重厚な鉄の門が、音もなく滑るように開いた。自動で開閉する仕組みらしい。車は砂利を踏む静かな音を立てながら、ゆっくりと邸宅の敷地内へと進んでいく。闇に沈んでいたはずの庭園が、車が近づくにつれて設置されたセンサーライトによって次々と照らし出され、手入れの行き届いた芝生や、彫刻のように
やがて車は、石造りの壮麗な玄関ポーチの前に静かに停止した。
「さあ、着きましたわ。ここが、あなたの新しいアトリエであり、
その声には、何の感情も
玄関の重厚な木製の扉が、これもまた自動でゆっくりと開く。菫に導かれるまま中へ入ると、そこは別世界だった。高い天井には巨大なシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床には深紅の
空気はひんやりとして、どこか人工的な花の香りが漂っていた。生活感というものが全く感じられない、完璧に整えられた空間。まるで、巨大なドールハウスに迷い込んだかのようだ。
「あなたの部屋はこちらですわ」
菫は長い廊下を迷いなく進み、一つの扉の前で立ち止まった。静かに扉を開ける。
「ここを自由に使ってください。必要なものは一通り揃えてあります。もし足りないものがあれば、遠慮なく申し出てくださって結構ですわ」
通された部屋は、圭吾が住んでいたアパートの数倍はあろうかという広さだった。中央には大きなイーゼルと、まだ真っ白なキャンバスが数枚立てかけられている。窓際には大きなデスクと、座り心地の良さそうな革張りの椅子。壁一面には作り付けの本棚があり、美術書や画集がぎっしりと並んでいた。奥にはキングサイズのベッドと、簡素だが清潔なバスルームも備え付けられている。窓の外は、先ほど見た庭園が広がっていた。
画材も、最高級のものが揃えられていた。様々な種類の油絵具、アクリル絵具、水彩絵具。多種多様な筆やペインティングナイフ。スケッチブックやパステルまで。これだけの画材を自由に使えるなど、圭吾にとっては夢のような環境だ。だが、その恵まれた環境が、逆に彼の心を重くさせた。これは、金で買われた自由なのだと。
「アトリエとしても十分な広さでしょう。食事は時間になれば運ばせます。あなたはただ、制作のことだけを考えていればいいのですわ」
「……あの」
圭吾は意を決して口を開いた。
「いつから……描けばいいのでしょうか?」
菫は、部屋の中央に置かれた空のキャンバスに視線を移した。
「そうですね……まずは、この新しい環境に慣れていただくのが先決かしら。明日から、私を描いていただきましょう」
その菫色の瞳が、ふと圭吾に向けられた。値踏みするような、それでいて何かを期待するような、複雑な光。
「明日の午後一時、この部屋に来ます。それまでに、描く準備を整えておいてください」
「描く準備、ですか」
「ええ」
菫は小さく頷くと、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。静かに閉まる扉の音だけが、やけに大きく響いた。
一人残された圭吾は、部屋の中央に立ち尽くした。広すぎる部屋、揃いすぎた画材、そして窓の外に見える完璧な庭園。全てが現実感を欠いていた。本当に自分は、あの薄汚いアパートから、この場所に連れてこられたのだろうか。まるで、長い夢を見ているようだ。
彼はゆっくりとイーゼルの前に歩み寄り、真っ白なキャンバスに触れた。滑らかな、上質な画布の感触。ここに、これから自分は「彼女」を描くのだ。
――
契約書にあったその一文が、再び頭をよぎる。嫌な予感が、
―――
翌日。圭吾は落ち着かない気持ちで、約束の時間を待っていた。食事は時間通りに、無口なメイドによって部屋の前まで運ばれてきた。味は良かったはずだが、緊張のせいか、ほとんど喉を通らなかった。
部屋の中を何度も歩き回り、画材を確認し、イーゼルの角度を調整する。普段なら制作前にする精神統一も、全く手につかなかった。ただ、時間が過ぎるのを待つしかなかった。
午後一時、きっかりにノックの音がした。圭吾が緊張しながら「どうぞ」と応えると、扉が開き、霧島菫が入ってきた。
昨日と同じ、黒いシンプルなドレス姿。しかし、今日の彼女はどこか雰囲気が違った。化粧はやはり薄いが、唇には艶やかな深紅のルージュが引かれている。そして何より、その瞳に宿る光が、昨日よりも強く、挑戦的になっているように感じられた。
「準備はよろしいかしら、
「は、はい……」
圭吾は頷きながら、イーゼルの横に立った。パレットには基本的な色をいくつか出しておいたが、それ以上の準備はできなかった。
「では、始めましょうか」
菫はそう言うと、部屋の中央、圭吾がモデルのために用意しておいた椅子――ではなく、その手前の、何もない空間に立った。そして、ゆっくりとドレスの背中のファスナーに手をかけた。
ジジジ……という小さな音が、静まり返った部屋に響く。圭吾は、息を呑んだ。まさか、と思った。
菫は、何の
彼女は、下着すら身に着けていなかった。
完全な、ヌード。
豊かな胸の膨らみ、くびれた腰のライン、そして
圭吾は、金縛りにあったように動けなかった。視線が、彼女の裸体に釘付けになる。画家として、ヌードモデルを描く経験は何度かあった。だが、目の前の光景は、それらとは全く異質のものだった。そこには、芸術のための献身や、モデルとしての職業意識といったものは微塵も感じられない。ただ、圧倒的な存在としての「
そして何より、彼女の表情。そこには、羞恥心など欠片もなかった。むしろ、
「……何をしているの? 早く描きなさい」
冷たく、しかしどこか甘さを帯びた声が、圭吾の
「これが、私の指定した
圭吾は、ようやく我に返った。そうだ、これは契約なのだ。彼女の要求に従わなければならない。
だが、体が言うことを聞かなかった。画家としての理性と、男としての本能が、激しくせめぎ合っていた。目の前の裸婦は、あまりにも
それは、
震える手で、パレットナイフを握る。絵の具を混ぜ合わせようとするが、指先がうまく動かない。額には、じっとりと汗が滲んでいた。
「どうしたの? 筆が進まないようね」
菫が、くすくすと笑う気配がした。
「もしかして、緊張しているのかしら? それとも……興奮している?」
挑発的な言葉。圭吾は顔を上げることができなかった。自分の
「……描きます」
圭吾は、絞り出すように言った。画家としてのプライド。いや、もはやそれは意地に近いものだったかもしれない。ここで描けなければ、自分は画家として完全に終わる。それだけではない、人としての尊厳すら失ってしまうような気がした。
彼は深呼吸を一つすると、震える手で木炭を握り、キャンバスに向かった。まずは、デッサンからだ。彼女の姿を、冷静に、客観的に捉えなければ。
しかし、木炭を持つ指は震え、描かれる線は頼りなく揺れた。視線は定まらず、彼女の肌の
時間だけが、刻々と過ぎていく。窓から差し込む午後の光が、部屋の中をゆっくりと移動していくのが分かった。その光が、菫の白い肌を滑り、陰影を作り出す。その様は、息を呑むほど美しく、そして官能的だった。
圭吾は、無我夢中で木炭を動かした。プライドも、屈辱も、興奮も、全てを忘れようとした。ただ、目の前の「美」を捉えることだけに集中しようとした。
だが、描けば描くほど、自分が描いているのが単なる「ヌード」ではなく、「霧島菫」という個の存在であることを、嫌でも意識させられた。彼女の視線が、常に自分を捉えている。試すような、あるいは誘うような、その菫色の瞳から逃れることはできなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。太陽は西に傾き、部屋はオレンジ色の光に満たされていた。
「今日は、ここまでにしましょうか」
不意に、菫が言った。彼女はゆっくりと床に落ちたドレスを拾い上げ、再び身に纏う。その一連の動作には、何の淀みもなかった。
圭吾は、ようやく
「……どうかしら? 初めてにしては、まあまあ、かしらね」
ドレスを着終えた菫が、圭吾の背後からキャンバスを覗き込んだ。そこには、まだ輪郭しか捉えられていない、頼りない線で描かれた彼女の姿があった。
「続きは、また明日。同じ時間に」
菫はそれだけ言うと、部屋を出て行った。残されたのは、彼女の残り香と、イーゼルに立てかけられた未完成のヌードデッサン、そして、心身ともに疲れ果てた圭吾だけだった。
圭吾は、椅子に崩れるように座り込んだ。画家としての
彼は、自分が描いたばかりのデッサンを睨みつけた。歪んだ線、定まらない輪郭。しかし、そこには確かに、あの裸体の残像が焼き付いていた。
(……明日も、またこれが続くのか)
絶望的な気持ちと、それに相反する倒錯的な好奇心。二つの感情が、圭吾の中で渦を巻き始めていた。この緋色の檻の中で、自分はこれからどうなってしまうのだろうか。答えは、まだ見えなかった。