようとした。ただ、目の前の「美」を捉えることだけに集中しようとした。


 だが、描けば描くほど、自分が描いているのが単なる「ヌード」ではなく、「霧島菫」という個の存在であることを、嫌でも意識させられた。彼女の視線が、常に自分を捉えている。試すような、あるいは誘うような、その菫色の瞳から逃れることはできなかった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。太陽は西に傾き、部屋はオレンジ色の光に満たされていた。


「今日は、ここまでにしましょうか」


 不意に、菫が言った。彼女はゆっくりと床に落ちたドレスを拾い上げ、再び身に纏う。その一連の動作には、何の淀みもなかった。


 圭吾は、ようやく呪縛じゅばくから解かれたように、大きく息を吐いた。全身が、どっと疲労感に襲われる。精神的な消耗が激しかった。


「……どうかしら? 初めてにしては、まあまあ、かしらね」


 ドレスを着終えた菫が、圭吾の背後からキャンバスを覗き込んだ。そこには、まだ輪郭しか捉えられていない、頼りない線で描かれた彼女の姿があった。


「続きは、また明日。同じ時間に」


 菫はそれだけ言うと、部屋を出て行った。残されたのは、彼女の残り香と、イーゼルに立てかけられた未完成のヌードデッサン、そして、心身ともに疲れ果てた圭吾だけだった。


 圭吾は、椅子に崩れるように座り込んだ。画家としての矜持きょうじは、粉々に打ち砕かれた気がした。しかし、同時に、心の奥底で何かがうずくのを感じていた。それは、恐怖か、屈辱か、それとも……。


 彼は、自分が描いたばかりのデッサンを睨みつけた。歪んだ線、定まらない輪郭。しかし、そこには確かに、あの裸体の残像が焼き付いていた。


(……明日も、またこれが続くのか)


 絶望的な気持ちと、それに相反する倒錯的な好奇心。二つの感情が、圭吾の中で渦を巻き始めていた。この緋色の檻の中で、自分はこれからどうなってしまうのだろうか。答えは、まだ見えなかった。


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